十三 月が見ていた
「たすけてぇアサツキさぁん」
今日も私の名前を呼ぶ、リンさんの声が聞こえます。うっかりお皿を落とされたのでしょうか、それとも、奥様がドレスを破られたのかしら。
ともかく急いで駆けつけましょう。
遅くなると良いことはございません。
「はい。すぐに」
五日前、町で出会ったリンさんが、まさか南区のシュン家でご奉公なさっているとは、夢にも思いませんでした。
奥様のお顔を見て、ぶるりと身が震えました。
「アサツキさんって、ウィア版元で働いていたよね。最近姿が見えないから、魔王に攫われたって噂していたのよ。辞めちゃったの?」
「え、ま?え?」
「あら、あなた、職を探しているの?」
リンさんが何故私の事を知っておられるのか不思議でしたが、唇を吊り上げる奥様の妖艶さに、目を何度も擦ってしまいました。
「仕事をするなら、あたくしを手伝ってくれないかしら。あなたみたいな人、探していたの」
そんな風に請われたとしても。
頷いてはいけなかったのです。
だって。
奥様の夫、ニダカ トエルフ リーク様は、軍曹さん、なのですから。
お傍を望んではいけないのです。
あの交流会の夜、柔らかい朧月を思い出すと胸がつきんと痛みます。傷ついた私の頭を何度も撫でてくださった、あの優しい手。大きな手の平は温かく、耳をくすぐる甘い声、吐息の熱。
何もかも魔法にかかったよう。
でも、夢ではないのだと、私の心に住む小鳥が囁いておりました。
やっぱり、あなたは軍曹さん。
別の方の名を名乗っていらっしゃるけれど、私、あなたを間違えたりしません。
ただ。
異国の方に扮されて、私を知らないふりをなさる理由を、ああ、ちゃんと考えなくてはなりません。答えはイレフ様のお言葉通りなのでしょう。
軍曹さんは、辛い過去と決別され、別人になられたのです。
それが軍曹さんのお望みならば。
大切なご家族をお捨てになられた軍曹さん、どんなに辛い思いをされたのでしょう。別の人生を望まれて、素敵な女性を妻に迎えられたのなら、私の選ぶべき道は一つです。
この思いを、諦めなければ。
身を切るように痛んでも、私は、お傍を望んではならないのです。
軍曹さん。軍曹さん。軍曹さん。
一目だけ。
どうか一目だけ。
そうしたならば、私、諦めますから。どうか。
その願いは偽りだったとすぐに気付きました。
「アサツキさんが来てくれて、良かったぁ。ずっと居てね」
田舎とはいえ裕福な庄屋の娘さんであったリンさんは、とても天真爛漫な方です。ふっくらされた頬を赤らめて、今まで働いたことなかったのと、おっしゃられる可愛さと言ったら。もう。
お揃いの絵皿は、結局、三枚とも駄目になってしまいましたが、お叱りはないようで良かったです。高価な香水瓶を、同じ様に奥様も、割ってしまわれたからでしょうか。
「女中頭から言われてこの離れで奉公するようになったけど、あたし、異国の言葉も習慣も分からなくて」
「リンは粗忽なのよ。不器用だし」
奥様の言葉に、たちまちリンさんは唇を尖らせました。小さな反撃をいたします。
「奥様だって何もしないくせして」
「あら。あたくしだって小さい頃は働いたわ、だから、使用人を雇う身となった今では何もしたくないの」
嬉しい言葉をいただいて、胸が温まります。
同時に、罪悪感も押し寄せました。
「ねえねえ、聞いて。今日の夕方、旦那様がみえるらしいわ」
食事は、毎回、シュン家母屋から差し入れくださいます。けれども奥様の好みは異国風ですので、少し手を加えさせていただくのですが、最中のお台所へとリンさんがいらっしゃいました。
旦那様。
心臓がどくりと飛び跳ねました。
「異国人だけど、旦那様はいい人よ。とっても素敵なの」
