11番地 当たり前じゃない
今回はいつもとちょっとだけ雰囲気の違う話。
人間だもの。
夜、バイト先の居酒屋から帰る俺の足取りはいつになく重かった。
というのも、注文を取り違えてしまったのである。当のお客さんが「間違いは誰にでもあるから」とフォローしてくれたこともあってか、ほんの少しの注意で済んだ。が、いつもはしないミスだったので、ちょっと引きずっていた。
「……マジでしくじったな」
あれこれ考えている間に、アパートに着く。
晩飯の準備もあるし、いつまでもしょげてはいられない。
「……ただいま」
「おかえり。今日はちょっと遅かった」
「まあ、な」
クロエは相変わらずのテンションである。
「……アキヒサ。手を洗うのに、その鍋を使うのは合理的じゃない」
「え?……あ、悪い」
無意識にシンクの鍋に手を突っ込もうとしていた俺は、クロエの声で我に返った。情けない。よほど引きずっているらしい。
「お腹、鳴ってる。ご飯、まだ?」
クロエは俺の様子など一切気にする様子もなく、空腹を訴えてきた。……いや、こっちはそれどころじゃないんだ。
「今作る。……でも、今日ちょっと食欲ないかもな」
「……?口から入れる。胃で消化する。失敗と栄養摂取は無関係」
クロエは不思議そうに小首を傾げた。彼女にとって、精神的な落ち込みで生理現象が止まるという概念は、魔法の公式より理解しがたいものらしい。
「……そうだな。お前は、いつも通りなんだな」
「私は、私。……アキヒサも、アキヒサ」
その言葉の意図を測りかねていると、クロエが不意に、俺の正面に回り込んだ。
「……何か失敗した?」
意外と鋭いところあるなコイツ……。
「……まあ、ちょっとバイト――仕事で、な」
少し間が空く。気まずい。
「アキヒサ」
「ん?」
「世の中の問題は二つに分けられる。解決できるものと、できないもの」
「……急にどうした」
「解決できるならやる。できないなら放置」
なんと無責任な……。ただ、どうしようもないことで悩んでもしょうがないという意味ではクロエの言葉にも一理ある。
「……アキヒサはちゃんとやってる。だから失敗もする」
「……そうか」
コイツにしては気がきいている。
「これでも飲んで」
クロエが差し出してきたのは、ミルクティーのような色の液体だった。――ん?ミルクティー……なんか嫌な予感。
「待て。もしかしてそれ、あのウマネズミが腹に溜め込んでたやつか?つまり、その、生物学的な分泌液……」
「御名答。アキヒサの脳は今、糖分が著しく欠乏している。これは高濃度の天然糖分……飲めば、脳が強制起動して合理的」
「言い方!怖いわ!」
俺は覚悟を決め、一口。
――脳が焼けるような、強烈な、殺人的な「甘さ」が駆け抜けた。
「ブフッ……!?あ、甘っ……!喉が焼ける!!」
「……目が覚めた?糖分摂取、完了」
無表情のまま、少しだけ満足げに頷くクロエ。
「……ああ、目が覚めたよ。いろんな意味でな。……というかこれ、後で絶対腹壊すだろ!」
「……その時は、こっちの胃薬を試す良い機会」
「人を実験台にすんな!」
喉に残る暴力的な甘さと、クロエの相変わらずの調子に、俺はいつの間にか自分がクヨクヨしていたことを忘れ、いつものようにツッコミを入れていた。
「……で、いつまでそうしてるの?私は、一時間前からお腹が空いてる。……もう、背中と腹がくっつく。非合理的」
「……結局、それが言いたかっただけかよ。ったく、分かったよ。今度こそ今作るから待ってろ」
俺は立ち上がり、冷蔵庫へ向かう。
結局のところ、俺がしっかりしていないと、この異世界の魔法使いは餓死しかねないのだ。
「アキヒサ」
「……ん?まだなんかあるのか」
「……今日の夕飯、豪華でもいい」
「……失敗した俺に、贅沢させろってことか?」
「失敗したアキヒサが作ったご飯を食べる私への精神的慰謝料」
「お前、本当に…………お前ぇえ!!」
俺の叫び声がアパートに響く。
……まあ、少なくとも。一人で暗い部屋で、バイトの失敗を反芻しているよりは、ずっとマシだった。




