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凪の轍  作者: 黒犬


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第九章「荘川の箱」


 安房トンネルの入口は、闇の中に口を開けた巨大な墓穴のようだった。


 ヘッドライトが照らし出すコンクリートの壁面は結露で黒く濡れ、入口の電光掲示板は消灯している。トンネル内部は完全な暗闇だった。換気システムも停止しているはずで、二キロ七百メートルの筒の中に排気ガスが滞留していれば、ディーゼルエンジンの銀嶺号にとっては致命的だ。


「通れませんね」


「ああ。換気が死んでる。中に停止車両がいたら避けようがないしな」


 荒木はアイドリングのまま、トンネルの入口をしばらく見つめていた。それから、ゆっくりと首を左に向けた。ヘッドライトの届かない山側の暗がりに、ガードレールの切れ目がある。舗装が途切れ、細い道が急勾配で上方へ消えていく。


「旧道だ」


「安房峠」


 凪は即座に応えた。記憶の中のデータが開く。国道一五八号旧道。安房峠。標高千七百九十メートル。安房トンネルが開通する以前は、飛騨と信州を結ぶ唯一の車道だった。長野県側はヘアピンカーブに一号から三十号まで番号が振られている。幅員三・八メートル。大型車通行不可。冬季閉鎖──十一月上旬から翌年五月下旬。


 今は四月だ。閉鎖期間の真っ只中。ゲートがあるはずだが、管理者が来られない状況では開いているかもしれない。


「冬季閉鎖中です。路面に残雪がある可能性が高い。ガードレールの腐食が進んでいて、一部は欠落しています。NERVAの道路データでは大型車通行不可の区分ですが、銀嶺号の車幅は二・二メートルですから、三・八メートルの幅員なら──」


「通れる。昔、この道を走ったことがある」


 荒木の声が変わった。低く、静かだが、どこか遠い場所を見ているような響きがあった。


「数十年前だ。源蔵さんと二人で、この峠を越えた。あのときはまだトンネルの工事中で、旧道しかなかった。渋滞がひどくてな、五時間かかった。今日は渋滞はないだろう」


 渋滞の代わりに残雪と落石がある、と凪は思ったが口には出さなかった。


「体が覚えている。この道は」


 荒木はそう言って、ハンドルを左に切った。銀嶺号がガードレールの切れ目から旧道に入る。閉鎖ゲートは案の定、管理者不在のまま半開きになっていた。舗装はアスファルトだが、表面に砂利と落ち葉が堆積し、ところどころ苔が路面を覆っている。道幅は急に狭くなった。片側はコンクリートの法面、反対側は暗い谷。ヘッドライトの黄色い光が、行く手を十数メートル先まで照らしている。その先は闇だった。


---


 凪は助手席で佐伯から受け取った紙の地図を膝の上に広げた。


 GPSはない。衛星電話は通話専用で測位機能を持たない。スマートフォンは電池が切れて久しい。手元にあるのは、佐伯が霞が関の国交省の書庫から引っ張り出してきた国土地理院の二万五千分の一地形図。折り目のついた、インクの褪せた紙の地図だった。


 凪はこの地図を一度見ている。見た瞬間に記憶した。等高線の一本一本、標高の数字、道路の線形、すべて。だが闇の中では記憶の確認作業が要る。懐中電灯の細い光で地図を照らしながら、頭の中のNERVAの道路データと照合していく。地図の情報と管制データの情報。二つの記憶を重ね合わせ、荒木に伝える言葉に変換する。これがナビゲーションだ。GPSもディスプレイもない、声だけのナビゲーション。


「最初のヘアピンまで約八百メートルです。右カーブ、曲率半径十メートル。一号カーブ。その先すぐに左の二号カーブ。五号カーブまでは標高差約百二十メートルを一気に上がります」


「了解」


 荒木の返事は短かった。ハンドルを握る手の指が白い。計器盤の常夜灯に照らされた横顔は、凪がこれまで見たどの瞬間よりも険しかった。七十二歳の老人が、数十年ぶりの山岳路に挑んでいる。


 一号カーブが来た。


 ヘッドライトが右の法面を舐め、路面がきつく折れ曲がる。ほぼ九十度。荒木はブレーキを踏み、ギアを二速に落とし、ハンドルをいっぱいに切った。銀嶺号の車体が大きく傾ぐ。荷台に積んだ物資が荷締めベルトの中で軋んだ。タイヤの外側が路肩の砂利を噛み、小石がぱらぱらと谷側に落ちていく音がした。