夢見るようにリンさんがおっしゃって、私の胸に住まう小鳥も羽ばたきました。くすぐったくて、甘くて、苦しくて。
軍曹さん。
心の中はぐちゃぐちゃで、あんなにもお逢いしたく思っておりましたのに、いざ、その時が参りますと、こわくなりました。
声よ、震えないで。
「お忙しくいらして、この離れにはいらっしゃらない、の、でしたね」
「そうよ。旦那様は一人で帝都にいるの。奥様も着いていけばいいのに、此処がいいって我が儘言ってねぇ」
どくどくと響く心臓の鼓動に、リンさんの声はかき消されてしまいます。
「女の我が儘は、男にとって、喜ばしいのよ」
不意に響いた声に、私は、全身の血が消え失せる感覚でした。ふふっと空気が揺れます。
「子どもなリンには分からないかしら。まして、夫は、あたくしに夢中だもの」
「もう、奥様、惚気ないでくださいよぅ」
ぎゅ。
ぎゅう。
心痛むまま、夕刻はすぐにやってまいりました。玄関の開く音に、リンさんが駆けつけて、ああ、心臓が飛び出してしまいそう。
『ごきげんよう』
甘い声でした。
「こ、こんにちは、旦那様」
『おや、新しい使用人が入ったのですか?』
ど、どうしたらいいのでしょうか、ご挨拶するべきでしょうか。と、ともかく居間の隅で控えるしか思いつきません。
ああ、軍曹さんの声です。魔法のように、私の心は震えました。
軍曹さん、私…。
『ええ、名前はアサツキと言うの。ふふ、貴方は覚えているかしら。交流会で出会った天女よ』
『…さあ、分かりません。あの日は大勢の人に会ったので』
その声に、甘さはございませんでした。
世界が、ああ、凍ったかのよう。
俯いた私の視界は自分の足先だけで、軍曹さんの靴先さえ見えません。世界は徐々に涙で滲んで行き、なので、頭を下げ続けました。
あんなにも見たいと思った亜麻色の髪。
すぐそこで、きらきら輝いていらっしゃるのに、こんなにも遠いのです。
『あなた、薄情だわ。ふふ』
『貴女以上の女神など存在しませんよ、美しい人』
私は、莫迦です。
一目だけと言いながら、本当は、それ以上を期待していたのです。
鳶色の瞳に私の姿を映されて。
私の名前を呼んでいただけたなら。
ああ、私は何て、浅ましいのでしょう。
この方は、もう、軍曹さんではございませんのに。
でも、思いは消せなくて。
好きです。好き。好きです。
軍曹さん。
いっそ、泡のように消えてしまえばいいのに。
その夜、同室のリンさんに知られないよう、声を殺してお布団の中で泣きました。
どうして私は此処に居続けるのでしょうか。
こんなにも辛くて、胸が痛むのに、自分自身でも答えが見つけられません。複雑な思いを抱え、日の出と共に起き、お食事を作り、お掃除して。
そして今日も、涙。
「どのドレスにしようかしら」
「いいなぁ、奥様。あたしも帝都に行きたい」
晩餐会に招かれた奥様は、今宵、帝都へとお出かけを予定しております。
羨ましそうにため息を吐かれるリンさんと一緒に、このドレスかしら、やっぱりこっち、待ってこれかしらと着替えられる奥様。
その度にぽいと放られるドレスと宝飾品の数々で、山は高くなって行くばかり。
異国文化に慣れておられないリンさんは、こういった物の取り扱いが不得手ですので、当然、私のお仕事です。
結局、黄金色のドレスに決定いたしました。
白くてたわわな胸が、あの、零れそうです。大きな鏡には真っ赤に染まる私の顔も映し出されて、そのお隣で奥様は髪を纏められ、お化粧を施しておりました。
その慣れた手つき。
「そんな不思議そうに見ないで、二人共。あたくし、何でもできるって言ったでしょう」
ふふっと笑われた唇は、蠱惑的でした。
「あたくし、それこそリンよりも、生れが悪いの。獣の子なのよ」
け、けもの?
