第一話 祝福された国のほころび
王都の鐘が、朝から絶え間なく鳴り響いていた。
年に一度の豊穣祭。王宮前の大広場には、黄金色の麦穂を編んだ飾りが並び、噴水には色とりどりの花が浮かべられている。街路には焼きたてのパンの香りが漂い、広場を埋め尽くす人々の顔には、満ち足りた笑みがあった。
「女神様のご加護に感謝を!」
「聖女様、どうか今年も我らに豊かな実りを!」
人々の歓声に迎えられ、聖女エレノアは祭壇へと進んだ。
22歳。淡い銀金色の髪と、澄んだ青い瞳を持つ彼女は、神殿の白い聖衣に身を包んでいた。その姿は絵画から抜け出してきた女神の使徒のように美しかったが、衣の下の身体は、長年の奉仕によって静かに蝕まれていた。
8年前、14歳で聖女に選ばれたとき、エレノアは何も知らなかった。
女神の意思を受け取り、祈りを捧げれば、国を守る結界が維持される。大地は豊かになり、雨は適切な時期に降り、魔物は国境を越えられない。それが聖女の務めだと教えられた。
実際、彼女が祈るたび、国土を覆う光は強まり、農地には実りが満ちた。
だからエレノアは、苦しくても祈り続けた。少しでも国民の暮らしがよくなるのなら。誰かが飢えずに済むのなら。自分が耐えることで人々が笑っていられるのなら。そう信じていた。
しかし、8年目を迎えた今年、彼女の身体は明らかに変わっていた。祈りを終えた後、以前なら一晩眠れば回復した疲労が、三日経っても抜けない。指先は常に冷たく、長く立っているだけで視界が暗くなる。夜中には胸の奥を鋭い針で刺されるような痛みが走り、息が出来なくなることさえあった。
それでも、エレノアは微笑んだ。祭壇の前に立ち、両手を組む。大地の下を流れる光脈へ意識を伸ばし、女神の力を受け取った。その瞬間、国土を包む結界が輝きを増す。
人々から歓声が上がった。
だが、エレノアの目には別のものが映っていた。北の国境。そこを守る結界に、黒い裂け目が生じている。細い亀裂は、以前より確実に広がっていた。亀裂の向こうでは、魔物たちが何かに誘われるように集まり、結界の弱い場所を探っている。
エレノアは息を呑んだ。これほど明瞭に見えたのは初めてだった。
祈りを終えた彼女は、祭典の祝辞を述べる国王のもとへ向かった。
玉座の前に立つ国王レオナルト三世は、57歳。威厳ある顔立ちと豊かな白髪を持ち、黄金の王冠を戴いている。
その傍らには、王太子アルベルトが控えていた。
「陛下。お話がございます」
「おお、聖女殿。今日の祈りも見事であった。国中の麦があのように実るのも、そなたのおかげだ」
「ありがとうございます。しかし、喜んでばかりはいられません」
エレノアは声を落とした。
「北方の結界に亀裂が生じています。魔物の動きも異常です。早急に国境の砦を点検し、討伐隊を増強していただかなければ」
国王は眉を寄せた。
「結界に亀裂?」
「はい。今までにない規模です。私の力も、以前ほど結界の隅々まで届かなくなっています」
「ふむ……」
国王は顎に手を当て、少し考えた。
「歴代の聖女も、任期の後半には力が衰えると申していたそうだ。だが、そのたびに次の聖女が現れ、国は守られてきた。今回も同じであろう」
「陛下、そういう問題ではございません」
「心配なのは解る。だが、国境の砦を全て修繕し、討伐隊を増やすとなれば莫大な費用がかかる。結界が健在なうちに、そこまでの出費をする必要があるだろうか」
エレノアは言葉を失った。
結界が健在なうちに。その結界を維持するために、自分がどれほどのものを失ってきたか、この王は知っているのだろうか。いや、知るはずがなかった。彼にとって結界は、空に広がる青空と同じだった。あって当然で、なくなることなど考えもしないもの。
「陛下。私は、あとどれほど祈り続けられるかわかりません」
「そなたは聖女だ。国を守ることが使命であろう」
国王は穏やかな声で告げた。
責めているつもりはないのだろう。だからこそ、その言葉は残酷だった。
エレノアは深く頭を下げ、その場を辞した。
王太子アルベルトだけが、彼女の背中を心配そうに見つめていた。
