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凪の轍  作者: 黒犬


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第十章「御母衣の夜」


 荘川を出た銀嶺号は、国道一五八号を東へ向かった。


 御母衣ダムの方面へ。そこから安房峠を越えて松本に下り、医薬品を小林に届ける。その先は関東平野へ抜けて印西を目指す──はずだった。



 国道一五八号を東へ。梓川に沿って山間を戻る。来た道を逆に辿っているはずだが、夕暮れの光がすべてを別の風景に変えていた。西へ向かったときは太陽に追いつこうとしていた。今は太陽に背を向けている。影が前に伸びて、行く手の路面を暗く染めている。


 軽岡トンネルの入口が見えたとき、荒木がブレーキを踏んだ。


「止まってる。来たときにはいなかったぞ。」


 トンネルの入口を、大型の自動運転トレーラーが三台、完全に塞いでいた。一台目がジャックナイフを起こして車体を横に向け、二台目がその横腹に突っ込み、三台目が側壁に乗り上げている。NERVAの管制信号を失った後、どうにかして自律走行を試みた結果失敗し、三台が連鎖的に事故を起こしたのだろう。コンテナの金属板が折れ曲がり、積み荷が路上に散乱している。凪の鼻に腐敗臭が届いた。食品を積んでいたトレーラーだ。この十日間、春の気温の中で腐り続けていたものが露になったのだろう。


 凪は目を閉じた。記憶の中の道路データが開く。


「現道はここから先、トンネルを三本通ります。いずれも停電で照明が落ちている上に、内部の車両状況がわかりません。迂回路は──」


 一瞬、言葉が詰まった。


「御母衣ダム方面の旧道です。軽岡峠の旧旧道を含む山岳路。幅員は最も狭い区間で三・二メートル。銀嶺号の車幅ぎりぎりです」


 荒木のハンドルを握る手が、わずかに動いた。指先が革巻きのグリップの上を滑り、握り直された。


「……あの道か」


「知っているんですか」


「知っている。源蔵さんと、あの夜に走った道だ」


 凪の胸の奥で、何かが軋んだ。西日本大震災の夜。祖父が荘川から西へ、福井、兵庫へと物資を運んだあの夜。その道を、今度は東へ走る。


「あのときは西へ向かった」


 荒木がギアを入れた。クラッチが繋がる重い音。


「今度は東へ、だな」


 銀嶺号が国道を外れ、旧道への分岐に入った。舗装が荒れ、路面のひび割れが増える。道幅が目に見えて狭くなった。ガードレールは腐食が進み、支柱が傾いている箇所がある。山の斜面が左右から迫り、頭上を覆う木々の枝がヘッドライトの光を呑み込んだ。


 日没が近かった。谷間はすでに暗い。ヘッドライトの黄色い光だけが、数十メートル先の路面を切り取っている。


---


 最初の異変は、旧道に入って二十分ほどで訪れた。


 カーブを曲がった先に、巨石があった。山側の斜面から転がり落ちたのだろう。直径は二メートル近い。道幅のほぼ半分を塞いでいる。表面には苔が生え、落ちてから相当の時間が経っていることを示している。


 荒木がブレーキを踏んだ。銀嶺号のヘッドライトが巨石の表面を照らし、灰色の岩肌に苔の緑が浮かんだ。


「通れるか」


 凪は助手席のドアを開けて降りた。懐中電灯で路面を照らす。巨石の右側──山側──は斜面に接していて余地がない。左側──谷側──に、かろうじて空間がある。銀嶺号が通るには十分とは言えないが、不可能でもない。ただし、路肩が危うい。NERVAの道路データには、この区間の路肩の地盤強度が記録されていた。


