第二話 女神が与えた猶予
国王は、退位までの半年を無駄にするつもりはなかった。少なくとも、本人はそう考えていた。
「加護を延長する方法を探せ」
王宮の会議室に、国王の命令が響いた。
「神殿の文献を全て調べよ。歴代聖女の記録もだ。女神の力を継承する儀式があるのなら、それを探し出せ。必要な人員と予算は、惜しむな」
宰相ヴァルデック侯爵が、恭しく頭を下げた。
「御意にございます」
52歳の宰相は、洗練された物腰と冷静な判断力で王の信任を得ていた。だが、彼が最も重視するのは国の存続ではない。現在の秩序の存続だった。
結界がなくなれば、貴族たちは自ら領地を守らねばならない。軍備を整え、農地を管理し、民を養うための費用も必要になる。それは、貴族たちが長年享受してきた利益を損なうことを意味していた。
「陛下。加護を延長できる可能性があるのなら、まずはそちらを追求すべきです。防衛費の増額や備蓄の再建は、その後でも遅くはございません」
「うむ。余もそう思う」
国王は満足げに頷いた。
その場にいた王太子アルベルトだけが、険しい顔をしていた。
「父上。順序が逆です」
「何?」
「加護を延長できるかどうかは、まだ判りません。ですが、国境の砦が老朽化していることも、備蓄が不足していることも事実です。今すぐ着手すべきです」
「加護が続くなら、不要な出費になる」
「続かなかった場合には、取り返しがつきません」
王太子の言葉に、会議室が静まり返った。
アルベルトは28歳。次代の王となるべく教育を受け、国内の統治機構についても一通り学んできた。しかし、実際の政務を任されるようになってから、彼は奇妙なことに気づき始めていた。
軍備の予算は年々減少している。農業用水路の整備計画は、豊作が続いたことを理由に何十年も前に中止されている。食料備蓄は、毎年の収穫が十分であるという理由で縮小され、今では凶作が一年続いただけでも危うい量しか残っていない。
それらは全て、過去の政策決定記録に明記されていた。誰も、隠そうとしていたわけではない。必要がないと思っていたから、やらなかっただけなのだ。
「父上。今までの豊かさは、私たちの政策によるものではありません」
アルベルトは言った。
「聖女の祈りと女神の加護によるものです。私たちは、その事実を認めなければなりません」
国王の顔が険しくなった。
「では、余の治世は何の成果もなかったと申すのか」
「そうではありません。しかし、これから先の国を守るためには、過去の成果を誇るだけでは足りません」
「黙れ!」
国王が机を叩いた。
「お前はまだ王ではない。余の治世を否定する権利はない!」
アルベルトは口を閉ざした。だが、心の中では決意していた。
父が認めないのなら、自分が動くしかない。
大神殿の書庫では、連日、古文書の調査が続いていた。
エレノアもまた、歴代聖女の記録を読み進めていた。そこには、彼女が初めて知る事実が記されていた。
初代聖女は、就任から11年で職を退いていた。二代目は9年。三代目は7年。その後も、聖女の任期は長くて15年、短い場合には数年に過ぎなかった。
記録の多くには、似たような文言が並んでいる。長期の祈祷による衰弱。結界維持の負担による体調不良。女神託を受けた後の昏倒。
そして、ある時期から、聖女の交代は儀式化していた。新たな聖女が選ばれると、国民は喜び、王宮は盛大な祝宴を開く。前任の聖女がどうなったのかについては、記録が曖昧になっていた。
エレノアは、古い手記の一冊を手に取った。そこには、先代聖女が最後に残した文章があった。
『この国は、私がいなくなっても大丈夫だろうか』
短い一文だった。その下には、さらに小さな文字で書き添えられていた。
『国境の砦は修繕されず、北の村では魔物による被害が増えていると聞く。けれど、王宮は豊作を祝い、私が祈れば問題はないと言う。私は、何を守っているのだろう』
エレノアは手記を胸に抱いた。先代も、同じことを考えていたのだ。彼女が知らないところで、何人もの聖女が同じ不安を抱き、同じように祈り続けてきた。
そして国は、何も変わらなかった。
「エレノア様」
声をかけてきたのは、大神官セラフィムだった。
「こちらもご覧ください」
老人が差し出したのは、建国時代の政策記録だった。
初代国王が女神の加護を受けた後、国土は急速に回復した。荒れた土地には草木が芽吹き、枯れた井戸から水が湧き、魔物の脅威も遠ざかった。初代国王は、女神に感謝し、国の復興を誓っていた。
だが、記録を読み進めるうちに、エレノアは眉を顰めた。
「これは……」
農業用水路の建設計画。国境の砦の修繕計画。兵士の訓練制度の整備。食料備蓄の拡充。いずれも、建国直後に立案されていた。
そして、その多くが、数年のうちに縮小、或いは中止されていた。理由は、どれも同じだった。女神の加護により、必要性が低下したため。
「初代国王も、加護が終わることをご存じだったのではありませんか」
「そのとおりです」
大神官は苦しげに頷いた。
「女神は明確に告げていました。三代の間に国を立て直し、その後は自らの力で生きよ、と」
「では、なぜ」
「初代国王は、女神の言葉を都合よく解釈したのでしょう。三代もあれば国は十分に豊かになり、加護がなくとも繁栄は続く。そう信じたのです」
