ただ静かに消えたい
お手をどうぞと差し出された手は、まるで物語の王子様のように滑らかで優雅で、イヴェットは指先まで気を配って手を預けた。
二度目のデートは、王立博物館が改装中とのことで、植物園を訪れた。
彼のイメージ通りの場所に、なぜだか少しほっとする。
フランソワは、細やかに気遣いながら適切な距離を保ち、軽薄な言動はしない。
それは少し噂とは違っている。彼はいつでも女性の心を攫っては、傾倒されると流れていくと聞く。
噂は、しょせん噂。とはいえ、軽薄そうな男性だった方が、イヴェットにとっては有難いかもしれない。
気配りのいちいちに、優しさのひと欠片ずつに、胸がざわついて、戸惑って、狼狽えてしまいそうになる。
「湖面が静かなので、花が美しく映りますね。ボートに興味は?」
「ええ」
「……やめておきましょうか。水面に反射した光が、あなたの肌を傷つけてはいけない」
慣れた手つきでボートを漕ぐフランソワを見て落ち着きたかったのに、特に興味がないことを読み取られてしまった。
完璧な淑女であることが、イヴェットの持つ唯一の盾だというのに、最近どうもうまくいかない。
────どうして。このままでは、いけないわ。
胸の奥底で燻る恐怖を、心の臓を突き刺す悲鳴を、血の一滴ずつを凍らせる慟哭を、知られてはいけない。
最後のその時は、彼らの記憶からするりと抜け落ちてしまわなければ、この身は意味を成さなくなる。
ほんの一瞬、腕に添えていた手が震えて、意地で抑え込む。
冷えきった手に大きな手が重なって、すぐに離れていく。
「四阿に行きましょうか。あたたかい飲み物でも」
「……ええ」
ああ、やめて。いつでも凍えて寒いことなんて、誰にも気づかれたくないの。
次からは、手袋を二枚にしようかなどと考えていたから、段差に躓いた。
傾いだ瞬間、強く逞しい腕に引き寄せられて、硬い胸に抱かれる。
バクン、と確かに、大きく、鼓動が跳ねた。まるで、叫びに共鳴するかのように。
ひゅっと息を吸った喉に、ぬるい空気が入り込む。
「……大丈夫ですか」
声は、触れている胸元から直接響いた。
凍える芯を揺さぶるような甘やかな声に、指先が戦慄く。強く唇を噛んで、ようやく首を動かした。
ああ、怖い。この人は、恐ろしい。
このまま凍てついて何も感じなくなりたいのに、どうして、許してくれないのだろう。
正気になど戻りたくない。狂ってしまうから。だから、見逃してほしい。
「…………ええ。もちろんですわ」
努めて冷静にと思ったら、想像したより冷えた声がまろび出た。
だめよ、冷静に。淑女は、負の感情を見せたりしないのよ。常に微笑んで、しなやかに、淑やかに。
身体を離した頃に、ようやくいつも通りに笑みを装着できた。
フランソワは、何かを言いたそうに口を開いたが、結局言葉を飲んだ。
心情的にはぐったりと帰宅したイヴェットは、父に出迎えられて足を止めた。
多忙な父がわざわざここにいるというなら、何か用事があるのだろう。
微笑みながら、ゆっくりと礼をとる。
「ただいま戻りました」
「ああ。フランソワとは、うまくやっているか」
「滞りなく」
そう、何も問題はない。
イヴェットが、一人じたばたと足掻いているだけ。たいした問題ではない。
「……おまえは、どうしたい」
婚約のことを聞いているのだろう。言葉の足りない父の意図を汲み取り、イヴェットはわずかに黙した。
そして、もう習慣となった笑みを返す。
「その時には、御心のままに」
運命の日が訪れたら、きっとみんな今日までのことなど忘れる。
だから、心配はいらない。フランソワは彼女に心惹かれ、父の関心もそちらへ向く。心配ない。
あと、ほんの少しの時間だけ、イヴェットはここにいる。




