十四 いつかは、いま
前回の反動で→
きちんと起きて。
精一杯お仕事しましょう。
私の心の小鳥が潰れてしまわないように。
「暫く帝都で過ごすわ。夫の希望なの」
蠱惑的に片目を瞑られた奥様に、リンさんも私も、かあっと顔を赤くしました。しどけなく纏められた射干玉の髪が、白い首と胸を、より強調いたします。
「もうっ、惚気ないでくださいよ、奥様」
リンさんが頬を膨らませても奥様は涼しいお顔。ちらっと私に目線を流されたので、必死で胸の痛みを堪えました。
「では身の回りのお支度をいたします」
きゅっ。
紅の唇が弧を描きます。
「一人寝は寂しいのですって、男って可愛いわね。ふふ」
「じゃあ、留守番お願いね。アサツキさん」
お迎えの馬車が奥様を乗せられて出立しました。次いで、にこやかに玄関に立たれたリンさんをお見送りいたします。
「はい、リンさん。お気をつけて」
奥様のいらっしゃらないこの期間、休暇をくださいました。
私は行く当てもございませんのでお留守番を、沢山のお土産を手にされたリンさんは、南区から離れたご実家へと帰られました。
玄関の扉が閉まると、へたり、足から力が抜けました。
土間はしんと静まり、泣く訳にはいけません。奥歯を噛み締めました。
弱虫を追い払うように、ばしばし、両頬を打てば涙が滲みました。手加減してしまったようです、もう一度ばしっと叩きました。
じぃんと熱を持つ頬、手の平は赤くなっておりました。
「泣いちゃだめ、頑張れ、私」
二日後。
お昼過ぎのことでした。
馬車が一台停車されて、至急帝都に来て欲しいとご使者がいらしたのです。手鏡を忘れたとおっしゃいました。
「この鏡が一番のお気に入りよ」
お荷物に纏めた筈の手鏡は、何故だか、奥様の寝台から出て参りました。割れないよう布で包み込み、馬車へと乗ったのです。
がらがら。
素朴な馬車は南区の街並みを抜け、輝く緑英石に守られた帝都へと向かいます。
入都手続きに、門では少し時間がかかりましたが、無事許可を得ました。
車窓から見える小高い丘。
数多の灯りに照らされて、白い大理石仕立ての回廊に繋がれた建物たちは、異国情緒に溢れておりました。中央の尖塔にかけられた時を刻む大時計。
小窓を開ければ、季節を彩る黄色の花の香り。
ああ、ここは。
異国の要人方をお招きして、夜毎、豪華絢爛な夜会が開催される光揚館。そう。女学校の友と、初めて社交練を迎えた場所です。
今はもう遠い思い出。
「こちらへ」
懐かしさに目を細めていると、支度部屋の一室に案内されました。
奥様はこちらにいらっしゃるのかしら。
きょろきょろと見渡しましたが、お姿は見えません。代わりに、大きな姿見の横に掛けられた一枚のドレスに釘つけになりました。
これは。
「…わ、たし、の」
黒いレースのあしらわれた、光沢のある錫色。
あなたにぴったりね夏毛になった黒ウサギみたい、と、友に揶揄われた私の。
「ど、どうして、ここに」
口から飛び出した疑問に答えるように、お仕着せを召した数人の女性が扉から現れました。え。
「お支度を手伝います、お嬢様」
え。
あの。
驚きの余りぱちぱち瞬きする間に、ひ、服を脱がせられてしまいました。コルセットをぎゅうと絞めてくださる鮮やかな手つき。
ひ、久しぶりの苦しみでした。
ドレスを纏い、お化粧まで施してくださり、あ、ありがとうございます。髪を梳られた時点で、ようやくはっといたしました。
こ、この状況は一体何でしょうか。
どなたかと、ひ、人違いされておりませんか。
「いえ、お嬢様に間違いございません」