 凪は記憶を辿った。路肩の地盤耐力、一平方メートルあたり八トン。ただし三年前の調査時点の数値だ。風化と雨水の浸食で、今は七割程度に低下している可能性がある。五・八五トン。銀嶺号の車輪一つあたりの接地荷重は──コンテナ込みの総重量を四軸八輪で割ると約〇・七三トン。通常走行なら問題ない。しかし路肩に最も荷重がかかるのは、車体が谷側に傾いたときだ。重心がずれれば片側の車輪に荷重が集中する。最悪の場合、二輪分の荷重が路肩の一点にかかる。


「通れます。ただし条件があります」


 凪は運転席の窓に駆け寄った。


「車体を左に二度傾けてください。右側に重心が寄ると、谷側の路肩に荷重が集中します。路肩の地盤がこの重量に耐えきれない可能性がある。左に傾けて、山側の車輪に荷重を逃がしながら通してください」


 荒木が凪を見た。ヘッドライトの逆光で表情は見えなかったが、声には呆れが滲んでいた。


「嬢ちゃん、いくらなんでも」


「私、一度聞いたことは忘れないので」


「……そういう問題じゃないだろう。路肩の地盤耐力なんぞ、普通は聞いても覚えようと思わん」


「覚えようと思わなくても、覚えてしまうんです」


 荒木は呆れたように首を振った。だが、その手はすでにダッシュボード下のレバーに伸びていた。エアサスペンションの手動制御。前後左右のエアバッグを独立して調整できる旧式の機構。現代の自動運転車両には存在しない、手動時代の遺物。荒木は左側のエアバッグの圧を上げ、右側を抜いた。銀嶺号の車体がゆっくりと左に傾いた。


「二度」


 凪が言い、荒木が微調整する。車体の傾きが安定した。


 銀嶺号が動き始めた。一速。歩くよりも遅い速度で。凪は車外に降りたまま、懐中電灯で路肩を照らしながら並走した。巨石と車体の隙間は三十センチもなかった。左のサイドミラーが枝に引っかかり、荒木がミラーを畳んだ。凪の懐中電灯だけが、車体と巨石の間の距離を示す唯一の光源になった。


「あと十センチ。──いまの角度で、まっすぐ」


 荒木のハンドルは微動だにしなかった。巨石の表面が車体の塗装をかすめるほどの距離を、銀嶺号は一定の速度で通過した。荷台のコンテナが巨石の横を抜けたとき、凪は長く息を吐いた。


「通過しました」


 凪が助手席に戻ると、荒木がエアサスペンションを水平に戻していた。


「あんたの記憶力は……化け物だな」


「よく言われます」


「褒めてるんだ」



---


 旧道をさらに進んだ。闇が濃くなっていく。山の稜線はもう見えず、ヘッドライトの届く範囲だけが世界のすべてだった。エンジンの音が谷間に反響し、何台ものトラックが走っているように聞こえる。しかし実際に走っているのは、この一台だけだ。


 荒木が急ブレーキを踏んだ。


 前方から光が来た。ヘッドライトではない。方向が定まらない、不規則に揺れる光。そして音──電気モーターの高い唸り。通常の自動運転車両の制御された走行音とはまるで違う、甲高く不安定な回転音が闇の中に近づいてくる。


「逆走だ」


 荒木が反射的にハンドルを左に切った。路肩の、林道と思しき入口──木々の間に続く土の道──に銀嶺号の車体をねじ込む。車体が大きく揺れ、枝が屋根を激しく叩いた。


 光が突っ込んできた。無灯火ではなく、ヘッドライトの片方──左のライトだけが点いた乗用車。車体は左右に蛇行しながら、およそ時速六十キロの速度で旧道を逆走している。凪の目が、一瞬で車体の特徴を捉えた。フェンダーにセンサーポッドが乱暴にボルト留めされ、ルーフにアンテナアレイが溶接されている。配線の一部が外れて車体の横で揺れていた。違法改造車。NERVAが止まった後、何とかして自律走行を実現しようとした人間の作品。制御は明らかに破綻している。


