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十一 信じたいのに

大変遅くなりました。


 けっ?


 寝台の四隅を支える柱には精緻な蔦の彫刻、ふかふかで柔らかな寝具。

 私にはもったいない程の上等なお部屋を使わせていただいて、だから、私はおかしくなってしまったのでしょう。

 イレフ様のお口から、変なお言葉が飛び出されたような?

 え、け?


「大事にするよ、ウサギさん。結婚しよう」

「はい?」


 ひゅん。


 またもおかしな単語が聞こえたのですが、首を傾げる一瞬の間に、イレフ様の背後には大きな黒い影が出現しました。

 ひ。

 い、いえ、社長でした。

 数秒前までは窓際の椅子に佇んでいらしたのに、ぎゅっと握られた拳を高々と振り上げられて、あ、危ないですイレフ様。

「痛っ」

 ごつっと大変鈍い音がしましたが、だ、大丈夫でしょうか?

「殴るぞ、イレフ」

「いや、もう殴った後だよね?」

 頭を擦りながらイレフ様は社長を睨まれましたが、相対される社長のお顔のこわいこと、こわいこと。な、何故。

「威嚇してもだめだよ、サージェ。僕は申し出を取り下げない」

「こいつは俺のだ」

 ぎりぎりと睨み合われるお二方、ど、どうか冷静に。

 社長は、俺の、のお言葉の後ろに社員が抜けていらっしゃいますし、こんな小さな傷で責任をお取りいただく必要はございません、イレフ様。

 第一、け、結婚って何ですか。


「じゃあウサギさんに決めてもらおう。僕か君か」

 兄弟喧嘩はいけませんとおろおろしておりましたが、えっ、私?


「僕かサージェか、ウサギさん、君はどっちと結婚する?」


 はい?

 えっと、ご冗談ですよね、もう。社長だって分かっていらっしゃる筈です、そんな赤いのだか青いのだかお顔をなさらないで、イレフ様をお止めください。

「私には軍曹さんがいらっしゃいますけれど?」


 お二人して、何故、眉をしかめられるの?


「彼は選択肢に入っていない、僕かサージェか選んでもらうよ」

 そうおっしゃるイレフ様も、社長も、同じ黒の瞳は深い色に輝いておりました。


 少し考えて、ええ、決めました。


「私のお返事はこれです」

「ウサギさん?」

「アサツキ、何の真似だ」

 丁度正座をしておりましたので、そのまま三つ指をきちんと付き、額を擦りつけました。

 寝台の上では様になりませんと思いながら。


「社長、お願いいたします。どうか私にお暇をください」


 たくさんご迷惑をおかけいたしました。

 恩をお返しすることもできず、お仕事を放り出すことは本当に心苦しいのですが、私、社長のお傍を離れます。


「な、に?」

「今までお世話になりました。どうかお許しください」


 お部屋はしんと静まり返り、身動ぎの音さえ聞こえなくなりました。

「お前が、いなく、なる?」

 ぽつん。

 天から降り落とされた雨の一粒のよう。

「俺の傍から?」


「…誰に脅された」

 え?