「髪をお結いする時間はないようです。どうぞこちらへ」
見苦しくないよう高い位置で一つに結ってくださって、黒いリボンが揺れました。
赤い絨毯は、履かせていただいた踵の高い靴が映えました。
「こちらの径をお行きください」
ガラス戸の向こうには山茶花の径があり、この先に奥様が待っていらっしゃるのだと、疑いもしませんでした。
瞬き始めた星の下、一人辿った先には、けれどもどなたもいらっしゃいませんでした。奥様とお呼びしましたが、小さな白い長椅子があるだけです。
なだらかな斜面の広がる、この景色。
星と月の夜空。
まさか。
「春になれば、此処は一面れんげ野原になるのですよ」
びくりと震え、手鏡を落としてしまいました。
振り返れば、泡となって消えてしまう気がするのです。
でも。
振り向かずにはいられませんでした。
闇に浮かぶ白いシャツと黒の社交服。風に揺れる亜麻色の髪。柔らかな笑みを湛えられて、ご存知でしたかと甘く響く声。
「黒ウサギさん」
どうして。
何故、あなたが。
手の届く位置へ、いつの間に移動なさったのでしょうか。その鳶色の瞳には、私の姿が映っておりました。ゆ、め。
これは夢です。だって。
だって。
綺麗な線を描く頬はお別れした朝よりも、鋭くて。
はらりと掛かる前髪は随分と伸びておられて、つい、指で触れてしまいました。
柔らかな、でも、確かな感覚。ああ、あの煽情的な、ほくろはそこにございませんでした。深い傷跡だけが。
「…初めて、あなたから触れてくれましたね」
熱を含んだ声は、夜を揺らさぬよう、本当にささやかなものでした。髪を払った私の手を、白い手袋に包まれた大きな手できゅっと握られるから、かぁ、熱が顔に集中してしまいました。
わ、私ったら、何て無作法を…っ。
「困ります」
え?
「あなたは可愛すぎて、本当に困ります…攫いたくなる」
かっ?
「どうか私と踊ってください、黒ウサギさん」
「わ、私こそお願い、いたし、ます」
やっと絞り出した声は、みっともない程、震えておりました。
左手は私の右手を包み、右手は私の腰に。
当然ですが、身体を寄せ合った舞踏姿勢に、鼓動は高鳴るばかりです。ち、近い。くらくらして、もう、何も考えられなくなりました。
ちちち、可愛い虫たちが歌う舞踏曲。
「ずっとあなたと踊りたかったのです。ようやく叶いました」
そ、それは、私の台詞です。
「あなたはウサギのように逃げていましたよ」
う。
形の良い唇で紡がれる曲に、聞き覚えがございました。
在りし日の軍曹さんのおじい様が、おばあ様に贈られた歌、『花のために』。
「私は、あなたのために」
悪戯が成功したような、そんなお顔、ずるいです。私も歌い出せば、驚かれたように見開く瞳。ふふ、ちょっとすっきりいたしました。
「…舞も歌も、どうか、私だけに」
視線を合わせて、手を合わせて、お互いの熱を分け合う、この幸せ。
二人で歌い、踊る、この幸せ。
どうしよう。
込み上げてくる思いは熱くて、目の前の広い胸に額を預けたくなりました。はしたないと思われるでしょうか。
だって、甘えたいのです。
とんと額を押し当てて、甘えてもいいですかと小さくお聞きしました。瞬間、長い二つの腕が私の身体に巻き付いて、ひゃ、ははは恥ずかしいです。
嘘です、嬉しい、です。
「お帰りなさい、魔法使いさん」
私を抱きしめてくださるこの方は、軍曹さんではございません。異国の名のトエルフ様でもございません。今だけは私だけの魔法使いさん。
思い出のドレスも。
素直になれたのも。
あなたの魔法。
「私も、甘えさせてください。口づけても?」
く?