 乗用車が銀嶺号の横を猛スピードで通過した。タイヤが路面の砂利を弾く音。そのまま闇の中に消えていくかと思った瞬間、車は蛇行の幅を大きく広げ、路肩のガードレールに接触した。金属が引き裂かれる音が谷間に響いた。車体が跳ね、反対側のガードレールにもぶつかる。しかし止まらない。制御を失ったまま、道の先へ暴走し続けている。


 凪の手が動いた。助手席の足元に置いていた業務用端末。NERVAの管制インターフェースが入った薄型タブレット。バッテリーは──霞が関で一度充電したきりだが、残量はまだある。NERVAのネットワークからは完全に切断されている。管制機能は使えない。だが──。


 V2V。Vehicle to Vehicle。車車間通信。NERVAの管制ネットワークとは独立した、近距離直接通信の緊急プロトコル。管制が落ちた場合でも、車両同士が直接通信して衝突を回避するための最後の安全装置。端末からの発信であっても、車両側の受信モジュールが生きていれば、緊急停止信号を受け付ける。


 凪は端末の電源を入れた。画面が暗い中に淡く灯る。管制画面は「接続なし」。しかし通信メニューの最下層──普段は誰も使わない階層──に、緊急停止パケットの発信機能がある。この機能はネットワーク非依存だ。ブルートゥースと短距離無線を使い、半径五十メートル以内の車両に緊急停止信号を送る。


 凪は銀嶺号を飛び降りた。蛇行しながら遠ざかっていく乗用車に向かって走った。端末を片手に、もう片方の手で懐中電灯を振って自分の位置を示す。車との距離が縮まる──いや、車のほうが蛇行したまま向きを変えて突っ込んできた。三十メートル。二十メートル。


 凪は端末の緊急停止ボタンを押した。


 一秒。二秒。


 乗用車のタイヤがロックした。急制動の摩擦音が闇を裂いた。車体が横滑りし、路面の砂利を巻き上げながら、凪の五メートル手前で停止した。


 沈黙が戻った。電気モーターの唸りが消え、片方だけのヘッドライトが路面を斜めに照らしている。凪は懐中電灯で車内を照らした。運転席には誰も乗っていなかった。助手席にも、後部座席にも。遠隔操作か、あるいは粗末な自律制御プログラムで走らせていたのだろう。


 凪の膝が笑った。端末を握る手が震えている。荒木が銀嶺号から降りて走り寄ってきた。


「怪我は」


「ないです。……止まりました」


 荒木は停止した乗用車を見つめた。ルーフの溶接痕。フェンダーのセンサーポッド。素人仕事の、しかし執念の詰まった改造。


「NERVAが落ちて、自分で走らせようとした馬鹿がここにもいたか」


「V2Vの緊急停止パケットが届きました。この車両、NERVAの受信モジュールだけは生きていたんです。改造しても、安全系のハードウェアは残っていた」


「旧い安全装置が、新しい暴走を止めた、ということか」


「旧い技術で動かそうとした車を、新しい安全装置が止めた。……どっちが旧くてどっちが新しいのか、もうよくわかりませんが」


 荒木が低い声で笑った。凪が初めて聞く、荒木の笑い声だった。


 ──どっちか片方だけ、じゃ駄目なんだろうな。

 ハンドルを握る腕も、最後に踏ん張るためのブレーキも。システムも、筋肉も。どちらか一方だけを残してもう片方を切り捨てたときに、今日みたいな穴が開く。そんな当たり前のことに、ようやく指先が触れた気がした。


 乗用車を路肩に寄せ、バッテリーを外して完全に停止させた。この車の持ち主は後日問題になるだろうが、今は構っていられない。二人は銀嶺号に戻り、旧道を再び走り始めた。


---


 三十分が経った。


 御母衣ダムの堤体が、ヘッドライトの光の遥か先に、山の闇を切り取る巨大な壁として浮かんだ。ダム湖の水面が星明りを拾って鈍く光っている。かつてロックフィルダムとして日本最大を誇ったその堤体は、五十年以上の歳月を経てなお、山と山の間に不動の質量として横たわっていた。