「出て行けと、誰に脅された。言え」

「ち、ちが」

「お前を傷つけた相手だな、そいつが言ったからお前は…っ」

「君は相手を見た筈だ、誰だい?言ってごらん」

「それともお前を守れなかったから、だからなのか。俺に失望したのか」

「…僕が、結婚なんて言い出したからかい?」

 お二人からの矢継ぎ早な問いかけに、何度も首を振りました。

 違います、違います。

 どなたのせいでもございません。自分の力不足や身分を痛感し、私自身が考えて、決心したのです。どうかご理解ください。

「分かるか、お前は俺の」


「お約束もお守りできず、申し訳ございません。社長」


「…許さん、絶対だ」

「あっ」

 怒気を孕んだまま、社長が私の肩を引かれ、その勢いは強すぎました。ごろんと寝台から転げ落ちてしまったのです。痛っ、つい右手をついてしまい、ずきんと痛みました。

 でも構っていられません、それよりもお許しをいただかなくては。

「お願いいたします」

「アサツキ、俺は絶対に認めん」

「やめなさい、サージェット。彼女の傷に障る」

 痛む右手、包帯の白にじわりと滲み出るのは赤色。それを見とめられた社長は、はっと、私の両肩を放してくださいました。

 眉間を摘まれながら深いため息を一つ漏らされたイレフ様は、保留だと口にされました。

「保留しよう、僕も、君も。いいね?」



「創部の状態は良くありませんな」

 汚れの滲んだ包帯に、再度、お医者様に診ていただくことになりました。

「これは縫わなければなりませんね」

 ぬ?

 助手さんが布に包まれた器具を取り出されて、ぴかりと銀色に光る剪刀や針たち。

「どうした、アサツキ」

 すでに顔色は悪くなっているのでしょう、ひ、秘密にしてまいりましたが白状しなければならないようです。

「刃物や血がこわい、の、です。絶対に倒れますから、ぬ、縫わないで」

 ください…の言葉まで言えませんでした、だって唇が震えてしまったからです。恥ずかしさを堪えて必死でお願いしましたのに、お部屋に居合わせた皆さまは、ぷっと吹き出されたのです。

「お前の弱点か。可愛いな」

 何かおっしゃいましたか、社長。

「俺が抱いていてやる、安心して倒れろ」

 え、遠慮いたします。


「麻酔しますから、痛くありませんよ」

 微笑まれるお医者様の手には、銀に煌めく太い針のついた注射器。

 い、痛い痛くないの問題ではないのですが、お医者様は当然、その助手さんも、そして侍女様も、イレフ様も分かってくださらない。

 隙を伺って机の下に逃げ込みました、ええ、私は弱虫です。


 注射、いや、です。


 出て来なさいとおっしゃられても、こ、こればかりはだめなのです。

 脅されたり宥められたりしましたが、頑として机の下で抵抗を続けましたとも。ついにイレフ様が最終手段に出られたようです。

「カール。ウサギさんを捕まえて」

 カール?

 大きな黒い毛並みの犬さんが、くぅんと喉を鳴らして、狭い机の下に入り込んでいらっしゃいました。まあ。真っ黒の濡れたお鼻に、三角のお耳。

 可愛い。

「わぅん」

 え、撫でてもよろしいの?

 ふりふり尻尾につられて、つい、机から出てしまいました。当然、あちこちから伸びてきた手に確保されたのは言うまでもございません。


 ひ、卑怯です。


「カール、そこをどけ。アサツキ、俺に抱きつけ」

 で、できる訳ございません。

 治療はこわいし、社長もこわいし、何だかお部屋には失笑で満ちておりますし、こうなったなら目をぎゅっと瞑るしかないではありませんか。

 助けてカール。

 ひしっと抱きつきました。



「君は本当に可愛いよね」

 処置を終えて寝台で横になった私は、へろへろ。

 お見苦しさ満載ですのに可愛いとはこれ如何に、イレフ様。

「今後の身の振り方を聞かせてくれるかな、それなりの準備をした上での発言だったよね?アサツキの家に帰るのかな?」

 う。

「あ、新しい職と住む場所を探すつもりで」

「却下。その傷は毎日診察が必要だし、利き手が不自由では仕事もできないよ。この家にいるべきだ」

 う。

「君のことだ、迷惑とか費用とか考えてのことだろうけれど、僕たちから逃げ出そうなんて考えが甘いよ」

 うう。

 つい社長を見上げてしまいましたが、漆黒の瞳がぎらりと反射して、きゅ、救出は諦めます…。

「俺と帰る、そう言え。アサツキ」

「それも却下。せめて傷が癒えるまではこの家で面倒を見るよ。サージェは南区に帰りなさい」

 しっしと手を払うイレフ様って、すごいです。でも、手は出さないから安心しなさいとは、どういう意味でしょうか?