「クリアです。次、左の二号カーブ。五十メートル先」


「見えた」


 カーブを一つ越えるたびに標高が上がる。気温が下がるのが窓ガラスの曇りでわかった。凪は袖で曇りを拭った。三号カーブを過ぎたあたりで、路面に白いものが現れた。残雪だ。道の端に薄く積もった雪が、ヘッドライトに照らされて青白く光っている。


「路面凍結の可能性があります。特に日陰の区間は」


「わかっている」


 荒木は速度をさらに落とした。時速十キロ。歩くより少し速い程度。タイヤが砂利を噛む音と、エンジンの低い唸りだけが谷間に反響している。凪は身体の力を抜こうとしたが、カーブのたびに体がシートの上で滑り、力を抜く余裕がなかった。


 七号カーブの手前で、落石があった。


 拳大から人の頭ほどの石が五つ六つ、路面の中央に散らばっている。ヘッドライトの光の中に突然現れて、荒木がブレーキを踏んだ。凪は助手席のドアを開けて降りた。懐中電灯で石を照らし、大きなものから順に両手で持ち上げて路肩に寄せる。最後の一つは重かった。腰を落とし、膝を使って持ち上げ、谷側のガードレールの隙間から転がした。石が斜面を跳ねていく音が、暗い谷の底へ消えていく。


 靴の底から伝わるアスファルトの冷たさ。四月の夜、標高千五百メートル。吐く息が白い。手が悴んでいた。


 車に戻ると、荒木が言った。


「昔はな、俺が降りて石をどけた。源蔵さんはハンドルを握って待っていた。逆だな」


「私がどけて、荒木さんが握る」


「ああ。逆だ」


 荒木の口元がわずかに緩んだ。暗がりの中で、それは笑みとも呼べない微かな変化だったが、凪にはわかった。


---


 十五号カーブを過ぎると、道は尾根筋に出た。谷底から吹き上げる風が銀嶺号の車体を横から揺らす。左手に北アルプスの稜線が暗い空に溶けている。月は出ていなかった。だが街の灯りが消えた世界では星だけが異常なほど明るく、稜線の輪郭をかろうじて浮かび上がらせている。


「この先、ガードレールが三箇所欠落しています」


 凪は地図から目を上げずに言った。記憶の中のNERVAの道路データが、番号と位置を正確に告げる。


「二十号カーブの手前、二十三号の出口、二十七号の内側。特に二十三号は谷側のガードレールがまるごと欠落しているので、路肩に寄りすぎないでください」


「落ちたら何メートルだ」


「データにはありませんでした。ただ、等高線の間隔から推測すると──百メートル以上」


「聞かなきゃよかったな」


 荒木は独り言のように呟いたが、ハンドルを握る手は安定していた。二十号カーブの手前でガードレールの途切れた区間を通過するとき、荒木は無意識に車体を法面側に寄せた。タイヤとコンクリートの壁面の間が十センチもない。体が覚えている、と荒木は言った。数十年前の記憶が筋肉に刻まれ、意識より先に手と足が動く。荒木の記憶は、凪の記憶とは形が違う。凪のそれが文字と数字ならば、荒木のそれは筋肉と関節と、ハンドルの手触りだ。


 峠の頂上──標高千七百九十メートル──に達したのは、旧道に入ってから一時間半後だった。荒木がエンジンを止めた。静寂が車内を満たす。エンジンの残響が消えると、耳鳴りがするほどの無音が訪れた。


 凪は窓を開けた。冷気が頬を刺した。空気が薄い。息を吸うと肺の底まで冷たさが沁みた。星が近い。目を凝らすと、西の方角に山々の黒い輪郭が連なり、その向こうに──灯りが一つもない。NERVAが生きていた頃、高山の市街地が淡く光っていたはずの方角に、完全な暗黒が広がっていた。


「行くぞ。岐阜側の下りのほうが急だ」


 エンジンが再びかかった。峠を越え、飛騨側へ。荒木の言うとおり、下りは長野側より急勾配で、カーブの間隔が短かった。凪はカーブの一つ一つを読み上げ続けた。曲率半径、路面の状態、ガードレールの有無。声が枯れかけていることに気づいたのは、標高が千二百メートルを切ったあたりだった。


 平湯の温泉街に降りたとき、荒木の肩が微かに下がった。張りつめていた筋肉が緩む。その小さな変化を見て、凪も初めて自分の背中が汗で濡れていることに気づいた。


---


 国道一五八号の現道に復帰し、高山市街を南に迂回して国道一五六号に入る。庄川に沿った道は、山間部にしては比較的広く、停止車両も少なかった。標高が下がるにつれて空気が柔らかくなり、川沿いの木々が夜風に揺れている。