 荒木がブレーキを踏んだ。今度はゆっくりと、しかし完全に。


 前方の道が、なかった。


 ヘッドライトが照らしているのは、十メートル先で途切れたアスファルトの断面だった。その先は──闇。道路ごと山肌が崩れ落ちている。崩落の幅は二十メートル以上。路面が消え、代わりに赤茶けた地層の断面と、谷底へ落ちた土砂の斜面が見える。ガードレールが途中で折れ曲がり、宙に突き出している。道の向こう側──崩落の対岸──はアスファルトが続いているのがかすかに見えた。二十メートル。たった二十メートルの空白が、先へ進むことを許さない。


 荒木がエンジンを切った。沈黙の中に、崩落面から落ちる小石の音だけが聞こえた。かすかな、乾いた音。石が転がり、闇の底に消えていく。


「引き返すか」


 荒木が呟いた。独り言のようだったが、凪に向けた問いでもあった。


 引き返す。引き返す。荘川まで戻り、高山経由で国道四一号を北上し、富山から北陸回りで関東を目指す──。凪は頭の中で計算した。迂回すれば二日以上のロス。松本へ薬を届ける約束も叶わなくなり、燃料が持つかどうかも怪しい。バックアップテープが印西に届くのが遅れるほど、全国で失われる命が増える。一日あたり何人が、物流の途絶で、薬の不足で、電力の欠乏で死んでいるのか。正確な数字は誰にもわからないが、ゼロでないことだけは確かだった。


 そして、昨日見た小林の祈るような顔。脳裏にこびりついて離れないあの表情。裏切りたくはなかった。


「荒木さん」


「何だ」


「この上に、林道はありませんか」


 荒木が凪を見た。暗がりの中で、老人の目が光った。何かを思い出す目だった。


「……ある。林業用の作業道だ。この崩落箇所の上を巻いて、向こう側に出られるはずだ」


「その道のことを、覚えているんですか」


「源蔵さんなら、林道に入る」


 荒木の声は静かだった。記憶を語っているのではなく、確信を語る声だった。


「あの夜もそうだった。道が消えたとき、源蔵さんは迷わなかった。上に作業道があるのを知っていた。『行くぞ』と。あのときは俺が別のトラックで後ろを走っていた」


 凪は銀嶺号を降り、崩落箇所の手前から山側の斜面を懐中電灯で照らした。二十メートルほど戻った地点に、左に逸れる細い道がある。舗装はされていない。土と砂利の路面。轍の跡が薄く残っているが、長い間使われた形跡はない。入口の両側に草が茂り、枝が低く覆いかぶさっている。


「NERVAのデータにあります。林業作業道。全長約八百メートル。設計荷重──」


 凪は記憶の中の数字を引き出した。


「六トン」


 次に、銀嶺号の現在の重量を計算した。車両本体の空車重量、約五トン。荒木健三、七十五キロ。早瀬凪、五十五キロ。燃料タンクの軽油、約百四十リットルで約百二十キロ。耐環境コンテナ一基、約二百キロ。医薬品と食料と水、約三百キロ。工具類、端末類、その他備品、約百キロ。合計──。


「今の銀嶺号は、コンテナと医薬品込みで約五・八五トンです」


「六トンの制限に対して──」


「百五十キロの余裕です」


 凪は自分の声が平静であることに驚いた。百五十キロ。大人二人分。路面が予想より脆ければ、三年前のデータが現状と乖離していれば、余裕はさらに縮む。だが、計算上は通れる。


