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凪の轍  作者: 黒犬


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第八章「燃える街道」


 国道二〇号は、死んだ蛇のようだった。


 甲府盆地を抜けると、道は両側から山に挟まれて細くなった。舗装の上に停止した自動運転車両が点々と並んでいる。乗用車、小型バン、宅配ドローンの母機。NERVAの管制信号を失った瞬間に凍りついた車列が、そのまま放置されていた。タイヤの下に枯れ葉が溜まり、ボンネットの上を蔓草が這い始めている車両もある。車内は無人だった。自動運転車に乗客はいない。ただ、届くはずだった荷物だけが残っている。


「右に寄せてください。左車線、バンが二台かぶさってます」


「見えてる」


 荒木がハンドルを切った。銀嶺号の車体が対向車線にはみ出し、停止したバンの横を抜ける。ミラーとバンの側面の間は手のひら一枚分もなかった。凪は助手席の窓から身を乗り出して後方を確認し、荷台が接触していないことを目で確かめてから息をついた。


「助かる。ミラーだけじゃ死角が多い」


「NERVAの全周カメラに比べると、ですね」


「比べるな。あれは機械の目だ。あんたのは人間の目だ。用途が違う」


 凪は小さく笑った。笑えることに少し驚いた。霞が関を出てから八時間が経っている。東京を抜けるだけで三時間を費やし、八王子から先はさらに酷かった。高速道路は無人トラックの残骸で完全に埋まっている。一般道も信号が消え、交差点のたびに荒木が徐行と目視確認を繰り返す。NERVAが管制していた交通のすべてを、一人の老人の目と手が代替していた。


 笹子のあたりで、初めて対向車とすれ違った。


 オリーブドラブの装甲車体。自衛隊の自律走行輸送車だった。独自システムで動く、NERVA非依存の車両。車体に「西日本方面補給」の表示が読み取れた。荒木がパッシングで合図を送ると、自衛隊車両は一瞬速度を落とし、すぐに東京方面へ走り去った。


「忙しそうだな」


「西日本の支援に全力ですから。こっちに構ってる余裕はないでしょう」


「昔もそうだった」


 荒木がぽつりと言った。


「あの大震災のとき、自衛隊は手一杯だった。物資を運べる民間のトラックが足りなくて、源蔵さんと俺に声がかかった。今と同じだ」


 凪は窓の外に目を戻した。甲府盆地が背後に退き、前方に八ヶ岳の稜線が霞んで見える。四月の陽光が山肌を照らしているが、街には人の気配がない。集落の家々は雨戸を閉め、商店のシャッターは下りたままだ。電気がないのだろう。ところどころ、屋根の上にソーラーパネルを載せた家から洗濯物が出ている。太陽光発電だけで最低限の生活を維持している家庭が、疎らに点在していた。


 都会と田舎では、崩壊の意味が違う。東京では食料と水が三日で尽きた。ここでは、畑がある。井戸がある。薪がある。NERVAが止まっても、土の上で暮らしていた人々の生活は、完全には崩れていない。ただ、人の姿そのものが見えないのは不気味だった。窓を開けている家はなく、庭に出ている住民もいない。通信が途絶し、何が起きているのかわからない恐怖が、人々を家の中に押し込めているのだろう。


---


 諏訪を過ぎ、国道一九号に入った。木曽路。


 道はさらに狭くなった。中央分離帯のない片側一車線。カーブの先が見通せない区間が続く。そのたびに荒木は速度を落とし、ホーンを短く鳴らしてから進んだ。


「クラクション、鳴らすんですね」


「見通しの悪いカーブの先に何があるかわからん。対向車がいるかもしれん。人がいるかもしれん」


「NERVAなら、カーブの先の情報をリアルタイムで共有して──」


「NERVAはいない。いないものの話をしても仕方がない」


 凪は口を閉じた。荒木の言い方に棘はなかった。事実を述べているだけだ。NERVAがない世界で、NERVAを前提にした思考は役に立たない。いま目の前にあるのは、一本の道と、一台のトラックと、二人の人間の目だけだった。


 木曽路の谷間を進むうちに、異様な光景に出くわした。


 トンネルの入口を、大型の自動運転トレーラーが完全に塞いでいた。NERVAの管制信号を失った瞬間にブレーキがかかり、トンネルの入口でジャックナイフを起こしたらしい。トレーラーヘッドが横を向き、コンテナが斜めにトンネルの口を覆っている。その手前にも停止した乗用車が横並びに詰まっていた。通過は不可能だった。