 夜明け前に、荘川に入った。


 佐伯から聞いていた倉庫は、集落の外れにあった。庄川の支流に面した小さな平地に、コンクリートブロック造りの平屋が一棟。かつては自治体の公共備蓄倉庫として使われていた建物だという。外壁は苔と水染みで薄汚れ、鉄の引き戸は赤錆が浮いている。敷地の端に軽トラックが一台、雑草に半ば埋もれて停まっていた。佐伯がテープを運び込むときに使ったものかもしれない。周囲に人の気配はない。


 荒木が銀嶺号を倉庫の正面に停めた。エンジンを切ると、川の音だけが残った。水が石を打つ清冽な響き。東の空が、山の稜線の上でうっすらと白み始めていた。


 凪は助手席から降り、懐中電灯を手に倉庫に近づいた。佐伯から聞いた暗証番号で南京錠を外し、引き戸に手をかける。錆びた金属が軋み、朝の静寂を破った。


 懐中電灯の光が、倉庫の内部を舐めた。


 最初に目に入ったのは、食品だった。缶詰、レトルト食品、パックご飯、ペットボトルの水。段ボール箱が整然と壁際に積まれている。賞味期限のラベルが見えた。直近のもので来年の日付。定期的に入れ替えられている証拠だった。その隣に医薬品の箱。降圧剤のアムロジピンベシル酸塩錠──松本の小林の奥さんに届けるもの。解熱鎮痛剤、抗生物質、消毒液、包帯、経口補水液のパウダー。個人が備蓄するには明らかに過剰な量だった。佐伯の給与がどれほどこの倉庫に注ぎ込まれたのか、考えると気が遠くなる。


「こんなこともあろうかと、ですね」


 凪は声に出して言い、自分で苦笑した。佐伯の口癖。会合のあの夜、廊下で眼鏡を拭きながら震える手で打ち明けた、あの言葉。杞憂と笑われ続けた男の執念が、ここでは物理的な質量を持って壁を埋めている。


 笑おうとした。「行き過ぎた備え」だと。かつての自分ならそう片づけていたはずだ。──だが、笑い切れなかった。あの会議室で佐伯の声を聞いたときから、胸の奥にずっと澱んでいる何かが、この倉庫の空気と同じ周波数で震えている。佐伯が恐れていたものと、自分がずっと名前をつけられずにいたものは、おそらく同じものだ。


 倉庫の奥に、それはあった。


 耐環境コンテナ。二基。


 鋼鉄製の直方体が、コンクリートの床の上に静かに鎮座している。防湿・防磁・耐衝撃仕様であることが、外装のラベルで読み取れた。温湿度管理用のインジケーターが側面に貼り付けてあり、許容範囲を示す緑色のゾーンに針が収まっている。乾燥剤の交換日を記したシールが側面にある。最終交換日は三ヶ月前。佐伯はつい最近まで、この山奥の倉庫に足を運んでいたのだ。


 凪はコンテナの一基のラッチを外し、蓋を開けた。


 中に、LTO磁気テープのカートリッジが整然と並んでいた。


 手のひらに収まるほどの小さな四角い箱。一つを手に取った。見た目に反して、ずしりと重い。磁気テープとプラスチック筐体の物理的な質量。データは電子の世界に住んでいたはずなのに、ここでは重さを持っている。──祖父のハンドルも、こういう重さだったのだろうか。握った瞬間に伝わる、逃げようのない実体の感触。一つ一つにラベルが貼られ、通し番号とデータカタログの参照コードが手書きで記されている。佐伯の筆跡だった。几帳面な、しかしどこか切迫した文字。カートリッジの数は──凪は目で数えた。百二十八本。もう一基にも同数が入っているはずだ。テープ一本あたりの容量は十八テラバイト。百二十八本で約二・三ペタバイト。NERVAのコアシステムと全国の自動運転ネットワーク設定データを丸ごと収めるには十分な容量だった。


 コンテナの蓋の裏側に、クリアファイルがテープで貼り付けてあった。中にデータカタログ。A4の用紙に印刷された目録。凪はそれを手に取り、懐中電灯で一行一行を追った。


 NERVAコア制御プログラム。バージョン番号。ビルドタイムスタンプ。全国自動運転ネットワーク設定データ──二十七地方ブロック分のルーティングテーブル。道路管制パラメータ。車両通信プロトコル定義。全国の交差点制御ロジック。ルーティングアルゴリズムのウェイトテーブル。港湾管制との連携インターフェース定義。すべて、三年前のスナップショット。オンプレミス拠点が廃棄される直前に取得されたフルバックアップだった。