「荘川でコンテナを一基だけにしておいたのが効きました。二基積んでいたら、六トンを超えていた」


 荘川での判断。二度と、バックアップが一箇所だけになってはいけない──その言葉が、結果として銀嶺号を四百キロ軽くした。冗長性への執念が、物理法則の中で生きている。


 荒木は数秒、闇の中の林道入口を見つめていた。風が枝を揺らし、入口の草が波打った。


「百五十キロか」


「はい」


「……やるしかないな」


 銀嶺号が林道に入った。


---


 闇が、それまでとは質の違うものになった。


 旧道にはかろうじて路面の白線や反射板があった。林道にはそのどちらもない。ヘッドライトの光が土の路面を照らし、両側から木々が迫り、頭上は完全に枝葉で覆われている。光が行き場を失い、ヘッドライトの先が異様に明るく、その外側が完全な闇になる。トンネルの中にいるようだったが、トンネルよりも不安定だった。路面が生きている。雨水で抉れた溝、木の根が地面を持ち上げた凹凸、水が溜まった泥濘。タイヤが路面を噛むたびに、銀嶺号の車体が細かく震えた。


 凪は助手席の窓を全開にし、上半身を車外に乗り出した。右手に懐中電灯。左手でドアフレームを掴む。夜の山の空気が冷たく頬を打った。ヘッドライトが照らすのは正面だけだ。路肩の状態は、凪の懐中電灯だけが頼りだった。


「あと三十センチ右に寄せてください。左の路肩が雨で抉れてます」


 荒木がハンドルを微修正した。


「止まってください。前方二メートルに石があります。除けます」


 凪が降りて、両手で石を路肩に転がした。拳二つ分の大きさ。トラックのタイヤなら乗り越えられるかもしれないが、この路面の状態で不要な衝撃を与えたくなかった。五・八トンの荷重がかかっている路面に、余計な負荷は一グラムでも減らしたい。


「進んでください。次のカーブまで十五メートル、右に四十五度です」


 一メートルずつ。文字どおり、一メートルずつだった。凪が声を出し、荒木が応じ、銀嶺号が進む。声と光と、エンジンの低い唸り。それだけが、この真っ暗な林道に存在するすべてだった。


 ふと、NERVAのことを想像した。NERVAならこの林道をどう通過するだろう。LiDARが路面の凹凸を三次元で測定し、地盤強度を推定し、最適な走行ラインをミリ秒単位で計算する。──だがNERVAには、荒木の手がハンドルを握ったときの微かな震えを感じ取る機能はない。凪が声を枯らしながら「あと三十センチ右」と叫ぶ言葉の裏にある恐怖と信頼を読み取るアルゴリズムもない。今ここにあるのは、人間の筋肉と記憶で組み上げた、別の仕組みだ。


 路面が軋んだ。重い音。土の中の砂利が圧縮され、地盤が沈む音。銀嶺号の五・八五トンが、林道の地面を押している。設計荷重六トン。余裕は百五十キロ。たった大人二人分。凪は懐中電灯で路肩を照らした。土にひびが入っていないか。路面が沈み込んでいないか。目を凝らし、耳を澄ませ、足裏に伝わる振動を読む。


「路面は持ってます。このまま進んでください」


 荒木の手がハンドルの上で白くなっていた。握力ではない。集中の色だった。目は正面のヘッドライトの先を見つめ、耳は凪の声だけを拾い、足はペダルの微細な抵抗を感じ取っている。七十二歳の身体のすべてが、一台のトラックと一本の道に注がれていた。


 泥濘に入った。右の後輪が空転した。タイヤが泥を跳ね上げる湿った音。荒木が即座にアクセルを戻し、エアサスペンションで右後輪の接地圧を上げた。泥の中でタイヤが路面を噛み直し、銀嶺号がゆっくりと、しかし確実に前に進んだ。凪は息を止めていたことに気づき、肺の中の空気を吐き出した。