「迂回するしかない」


 荒木が銀嶺号を路肩に寄せた。凪は目を閉じた。NERVAの道路データベースが、記憶の中で開く。木曽路のこのあたり──。


「二百メートル戻ったところに、左手に旧道への分岐があります。幅員三・五メートル。銀嶺号ならぎりぎり通れます。旧道は一・二キロ先でこの国道に合流します」


「一・二キロの旧道に、障害物は」


「NERVAのデータでは、三年前の調査時点で路面状態は良好。ただ、今は保証できません」


「三年前のデータを覚えてるのか」


「一度見たものは忘れないので」


 荒木は何も言わず、銀嶺号をバックさせた。二百メートル。左手に、草に半ば覆われた細い道が見えた。路面はアスファルトだが、ひび割れが走り、側溝に落ち葉が堆積している。かつて本道だったこの旧道を、自動運転の時代には誰も通らなくなっていた。


 銀嶺号が旧道に入った。枝が屋根を擦る音がした。荒木はミラーを畳み、低速で進んだ。一・二キロ。凪の記憶どおり、旧道は国道に合流し、トンネルの向こう側に出た。


 こうした迂回を、凪は数えるのをやめた。木曽路だけで七回。トンネル閉塞が二箇所、停止車両による完全封鎖が三箇所、落石による半閉塞が二箇所。そのたびに凪が記憶の中の道路データを引き出し、荒木が銀嶺号を狭い旧道や林道に通す。二人の間に、言葉は最小限だった。凪が迂回路を告げ、荒木が頷き、ハンドルを切る。それだけだ。無駄な確認も、余計な相談もなく、ただ道を繋いでいく。NERVAの自動リルーティングと、やっていることの本質は同じだった。手段が違うだけだ。


 七回目の迂回を終えたとき、凪の口から言葉がこぼれかけた。──NERVAがあれば、こんな遠回りをしなくて済む。全周カメラとセンサー群が障害物を検知し、最短の迂回路を数ミリ秒で算出する。停止車両の間を縫う精度も、旧道の路面状態のリアルタイム解析も。だが、その言葉を飲み込んだ。今ここでそれを言うことに、何の意味がある。NERVAがいないことを嘆く暇があるなら、次の迂回路を一秒でも早く思い出したほうがいい。


---


 塩尻に入ったのは、陽が傾き始めた頃だった。


 荒木が計器盤を一瞥し、眉をひそめた。


「燃料が想定より減ってる」


「どのくらいですか」


「残り四分の一を切った。迂回が多すぎた。低速走行と停止・発進の繰り返しで、燃料の減りが普段の倍以上だ」


 凪は暗算した。銀嶺号の燃料タンクは百五十リットル。霞が関で満タンにして出発し、ここまで約二百五十キロ。通常であれば三割弱の消費で済むはずが、迂回で効率が大幅に悪化している。残り約三十七リットル。この先も迂回が続くなら、実質百五十キロ程度しか走れない。荘川までは百三十キロ以上。到着できたとしても帰路の燃料がない。


「荘川まではぎりぎり届くかもしれませんが、帰りが持ちません」


「わかっている」


 荒木の声に焦りはなかった。ただ事実を認識している声だった。凪は助手席の足元の鞄から、佐伯に借りた衛星電話を取り出した。


 数秒の遅延の後に通信が確立した。佐伯の声がノイズ混じりに聞こえる。


「早瀬さん、状況は」


「塩尻まで来ましたが、燃料が想定より早く減っています。このままでは荘川に着いても帰れません」


 数秒の沈黙。佐伯が何かを調べている気配がした。


「松本市内に防災倉庫があります。県の広域防災拠点の一つで、非常用の燃料備蓄がある。軽油もあるはずです。ただし──通信が途絶していますから、電子認証で払い出しを管理していたシステムは動きません。管理者の判断次第です」