「しかし、豊かになることと、自立することは違います」
「ええ」
大神官は、深く頷いた。
「初代は加護に感謝しながら、加護が終わる恐怖から目を背けた。二代目は、父王の時代から続く豊かさを当然と考えた。そして三代目は、加護の終わりそのものを忘れてしまった」
エレノアは書類の束を見つめた。
女神は、国を立て直すための時間を与えた。しかし人間は、その時間を使って、加護がなくても生きていける国を築こうとはしなかった。
「大神官様」
「はい」
「この記録を、全て公表してください」
老人は顔を上げた。
「国民に知られれば、混乱が起きます」
「知らなければ、何も変わりません」
エレノアは静かに答えた。
「私たちは、これ以上、真実を隠してはいけないのです」
大神官は長く沈黙した。
やがて、彼は深々と頭を下げた。
「……解りました。神殿は、もう一度、真実と向き合わねばなりません」
数日後、大神官は王宮に古文書と政策記録を持参した。
国王は書類を一枚ずつ確認し、やがて苛立たしげに顔を上げた。
「何故、このような計画が中止されている!」
「当時の判断でございます、陛下」
「余の知らぬところで、このようなことが決められていたのか」
宰相が静かに口を挟んだ。
「陛下。過去の判断を今さら責めても、仕方がございません。それより、加護を延長する方法を見つけることが先決です」
「そうだ。方法があるはずだ」
国王は書類を机に置いた。
大神官は、その様子を見つめていた。彼は長年、神殿の権威を守るために沈黙してきた。王家が望む言葉を選び、民が不安にならないよう、都合の悪い記録を奥へしまい込んできた。
だが、今、目の前にいる王は、記録を読んでもなお、そこから学ぼうとしない。
「陛下」
大神官は言った。
「女神は、加護を永遠に与えるとは約束しておりません」
「では、どうしろと言うのだ!」
「加護があるうちに、為すべきことを為すべきだったのです」
国王は答えなかった。答えられなかったのだ。自分の代で国が危機に陥る。歴史に、愚かな王として名を残す。その恐怖が、彼の目を曇らせていた。
そして、その恐怖から逃れるために、彼は再び、都合のよい希望へ手を伸ばした。
「聖女を呼べ」
国王は命じた。
「聖女なら、女神の意思を受け取れる。加護を延長する方法も、知っているかもしれぬ」
大神官は、目を伏せた。
国王はまだ、聖女をひとりの人間として見ていなかった。自分が必要とする力を供給してくれる存在としてしか、考えていなかったのだ。
その夜、エレノアは再び女神の声を聞いた。
『あなたは、私を恨みますか』
不意の問いに、エレノアは目を見開いた。
「いいえ」
『あなたは、長い年月、私の力を受け取り続けてきました。身体を損ないながら、国を守ってきた。私の加護が終われば、あなたが積み重ねてきたものも失われるかもしれません』
「それでも、女神様を恨むことは出来ません」
エレノアは、少し考えてから答えた。
「ですが……ひとつだけ、知りたいことがあります」
『何でしょう』
「なぜ、人間を永遠に守ってはくださらないのですか」
長い沈黙があった。
『かつて、私は一つの国を永遠に守ろうとしました』
女神の声は、遠い記憶をたどるように静かだった。
『雨を降らせ、病を退け、魔物を遠ざけ、作物が絶えぬようにした。人々が苦しむたび、私は手を差し伸べた。人間が望むものを与え続ければ、彼らは幸福になると思ったのです』
エレノアは黙って聞いていた。
『やがて、その国では、人々が自ら水路を掘らなくなりました。兵士は剣を振るわなくなり、王は民を守るための策を考えなくなった。誰もが、私が何とかしてくれると信じたからです』
光が僅かに揺れた。
『私が力を弱めたとき、国は滅びました。人々は、私がいなければ何ひとつ出来なくなっていたのです』
「……それで、三代の猶予を」
『人間は、失敗することもあります。与えられた機会を無駄にすることもあります。それでも、自分たちで選び、失敗から学び、立ち上がる力を持っています』
女神の声は、厳しくも優しかった。
『私は、その力を奪いたくないのです』
エレノアは目を閉じた。
女神は、人間を見捨てたのではない。人間が自ら生きる力を失わないよう、敢えて終わりを定めたのだ。
「女神様。私は、これからどうすればよいのでしょう」
『あなたは、既に十分に務めを果たしました』
その言葉に、エレノアの胸が震えた。
『あなたが祈ることをやめても、私はあなたを責めません。あなたの命は、国の所有物ではないのですから』
彼女の目から、涙が零れた。
14歳のあの日から、誰も言ってくれなかった言葉だった。
聖女なのだから。国を守る使命があるのだから。あなたが耐えれば、多くの人が救われるのだから。そう言われ続けてきた。
けれど、女神は言った。あなたの命は、国の所有物ではない。
「……ありがとうございます」
エレノアは涙を拭った。
もう、自分ひとりで国を支えることはしない。それは国を見捨てることではない。人々が自らの足で立つ機会を、これ以上奪わないための決断なのだ。
窓の外では、夜明け前の風が吹いていた。残された時間は、あと五か月。
今度こそ、人間自身が選ばなければならない。