 そのとき、凪の脳裏に記憶が蘇った。


 荒木が、荘川へ向かう道中で語った言葉。


 ──西日本大震災の夜、源蔵さんは助手席の俺に「お前が俺の目になれ」と言った。


 あのとき、荒木は祖父の目になった。闇の中の道を照らし、路肩を確認し、「あと三十センチ右」と声をかけた。三十五年前の夜に荒木がやっていたことを──今、凪がやっている。


 祖父は西へ走った。物資を届けるために。


 凪と荒木は東へ走っている。システムを届けるために。


 方向が逆だ。運ぶものが違う。時代が違う。だが構図の核は同じだった。一人では走れない。誰かが目になる。祖父は荒木の目を借りた。荒木は凪の目を借りている。


 ──お前が俺の目になれ。


 祖父の声ではない。荒木の記憶を通して凪が聞いた、祖父の言葉の残響。それが今、凪の声となって荒木に届いている。世代を越え、方向を反転させて、同じ言葉が形を変えて繰り返されている。


 だが、一つだけ違う。祖父はあの夜、限界を超えた。四十八時間走り続け、身体の声を無視し、そして壊れた。凪と荒木は違う。この林道を抜けたら、休む。限界の手前で止まる。祖父が見えなかったものを──あるいは見えていても無視したものを──自分たちは見る。それが、同じ轍を踏まないということだ。


「左に一メートル。その先、路面が安定してます。あと百五十メートルで現道に出るはずです」


 声が震えていないか、凪は自分で確かめた。震えていなかった。ここで震えるわけにはいかない。凪は荒木の目だ。目が揺れたら、すべてが崩れる。


 残り百メートル。路面の傾斜が変わった。上りに入った。エンジンの回転数が上がり、排気が闇の中に白く散った。タイヤが砂利を噛み、一歩ずつ、一歩ずつ、銀嶺号は登った。


 残り五十メートル。凪は前方の闇を懐中電灯で照らした。木々の間が開け始めている。


 残り二十メートル。路面の下で砂利が鳴った。荷重に耐えている音。まだ持つ。まだ持つ。


 木々が開けた。


 舗装路の感触がタイヤに戻った。現道だ。崩落箇所の向こう側に出た。林道は銀嶺号を、消えた道の先へ送り届けた。


---


 荒木がトラックを停めた。エンジンがアイドリングに落ちた。


 東の空が、白み始めていた。山の稜線の上に、夜と朝の境界線が細く引かれている。星がひとつ、ふたつと消えていく。空気が冷たい。四月の夜明け前の、山の空気。凪は助手席の窓を閉め、自分の指先が冷え切っていることに気づいた。林道を通る間ずっと窓から身を乗り出していたのだ。


 荒木のハンドルを握る手が、震えていた。握力が落ちたのではない。緊張が解けたのだ。林道の八百メートルを一メートルずつ進む間、荒木の身体は一瞬も弛緩しなかった。今、その反動が来ている。七十二年を生きた筋肉が、限界を訴えている。


「荒木さん」


「……ん」


「少し、休みましょう」


 荒木の横顔が、かすかに強張った。


「源蔵さんは、ここで休まなかった」


 凪は黙った。


 源蔵は休まなかった。西日本大震災の夜、崩落した峠道を突破した後も、源蔵はトラックを止めなかった。四十八時間。不眠不休で、福井を越え、兵庫まで走り続けた。それが伝説になった。業界の語り草になった。英雄の証になった。


 そして数年後、源蔵は居眠り運転で死んだ。高速道路の多重事故。凪が六歳のときだった。英雄の最期としては、あまりに呆気なく、あまりに予見可能な結末だった。


 凪は静かに、しかしはっきりと言った。


「だから、私たちは休むんです」


 荒木が凪を見た。


「祖父は英雄でした。でも、あの走り方は正しくなかった。荒木さんが前に言ってくれたとおりです。祖父は休まなかった。だから──壊れた。身体の声を無視した。限界を超えた。私は、同じ轍を踏みたくない」