「交渉する必要がある、ということですね」


「はい。すみません、私の名前を出しても──通じないかもしれません」


「わかりました。なんとかします」


 佐伯が住所を読み上げた。凪の記憶に刻まれる。通信を切ると、荒木が前を向いたまま言った。


「松本か」


「はい」


「交渉、か」


 荒木の口元が、わずかに動いた。笑ったのかもしれない。


「嫌いじゃないよ、そういうのは」


---


 松本市に入ると、空気が変わった。


 塩尻までの街道沿いの集落は静まり返っていたが、松本は違った。人がいた。自転車に乗った中年の男が銀嶺号とすれ違い、排気音に驚いて振り返った。交差点では手書きの看板を持った女性が立っていた。「給水所→」と矢印が書いてある。商店街の一角にテントが張られ、住民が列を作っている場所も見えた。


 田舎には、まだ共同体があった。NERVAが止まっても、人と人のつながりで回っている小さな社会がある。凪は窓を開けた。排気の匂いに混じって、どこかで薪を燃やしている煙の匂いがした。


 凪は車窓を流れる松本の街並みを見つめた。薬局の前を通りかかったとき、ガラス戸に手書きの張り紙が貼ってあるのが目に入った。「血圧の薬を探しています。小林」。文字の形、紙の大きさ、テープの貼り位置。目に入ったものは、すべて記憶に残る。


 防災倉庫は、市の西端に近い台地の上にあった。コンクリートの平屋建て。敷地は鉄柵で囲まれ、入口にチェーンがかかっている。門の脇に、五十代と見える男が腕を組んで立っていた。作業服にゴム長靴。日焼けした顔に、警戒の色がある。


 荒木が銀嶺号を門の前に停め、エンジンを切った。ディーゼルの残響が消えると、鳥の声だけが残った。


「何の用ですか」


「東京から来ました。日環ロジスティクスの早瀬です。こちらの防災倉庫の燃料を分けていただきたい」


 男は銀嶺号を見た。


「……こんなもんが、まだ走ってるのか」


「走ってます。だから燃料が要るんです」


 荒木が運転席から降りた。ステップに足をかけ、地面に降り立つ動作に無駄がない。数十年分の反復が身体に刻んだ所作だ。男は荒木と凪を交互に見た。


「俺は小林。ここの管理を県から委託されてる。事情はわかったが、燃料は出せない」


「理由を聞かせてください」


「行政の正式な許可がなければ出せない。払い出しには電子認証が必要だが、通信は死んでる。認証なしに出したら、俺が責任を問われる。国の備蓄だ。俺個人の持ち物じゃない」


 凪は小林の顔を見た。官僚的な頑なさではなかった。預かりものを守ろうとする人間の真剣さだった。この倉庫の燃料は、松本市とその周辺の住民のためのものだ。見知らぬ人間に渡すわけにはいかない。その判断は、正しい。


「松本は、どんな状況ですか」


 小林は少し驚いた顔をした。燃料を求めに来た人間が、こちらの状況を訊くとは思わなかったのだろう。


「……そうだな。食い物は何とかなってる。農家が多いからな。水も井戸があるし、川の水も使える。電気は太陽光がある家はまだましで、ない家はロウソクと薪だ」


「困っているのは」


「医療だ」


 小林の声が低くなった。


「病院の非常電源はとっくに切れた。薬の在庫も残りわずかだ。持病のある年寄りが──うちの地区だけで、もう三人亡くなった。薬があれば助かった人たちだ」


「……」


「晴れた日に太陽光の電力を工面して、電気炉で火葬してる。それも追いつかなくなってきた」


 小林は目を伏せた。凪は黙って聞いた。


 荒木が一歩前に出た。


「小林さん」


「何だ」


「あんたの言い分はわかる。預かりものを守るのは正しい。だが、一つ取引をしないか」


 荒木は腕を組まず、手をだらりと下げたまま、まっすぐに立っていた。相手を威圧しない姿勢。しかし揺るがない声。


「俺たちはこれから西へ向かって、荷を積んで戻ってくる。帰り道はまたこの松本を通る。燃料を出してくれたら、帰りにあんたの街まで物資を運ぶ。必要なものがあるなら、沿線で調達してくる」