 三年前のデータ。最新ではない。三年分のアップデートは失われている。だが、NERVAのコアは──骨格は、ここにある。制御プログラムがあり、ネットワーク設定があり、ルーティングの基盤がある。枝葉は失われても、幹が残っていれば木は再び芽吹く。これがあれば、印西のナショナルDCハブで国内リージョンに仮復旧ができる。


 凪の手が震えた。懐中電灯の光が揺れた。紙の目録に印刷された文字列の一つ一つが、この国の血管を再び動かすための設計図だった。佐伯が「廃棄済」と台帳に嘘を書き、個人の貯蓄を削り、この山の中の古い倉庫まで運び込んだもの。それが震える光の中で凪の目に映っている。


---


「どうだ」


 荒木が倉庫の入口に立っていた。東の空から朝の光が差し込み、老人のシルエットが逆光で黒い。


「あります。全部あります。NERVAのフルバックアップ。二基とも」


 荒木は無言で頷いた。コンテナに歩み寄り、外装を手のひらで叩いた。鋼鉄の、硬く、重い音がした。


「この中に、あのシステムの全部が入っているのか」


「三年前の状態ですが──はい。コアの部分は全部」


「テープか。磁気テープ。昔、俺たちの会社の事務所にもテープのバックアップがあったな。デカい装置で、テープがぐるぐる回るやつだ」


「世代は違いますが、原理は同じです。磁気でデータを記録する。電気がなくても、ネットワークに繋がなくても、テープの上にデータは残る」


「電気がなくても消えない、か」


「はい。五十年は持つと言われています」


 荒木はコンテナの表面に手を置いたまま、しばらく黙っていた。この鉄の箱の中に、国を動かす仕組みが眠っている。電気もネットワークもない山奥の倉庫で、三年間、静かに。テープの上に刻まれた磁気の信号は、読み取る機械があれば今すぐにでも蘇る。必要なのは、それを読み取れる場所まで──印西まで──運ぶことだけだった。


 コンテナの寸法を凪は目で測った。幅約七十センチ、奥行き約九十センチ、高さ約六十センチ。銀嶺号の荷台に載るサイズだ。重量はデータカタログの記載によれば約二百キロ。テープ百二十八本と、耐環境仕様の鋼鉄製外殻の重さだ。銀嶺号の積載能力なら問題ない。


 二基ある。佐伯の冗長性への執念。同じデータを二重に保管する。片方が壊れても、もう片方が残る。バックアップのバックアップ。一箇所が消えてもデータは失われない。あの男は、このテープが必要になる日が来ることを本気で想定し、そしてその日が来たときに片方が読めなくなっている可能性まで考えて、二基用意したのだ。


「一基だけ積みます」


 凪は言った。荒木が凪を見た。


「もう一基は」


「ここに残します」


 凪は二基のコンテナを交互に見た。同じ形状、同じ内容。どちらを選んでも結果は同じだ。だが、どちらか一方だけを選ばなければならない。そして、選ばなかったほうを──この山奥の倉庫に置いていく。


「二度と、バックアップが一箇所だけになってはいけない」


 声に出した瞬間、その言葉の重さが凪自身に返ってきた。NERVAが宗国の単一リージョンに集中していたことが、すべての始まりだった。一箇所に預けたから、一箇所が消えたとき、すべてが消えた。佐伯はそれを恐れて二基のコンテナを用意した。凪がここで二基とも持ち出せば、この倉庫はからになる。そして銀嶺号に何かがあれば──事故でも、落石でも、何であっても──二基のデータが同時に失われる。それは、宗国の単一リージョンにすべてを預けたのと、構造として同じ過ちだ。


 荒木は黙って頷いた。長い頷きだった。言葉以上のものが、その動作にあった。


 自分の声が耳に残っていた。「二度と、バックアップが一箇所だけになってはいけない」。その言葉を口にしたとき、胸の中で長い間もつれていた糸が、少しだけ解けた気がした。──自分がずっと怖かったのは、技術でも効率でもない。すべてを一つの仕組みに預けて、それが失われたとき何も残らないこと。備えを手放すこと。一点に依存し、代替を忘れること。祖父の身体は一つしかなかった。NERVAのリージョンも一つしかなかった。この恐怖には、たぶん──名前がある。まだ完全には掴めないが、輪郭だけは、もう見えている。