その夜、エレノアは神殿の奥にある祈りの間で、ひとり女神に祈りを捧げていた。
燭台の火が揺れる。意識を深く沈めた先で、彼女はいつもの温かな光に包まれた。
しかし、その日、聞こえてきた声はいつもと違っていた。
『エレノア』
女性とも男性ともつかない、澄み渡った声。
「女神様……」
『約定の時は近い』
エレノアの身体が強張った。
『三代目の王が王冠を返すとき、我が加護もまた終わる』
「……終わる、とは?」
『そのままの意味です。我が加護は、王家三代の時をもって終わる』
光が揺らいだ。
『私は人間を永遠に守るために、加護を与えたのではありません。立ち上がるための時間を与えたのです』
「では……この国は、どうなるのでしょうか」
『それを決めるのは、人間です』
声は静かだった。
『私は、選択する機会を与えました。その機会をどう使ったのか。それは、あなたにも見えているはずです』
エレノアは目を閉じた。
荒れた農地。修繕されない砦。減らされた兵士。疲弊していく自分の身体。そして、豊穣祭の広場に溢れていた笑顔。全てが、ひとつにつながった。
「私は……何をすればよいのでしょうか」
『あなたは、あなた自身の選択をなさい』
女神の声が遠ざかる。
『私のためでも、王のためでもなく』
光が消えた。エレノアは暫く動けなかった。
やがて震える手で床に触れ、ゆっくりと顔を上げる。女神は、国を見捨てると言ったのではない。ただ、約束を終えると言ったのだ。
翌朝、大神殿に王宮からの使者が訪れた。
大神官セラフィムは、エレノアの報告を聞くと、深い皺の刻まれた顔を伏せた。
「ついに、その日が来ましたか」
「大神官様。ご存じなのですか」
老人は答えるまでに長い時間を要した。
「知っていました。少なくとも、記録の上では」
彼は神殿の最奥にある書庫へエレノアを案内した。
幾重もの封印が施された扉。その向こうには、建国以来の記録が保管されていた。大神官は古びた書物を取り出し、慎重にページをめくる。やがて、彼の指が一文の上で止まった。
「建国の女神託です」
そこには、初代国王の筆跡で、こう記されていた。
『我が加護は、王家三代の時をもって終わる』
エレノアは息を止めた。
「三代……」
「はい。現在の陛下が三代目です。そして、陛下の退位まで、残り半年」
老人の声が震えた。
「私は、この記録を知っていながら、何もしてきませんでした。加護が終わるという事実を公にすれば、国は混乱する。そう考えていたのです」
「ですが、知らなければ備えることも出来ません」
「そのとおりです」
大神官は目を閉じた。
「私たちは、神殿の権威を守るために、真実を隠してきました。王家は王権を守るために、加護の終わりを考えないようにしてきた。そして民は、豊かさを当然のものとして受け取ってきた」
老人は、深く頭を垂れた。
「全てが、遅すぎたのかもしれません」
エレノアは古文書を見つめた。
残り半年。国王が王冠を次代へ渡せば、女神の加護は終わる。
その日の夕刻、国王レオナルト三世は大神殿へ乗り込んだ。
「そのような約定が本当にあるのなら、なぜ今まで報告しなかった!」
玉座の間よりも激しい怒声が、神殿の石壁に反響した。
「申し訳ございません、陛下」
「謝罪などいらぬ! 加護が終わるだと? では、今までの豊作も、魔物を防いできた結界も、全て期限付きだったというのか!」
「左様でございます」
「馬鹿な……!」
国王は古文書を奪うように受け取った。そこに記された言葉を、何度も読み返す。やがて、顔を上げた。
「何か方法があるはずだ」
誰に言うでもなく、彼は呟いた。
「神殿には何百年もの知識がある。聖女もいる。女神の力を受け継いできたのだ。方法がないはずがない」
大神官は、何も答えなかった。
王は古文書を握りしめ、踵を返した。
その背中を見つめながら、エレノアは静かに思った。この人は、まだ理解していない。女神が加護を終えることよりも恐ろしいのは、加護が終わると知ってもなお、誰かが自分たちを救ってくれると信じていることなのだ。
窓の外では、王都の灯がひとつ、またひとつと点っていく。豊かな国の、最後の半年が始まった。