「物資を運ぶ、と言われても。何を」


「あんたが一番必要なものだ。医薬品だろう」


 小林の表情が動いた。


「医薬品なんか、今どこにもないぞ」


「ある」


 凪が口を開いた。荒木と小林が同時に凪を見た。


「私たちが向かう荘川に、備蓄があります。食品と──医薬品も。帰りに積んで、松本で下ろします」


「約束、と言われてもな。悪いが、それだけじゃ──」


「小林さん」


 凪は声を落とした。


「さっき街を通ったとき、薬局の前に手書きの張り紙がありました。『血圧の薬を探しています。小林』と。奥さまですか」


 小林の顔から、防壁が一枚剥がれ落ちた。


「……女房だ。降圧剤が切れて二週間になる。町の医者にも持ち合わせがない」


「帰りに、降圧剤を届けます。荘川の備蓄リストにアムロジピンベシル酸塩錠五ミリグラム、三百錠があるのを覚えています」


「覚えてる?」


「一度見たものは忘れません」


 小林は黙った。目が赤くなっていた。凪は待った。荒木も待った。春の風が敷地の鉄柵を鳴らした。


「……いつ戻る」


「二日以内に」


「二日」


「約束します」


 小林は長い間、銀嶺号を見つめていた。錆びた車体。剥げた塗装。ディーゼルの排気で煤けたマフラー。時代遅れの、しかし確かに動く機械。それから空を仰いだ。午後の日差しが倉庫の屋根を白く照らしている。


「……わかった。出す。軽油、何リットル要る」


「満タンで百五十リットルです。今の残量から逆算すると、百十リットルほど」


「出せる。ただし、条件がある。帰りに本当にここを通れ。そして薬を届けろ。それだけだ」


「必ず」


 小林はチェーンの鍵を外した。門が開き、倉庫の奥の区画に案内された。燃料のドラム缶が並んでいる。赤い缶体に「軽油」の表示。小林は手動のポンプを持ってきて、荒木と二人でドラム缶から銀嶺号の燃料タンクに軽油を移し始めた。ポンプを漕ぐたびに、透明な黄色い液体がホースの中を流れていく。


 凪はその作業を見つめた。ポンプのレバーを漕ぐ二人の背中。機械ではなく人間の腕力で、燃料が一リットルずつ移されていく。胸の中で何かが軋むのを感じた。


 百十リットル。たったそれだけの燃料を手に入れるために、二人の人間が顔を突き合わせ、事情を説明し、信頼を築き、約束を交わした。NERVAが生きていれば、最適な燃料配分は全国規模で数秒のうちに計算される。どの車両がどこで何リットル給油するか、どの備蓄拠点からどれだけ放出するか、すべてがアルゴリズムによって決定される。個人の信用も、交渉も、約束も要らない。


 凪は無意識のうちに、頭の中でNERVAのルーティングを走らせていた。松本拠点の燃料残量、荘川までの距離、帰路の必要量。最適解は即座に出る──だが、その最適解には「小林さんの奥さんの降圧剤が切れている」という情報は含まれない。NERVAの割り振りは数字の世界で完結する。目の前の人間が何を恐れ、何を守ろうとしているかは、変数に入らない。今、燃料が動いたのは、数字ではなく、顔を見て交わした言葉の力だった。


---


 給油が終わった。荒木が燃料タンクのキャップを閉め、手をぼろ布で拭いた。


「気をつけて行ってくれ。この先、一五八号に入るなら山がきつい。夜は冷える」


「ありがとうございます」


「礼はいらん。薬を届けてくれたら、それでいい」


 小林が頭を下げた。凪も頭を下げた。荒木は何も言わず、銀嶺号の運転席に乗り込んだ。


 エンジンがかかった。門のところに立つ小林の姿がバックミラーの中で小さくなっていく。凪はそれを見つめながら、帰りにここを通ることを改めて自分に刻んだ。


「お嬢さん」


「はい」


「さっきの、薬局の張り紙の話」


「ええ」


「……よく見てたな」


「通りがかっただけです。目に入ったものは、覚えてしまうので」


「ああ。そういうことか」


 荒木はそれ以上何も言わなかった。ハンドルを握る手に力が入っていないように見えるのは、力を入れる必要がないほど手がハンドルを知っているからだ。何十年もの経験が刻んだ身体の記憶。凪の記憶が文字と数字の形をしているなら、荒木の記憶は筋肉と関節の形をしている。


---


 松本を出ると、銀嶺号は国道一五八号を西へ向かった。梓川に沿って道は山間に入っていく。谷が深くなり、両側の山肌が迫り、川の音が大きくなる。停止車両はこの辺りまで来ると数が減った。山間部はもともと車が少ない。