遠い目をされた奥様は、それ以上おっしゃることなく、白い繊手を差し出されました。
手にしていた布を解き、現れた翡翠の髪飾りを軽く磨いて、お渡しします。奥様にお似合いの大振りの宝石は、髪の中で、咲き誇ります。
「とても良くお似合いです」
「ふふ、ずっと昔に、あの方もそう言ったわ。あの時から、翡翠は、あたくしの特別なの」
鮮やかな紅を刷いた唇で紡がれて、私の髪を見つめられました。
「あなたの黒のリボンと同じね」
一つに括った髪に、右手が、はっと動きました。そこには黒いリボンが揺れて、やっぱり私は、この色を選んでしまうのです。
軍曹さんに繋がるこの黒は、私の、特別。
奥様の何もかも見透かされていらっしゃるような瞳に、言葉は出て来ませんでした。
「それって旦那様から言われたのですか。いいなぁ」
「あら、今の夫は五番目だけれど、残念ながらどの夫との思い出ではないわ。あたくしの片恋よ」
え。
ご、五番目?
唖然となってしまったのは私だけでなく、リンさんの口もかぱりと開き切っておりました。そんな私たちの様子が如何にも可笑しいと、ふふっと笑われる奥様。
「夫が五人って変かしら?」
「そりゃ、そうですよ…」
「この国の女はね、異国の男たちにとっては宝石にも等しいの。国を出たら引く手あまたね、リン、あなたも異国に行ってみなさいな。色んな男が寄って来てよ?」
「え、え、えぇ?」
ぶんぶんと手を振るリンさんから私へと流された奥様の視線は、思いの他、強い光が宿っておりました。
「アサツキ、あなたは異国に行くべきね。欲しがる男がたくさんいるわ」
え、あの。
「此処にいるより、辛い思いはしないわよ?」
何とお答えすべきでしょうかと口籠った時、呼び鈴が響き、玄関の扉が開くからからした音が聞こえたのです。
旦那様だわと、リンさんが駆け出しました。
『ごきげんいかがですか』
リンさんに先導され、足音の静かに入室なさった旦那様は、ぱりっと社交服を身に纏われておりました。照明の灯りに亜麻色の髪が透けて、きらきら輝きます。
壁際に控えた私は、一瞬だけ目にした軍曹さんのお姿に、ああと思いました。
多分。
この瞬間のために、私はここにいるのです。
『ドレス姿を褒めてくださらないから、不機嫌になったわ』
『貴女は今日も美しい。言葉を失くす程です』
女性の私でさえ、奥様の魅力にくらくらしてしまうのですから、軍曹さんが抱き寄せられ、頬を寄せられるのも、当たり前なのです。
『誰よりも美しき貴女』
ぎゅう。
ぎゅうう。
「では行ってくるわね」
「はい、奥様」
玄関戸が閉まる音、こつこつ踵の音が遠ざかるまで腰を折りました。
「はぁ、旦那様は今日も素敵ね。見て、いただいちゃった」
その手にはころんとした形のガラス製の杯があって、良かったですねと締まった喉から何とか吐き出しました。
私は、お言葉さえ、いただけません。
「私、お台所を片付けますね。お湯、お先にどうぞ」
「うん、じゃあね」
一人になったお台所で、食器同士の当たるかちゃかちゃした音に、涙が零れました。ぽとん。
頬を伝うと、もう堪え切れなくて、お勝手から抜け出しました。りるりると涼やかな虫の音に、ぽとぽとと涙は尽きません。
私の胸の小鳥も、恋しいと鳴いているのに。
ひぃっく。
泣いて。
泣いて。
泣いて。
雲のかかったお月さまだけが、全てを見ておりました。
お読みいただき、ありがとうございました。
セシカ、辛い回です。