ちゅ。
可愛らしい音を残して、私の額に、頬に振って来る熱。
「甘い」
いやあぁ、あまいって、甘いって。
「あなたがいけない、可愛すぎるから。次は唇にしても?」
ぺろりと舌を出された魔法使いさんに、ぼふん、私は爆発しましたとも。いえ、そんな場合ではございません。
必死で首を振った私は悪くない筈です。
だ、誰もいませんよと言われても、こ、ここは外です。いけません。
「では、挑戦します。あなたの唇を賭けて」
賭ける程のものでは、ご、ございませんっ。
「あの木立まで鬼ごっこしましょう、鬼の私に捕まらず、逃げ切れたならあなたの勝ち」
前に同じ挑戦をしました、と、言う暇もございませんでした。ひゅ、開始の指笛を鳴らされたのです。
「十、九、八」
「ひ、卑怯です」
ま、まだ靴も脱いでおりませんのに。
焦って投げ出して走り出しました。足裏に草の湿りを感じたのは、えっ、僅かな時間でした。
「捕まえた」
まだまだ目標の木立には遠い位置で、腰を捉えられたのです。ちょ、ちょっと、ま。
大地に引き倒されて、ぐるんぐるん、二人して転がってしまいました。これ、わざと、です。きゅう。目がまわります。
もうもう。草まみれ。
「卑怯でいいです、本気でしたので。今度は逃がしてあげられません」
あ、あの?
耳元で囁かれて、何だか背筋がぞくぞくいたしました。
「お、怒っていらっしゃいます?」
「ええ、とても」
「どうしようもなくあなたに逢いたかった」
あなたの心を繋ぎとめる術を、遠く離れた地で、どれ程望んだでしょう。
あなたは私を待っていてくれるだろうか。帰国したならどう説明しようか。もう一度私の元へ戻ってきてくれるだろうか。
悩まない日はありませんでした。
なのに。
あなたは港にいて、他の男に笑いかけていた。私があなたの肩に触れるまで、どれ程努力したか知らないでしょう。
自分の狭量を知りました。
帝都では、あなたの名は汚され、地に落ちておりました。
それは全て、私の親戚によるもので、まして身一つで家を追い出されたと知った時の衝撃は、とても言い表せません。
だから、あなたは、他の男を選んだ。
心が砕けました。
あなたを諦めなければならない悔しさに、何度、涙を吞み込んだでしょう。ですが、あの男だけは許せません。彼だけは、絶対に。
せめて他の男ならばと、ようやくそう思えたのに、あなたはまた私の自制心を試そうとする。もう知りません。
私はあなたを諦めません。
「あなたって人は、絶望的に可愛いのだと、いい加減理解するべきです」
「…はい?」
初めてお聞きする、拗ねられたような魔法使いさんの口調に、どきどきしていた私。お話しの半分も、ええ、理解できませんでした。
ええと、まずは。
この、寝転んだ体勢をどうにかいたしませんか?
だ、抱きしめられたままなのですが。
「いやです」
え、え、え。
「…膝枕なら譲歩します」
「セーリクにしていたのでしょう、知っていますよ」
帰省される度に兄様に膝枕していたことを、ど、どうしてご存じなのでしょう。膝に乗った亜麻色の髪を、おそるおそる撫でれば、とても艶やかでした。
先程まで憮然とされていた雰囲気は消え、むしろ、ご機嫌になられたみたい。
もう。
「挑戦は、私の勝ちでした。口づけして、いいですね?」
ぴきりと固まりました。
私の頬に当てておられて左手は、不意に、後頭部へと回ったのです。ぐい。
え。
引かれたなら、私の頭は下がるしかないのですが、ひぃ。慌てて首を傾けましたが、私の唇は魔法使いさんの綺麗な鼻に当たってしまったのです。
「…惜しい」
片目を眇められた表情はとても悔しそうなのですが、お、惜しくありません。
「あなたから口づけてくれるでしょうか、いつか」
ええ。
いつか。
ちゅ。
いつか、は、今です。
瞼に口づけを、お、贈りましたとも。
は、は、恥ずかしいっ。
「…光栄です。もう一度お願いします」
強請られて何度口づけしたのかは、絶対に、誰にも内緒です。
→吐く程甘くなりました。
読み返して全デリートは何度もありますが、今回、記録更新。
軍曹さんめ、くそう。
お読みいただき、ありがとうございました。