 凪は助手席で、計算を始めた。


 松本で満タンにした。百五十リットル。通常の燃費なら航続距離は約九百キロ。ただし、ここまでの実績を踏まえると、迂回と山道を考慮して七割程度──約六百三十キロが現実的な見積もりだ。松本から荘川まで約百三十キロ。荘川で再び満タンにできれば──佐伯が荘川に燃料も備蓄しているという前提だが──帰路をカバーできる。荘川から松本に寄って医薬品をドロップし、そこから国道二〇号を東へ戻り、印西まで。総距離は約四百キロ。タンク満タンの六百三十キロに対して、二百三十キロの余裕がある。十分だ。


「荒木さん」


「何だ」


「松本と荘川で満タンにできれば、帰りは大丈夫です。荘川から印西まで約四百キロ。タンク満タンの航続距離を迂回込みで六百三十キロとしても、二百キロ以上の余裕があります」


「暗算か」


「はい」


「……あんたの頭は、コンピュータの代わりが務まるな」


「コンピュータほど正確ではないです。でも、まだ動いてます」


 荒木の口元が、かすかに緩んだ。それは笑顔と呼ぶには淡すぎたが、凪はそこに信頼に似たものを見た気がした。


---


 陽が落ちかけていた。山の稜線の向こうに夕陽が沈み、谷間に紫色の影が広がっていく。ヘッドライトを点けた。銀嶺号のライトは旧式のハロゲンで、現代のLEDに比べると頼りなく黄色い。それでも暗い山道を照らすには十分だった。


 荒木の運転は、暗くなっても変わらなかった。カーブの手前で減速し、ホーンを鳴らし、出口を確認してから加速する。一つとして同じカーブはない。荒木はそのすべてを、ヘッドライトが照らす数十メートル先の路面だけで判断している。


「荒木さん、お疲れではないですか」


「まだ平気だ」


「霞が関を出てから、もう十二時間以上経ってます」


「昔はこんなもんだった。二十四時間走って仮眠して、また走る。源蔵さんは四十八時間走った。俺はまだその半分にも達してない」


「……無理はしないでください」


「大丈夫だ。俺は源蔵さんとは違う。身体が限界を教えてくれる。その声を無視しない。それが、あの人から学んだことだ」


 凪は助手席のシートに背中を預けた。窓の外を夕闇が覆っていく。梓川の水面が最後の光を反射して、すぐに暗くなった。


 荒木から学んだこと。祖父から学んだこと。祖父の走り方は英雄的だったが、正しくなかった。それを最もよく知っているのは、隣で走っていた荒木自身だ。


 暗い山道を、エンジンの音が谷間に反響する。低く、重く、途切れることなく。凪はその音を聞きながら、松本の小林の顔を思い出した。門前に立ち、チェーンの鍵を握りしめていた男の顔。預かりものを守ろうとする人間の顔。そして、女房の薬のことを口にしたときの、あの崩れた表情。


 人と人の信頼と交渉──「昔のやり方」の強み。顔を見て、声を聞いて、相手の事情を理解して、条件を提示する。機械にはできない、人間だけの能力。だが同時に、この方法はスケールしない。日本全国に何万という拠点があり、何百万という人間が燃料を必要としている。一人ひとりと交渉して回ることは物理的に不可能だ。凪と荒木が小林さんと築いた信頼は、他の誰にも転用できない。個人の信用に依存した仕組みは、どこまでもこの手の届く範囲にしか広がらない。


 祖父もこうして、一人ひとりと交渉しながら走ったのだろうか。三十五年前の夜、荘川から西へ。道が壊れ、通信が途絶えた世界で、行く先々の人間と顔を突き合わせ、物資を分け合い、ときには門前払いを食らいながら。


 NERVAなら、最適な燃料配分を数秒で計算できたのに。


 だが、NERVAはいない。荒木が言ったとおりだ。いないものの話をしても仕方がない。今あるのは、一本の道と、一台のトラックと、顔を見て交わした約束だけだ。


 どちらかだけでは足りない。NERVAだけでも、人間だけでも。


 凪はまだ、その答えの形が見えなかった。ただ、この旅の中で──一本の道を、一台のトラックで、一人の老いたドライバーと走るこの旅の中で──問いだけが、ゆっくりと輪郭を結び始めていた。身体の奥に、うっすらと積もっていく感触がある。荒木の筋肉と自分の記憶。NERVAの計算と小林さんの顔。どちらかだけでは、足りない。その感触は言葉にはまだならないが、振動として、骨の芯に残り始めていた。


 銀嶺号は、暗い山道を西へ走り続けた。


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