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 荒木と二人で、コンテナ一基を銀嶺号の荷台に積み込んだ。二百キロの鋼鉄の箱を人力で持ち上げるのは不可能だったが、倉庫にあった台車とハンドリフト、それに荷台のテールゲートリフターを使えば何とかなった。荒木が荷台の上でコンテナの位置を調整し、荷締めベルトで固定する。ベルトを増し締めする手つきに迷いがなかった。荷台の中央寄り、重心を低く。帰り道の山道で揺れても動かないように、三方向からベルトを回す。


 医薬品の箱も積んだ。降圧剤、解熱鎮痛剤、抗生物質。松本の小林に届ける分と、沿線で必要になるかもしれない分。食品は最低限にとどめた。荷台の重量が増えれば燃費に響く。


 倉庫の隣に備蓄されていた軽油のドラム缶で、銀嶺号のタンクを満タンにした。百五十リットル。手動ポンプのレバーを凪が漕ぎ、荒木が給油口を押さえた。松本で小林が手伝ってくれたときと同じ作業を、今度は凪自身がやっている。ポンプのレバーは重く、十回漕ぐと腕が震えた。普段使わない筋肉が悲鳴を上げる。だが、一ストロークごとにタンクに流れ込む燃料の音は心強かった。


 満タン。これで荘川から印西まで約四百キロ。御母衣を越えて安房峠を下り、松本で医薬品を届けてから関東へ。迂回を考慮しても航続距離には余裕がある。


 朝の光が庄川の水面を照らし始めていた。倉庫の引き戸を閉め、南京錠をかけ直す。残していくもう一基のコンテナは、この古い倉庫の中で次の出番を待つ。あるいは、永遠に出番が来ないかもしれない。それでいい。使われないバックアップこそが、最良のバックアップだ。


---


 銀嶺号のエンジンがかかった。凪が助手席に乗り込むと、荒木はすぐには発進しなかった。ハンドルに両手を置いたまま、フロントガラスの向こうに広がる荘川の朝を見ていた。


 庄川の谷。朝霧が川面から立ちのぼり、山の斜面を白く覆っている。対岸の杉林が霧の中にぼんやりと浮かんでいる。静かな場所だった。NERVAの崩壊とは無関係に、ここでは川が流れ、木が立ち、霧が出る。三十五年前もそうだったのだろう。佐伯がテープを運び込んだ日も。そしてもっと昔、祖父がここに立った日も。


「源蔵さんは」


 荒木が口を開いた。視線はフロントガラスの向こうにある。だが見ているのは今の風景ではなかった。


「ここからさらに西へ走った。福井を越えて、兵庫まで。あのときは物資を届けるためだった。トラックの荷台にありったけの食料と水と毛布を積んで、旧道と林道を繋いで走り続けた」


 凪は黙って聞いた。荒木の声は静かだったが、一語一語に記憶の重みがあった。


「今度は、逆だな」


 凪は息を吸った。


「ここから東へ、システムを届けに行く」


 荒木が凪を見た。


「ああ。逆だ。源蔵さんは西へ走って、物を届けた。あんたは東へ走って、仕組みを届ける。荷台に積んでいるものは違うが──やっていることは同じだ。この場所から出発して、届けるべきものを届ける。道が壊れていても、走る」


 凪の脳裏に、祖父の写真が浮かんだ。トラックの前で笑う男。大きな手。軽油の匂い。祖父はこの場所から走り出し、西の空を見て、届けると決めた。凪は今、同じ場所から走り出す。ただし東を向いて。荷台に積んでいるのは食料でも水でも毛布でもなく、百二十八本の磁気テープ。一本一本のテープの中に、この国の物流を動かす設計図が眠っている。


 方向は反対。積荷は別物。時代は三十五年離れている。だが、道の上に立って、届けると決めた人間がいるという構図は、鏡のように重なっていた。祖父が西へ刻んだ轍の上を、今度は凪が東へ走る。


「行きましょう」


 凪は言った。


 荒木がギアを入れた。クラッチが噛み合い、銀嶺号が動き出す。荷台にはベルトで固定された鋼鉄のコンテナ。中に百二十八本の磁気テープ。テープの上の磁気信号の中に、この国の血管を再び動かすためのすべてが刻まれている。


 バックミラーの中で、古い倉庫が小さくなっていく。朝霧の中に沈んでいく。あの引き戸の向こうに、もう一基のコンテナが残されている。暗い倉庫の中で、静かに、確かに。


 銀嶺号は東へ向かった。朝日が庄川の谷を照らし、フロントガラスに春の光が差し込んだ。


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