 そんな訳で、しばらく〈貴〉のお城で過ごすことになりました。

 人生って上手くいかないものです。

 それならばせめて、イレフ様や社長に手放しても大丈夫だと安心していただけるように、自分を変える時間でありたいです。

 結婚なんて冗談を言い出されたのは、きっと、私を案じてくださったのですから。


 でも。


 固く決意したはずなのに、ああ、お医者様が見える度に机の下に隠れてしまう私って…。


「サージェット様の選んだ方は、何とも面白いお嬢さんだの」

「お似合いだと思います」

「イレフレート様の楽しそうなご様子は初めてですな」


 私が使わせていただいているお部屋に見えるのは、イレフ様や社長以外、お医者様関係の方々と伯母さまに似た侍女頭オオテ様だけです。

 毎日、面映ゆい思いです、ええ。

 そんな私を慰めてくださるのは、カールを始め、五頭の犬さんたち。

 とっても可愛いのです。

「カール、ほら、ウサギさんが逃げたよ。捕まえて」

 くすくすと楽しそうなイレフ様、犬さんと綺麗なお庭を散歩して、オオテ様に時には叱られる穏やかな日々。

 南区のお邸に戻られた社長も、お忙しいでしょうに、毎日お見舞いくださいます。

「サージェ、気を引くお土産の一つも持って来なさい」

 けけけ結構ですから、憮然となさらないで、社長。


「良いようですね、抜糸しましょう」

 つ、ついにこの時がやってまいりました。

 処置に必要な先の尖った鋏が、助手さんの手によって並べられて、その鋭さに、ひやり汗が流れました。

「アサツキ、俺が傍にいる」

 真っ黒な毛並みに頬を埋めてぶるぶる震える私を、カールごと囲ってくださらなくても、が、頑張りますから。

 社長。


「治療終了ですよ」

 そうしてお医者様からお墨付きをいただきました。


「ウサギさん、どうしても決心は変わらないのかい?」

 はい。

 またしても寝台の上で頭を下げましたが、今まで良くしてくださったイレフ様のため息は、心に沁みます。きゅっと唇を噛み締めました。


 親身になってくださる方々を、今から、傷つけるのです。

 私が。

 でも、真摯とはそうであるべきだから。

 

「お許しください、私は弱虫で、身分をつらく思うのです」


 いつしか、お医者様方やオオテ様のお姿はございませんでした。私の膝の上、カールの熱だけが勇気を与えてくださいます。

「…身分」


 身分は、果たすべき役割を表すだけのもの。

 上だとか下だとか、人を差別すべきものではございません。


 でも。


「鞭打つ者よ」

 白百合のお方はそうおっしゃいました。

 〈貴〉は下々を鞭打つ者。

 あの瞬間に私の心は凍り付いて、悲しく思うと同時に、軽い失望も感じたのです。そう、社長がおっしゃったように。

 やっぱり、身分は私を苦しくさせる。とてもこわいもの。

 この優しい方々も、いつしか、私を鞭打つのでしょうか。

 その思いが拭えないのです。


「こ、こわがりで、ご、ごめんなさい」


「俺が、お前を鞭打つと言うのか。俺が信じられないのか」

 血を吐くようなお声でした。

 びくりと身を竦めることしかできません、ああ、傷つけてしまいました。お守りすべき社長を、私自身が。

 

 信じたいのに。


 こんなにも信じたいと思っているのに。

 できないのです。

 私の、弱虫。


「俺は、俺はお前を」

「やめなさい、サージェ。彼女が怯える」


 ウサギさん、と穏やかなイレフ様のお声にも、震えを止められません。

「君が謝る必要はない。君に〈貴〉が何たるか身をもって教えられなかった、僕たちの責任だ」

 違うのです、違うのです。

 私が弱虫なだけなのに、そんな悲しそうなお顔をなさらないで。


「僕たちでは君を幸せにできないんだね」

 ごめんねと、悲しみに満ちたお声。


「手放すよ、ウサギさん。君を」



お読みいただき、ありがとうございました。

兄弟の監禁計画を阻止するのは誰か?

何度も書き直し、やっぱり本人に頑張ってもらいました。



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