いつか、わたしを捨てる父
淑やかに階段を降りたところで、父がエントランスに姿を見せた。
イヴェットは、完璧な淑女の笑みを浮かべて出迎える。
「おかえりなさいませ」
「ああ。今帰った」
色味はヒロインそっくり、けれど中身は渋めな父は、無表情のまま淡々と頷く。
これは特に不機嫌とかではない。おそらく、これでもだいぶ機嫌はいい方だ。
「晩餐を共に」
「ええ。喜んで」
という会話は定型文。
無表情と仮面笑顔で滞りなく交わしたら、判を押したように互いに私室へ戻り支度をする。
幼い頃、いずれ父に捨てられるのだと、イヴェットは知ってしまった。それがよかったのかどうかはわからない。
ただ、気づけばイヴェットは、父の前でも誰の前でもうまく表情を変えられなくなった。
ヒロインの恋を羨ましくは思わない。でも、家族や周囲が、いずれ自分を切り捨てると知っている。
そう決められているのなら、イヴェットには何ができるというのか。
大貴族としての教育を受け、裕福な生活を送ることは、未成年の貴族令嬢の義務。
理由なく家を出ることはできないし、その術もない。でも、それすらも本当は罪なのかもしれない。
前世なんて記憶を持ってはいても、ほとんどがゲームの内容で占められていて、個に関する情報はあまりない。
庶民だった、という覚えはあるが、それがどのような生活かは記憶にない。
この世界は筋書きの決められた物語である。
イヴェットが知っているのは、たったこれだけなのだ。
────知らないよりは、いいのかしら。
もう何度目かも知れない自問自答を、また繰り返す。心構えができるだけいいのだと言い聞かせる。
そうしていなければ、とても、真面ではいられない。
「婚約が決まった」
普段なら、無言のまま終えるはずの晩餐は、父の言葉で延長が決定した。
デザートが下げられ、エスコートされるままソファへと移動する。
体温が下がる心地で、父からの言葉を待つ。
ゲームの中では、イヴェットはただ放逐されるためだけに存在したキャラクターだったため、婚約者がいたとは知らなかった。
無意識に肩が震え、気づいた父が上着を脱いでかけてくれる。
「……婚約は、望んでいないか」
太陽の光を反射する若葉のような瞳が、わずかに気遣わしげな色を称えた。
咄嗟に、イヴェットは首を振る。失望されたくないと、とうの昔に捨てたはずの心が、コトリと音を立てた。
「恐れながら……」
イヴェットの第一声に、父がほんの少し表情を強ばらせた気もしたが、今はそこまで気を回せない。
声が震えないように、努めてお腹に力を込めた。
「……わたくしには、是非を左右する権限はありません。ただ、もし、許されるのでしたら、あと三ヶ月。三ヶ月だけ、猶予をくだされば」
「三ヶ月? おまえの誕生日か」
なぜだか泣きたい心地で、イヴェットは頷く。
父は毎年、誕生日を欠かしたことはない。無愛想だけれど、優しい人だと知っている。
理由を尋ねられるかと思ったが、父はあっさりと頷いた。
「なら、婚約は待とう。ただ、相手が強くおまえを望んでいる。交流のみなら構わないか?」
「はい。ありがとうございます」
どうせ、婚約することはありえない。
でも、交流だけという譲歩を覆せるだけの材料を、イヴェットは持っていなかった。
「……おまえは」
立ち去るかと思われた父は、しかしソファを立つとこちらへ近づき、あろうことか足元に片膝をついた。
あまりにも驚いて、イヴェットは父に向かい合うように、カーペットにぺたりと座り込む。
さら、と父の癖のない白金が、美麗な顔にかかった。
鮮やかな翡翠が、イヴェットを捉える。
「もう少し胸を張りなさい。おまえは、筆頭公爵家の娘だ」
「…………はい」
答える声は、ほとんど吐息に掠れて、届いたかどうか。
大きな手が一度だけ頭の上に乗り、やがて気配が遠ざかっていった。