 凪はそこで一度言葉を切り、フロントガラスの向こうの闇を見つめた。


「──完全な安全なんて、どこにもない。この林道にも、NERVAの中にも、どこにもなかった。でも」


 凪は荒木の方を向いた。


「どのリスクを引き受けるかは、自分で選べます。祖父にはその選択肢が見えなくなっていた。疲労で、使命感で。──私は、目を開けたまま選びたい」


 荒木は何も言わなかった。長い沈黙が、キャブの中を満たした。エンジンのアイドリング音だけが低く続いている。遠くで鳥が鳴き始めた。夜明けが近い。


 やがて、荒木がエンジンを切った。


 沈黙が完全になった。山の音だけが残った。風が木々の葉を揺らす音。沢の水が岩を打つ遠い音。鳥の声。銀嶺号のエンジンが冷えていく、金属が収縮する微かな音。


 荒木がシートを少しだけ倒した。


「……一時間だけだ」


「はい」


「一時間で起こせ」


「わかりました」


 荒木は目を閉じた。数十秒で、呼吸が深くなった。七十二年を生きた身体が、与えられた休息を拒まなかった。身体が限界を教えてくれる。その声を無視しない。荒木が源蔵から学んだこと。源蔵自身は実行できなかったこと。


 凪は助手席に座ったまま、東の空を見つめた。稜線の上の光が、少しずつ広がっていく。紺色が藍色に変わり、藍色が薄い紫に変わっていく。世界が色を取り戻す時間。


 祖父の伝説を繰り返すのではなく、祖父が見落としたものを拾い上げる。英雄的な無謀を引き継ぐのではなく、英雄の知恵だけを受け取り、危うさは断ち切る。それが凪の選択だ。それが、凪の轍だ。


 同じ轍を踏まない。祖父の轍を辿りながら、同じ場所には落ちない。


 荷台には、NERVAのバックアップテープが眠っている。国のインフラを、この国の地面の上に取り戻すための磁気の記録。たった百五十キロのマージンだけで林道を越え、三十五年前の夜を辿り、しかし祖父が止まらなかった場所で止まる。それは後退ではない。前進だ。


 鳥の声が増えていた。山の朝が少しずつ形を成していく。空気の温度が変わり始め、木々の輪郭が闇の中から浮かび上がってくる。荒木の寝息が、低く、規則正しく続いている。


 一時間後、凪は荒木を起こした。


「荒木さん、一時間です」


 荒木は一度だけ目を瞬いた。それから、何十年も繰り返してきた動作で身体を起こし、シートの角度を戻し、キーを回した。エンジンがかかった。ディーゼルの低い音が、朝の山間に広がった。


 荒木の手は、もう震えていなかった。


「行くか」


「はい」


 銀嶺号が動き出した。東の空に光が満ちていく。山の稜線が金色に縁取られ、谷間に朝霧が白く漂っている。ヘッドライトのスイッチに手を伸ばし、消した。もう、必要なかった。


---


 安房峠を下り、松本に戻ったのは昨夜の死闘が嘘のように感じられる、昼前のことだった。


 防災倉庫の門前に、小林が立っていた。二日前と同じ作業服にゴム長靴。ただし顔つきが違う。あのときの警戒は消え、代わりに、待ちくたびれてなお待ち続けた人間の表情がそこにあった。銀嶺号のディーゼル音が聞こえた瞬間、小林は門の鉄柵に手をかけたまま二歩前に出た。


「来てくれたか」


「約束しましたから」


 凪は荷台の幌を解いた。荘川で佐伯が備蓄していた医薬品の段ボール箱が、コンテナの横に並んでいる。降圧剤、抗生物質、解熱鎮痛薬、インスリン製剤。凪はアムロジピンベシル酸塩錠五ミリグラムの箱を取り出し、小林に手渡した。


「三百錠あります。奥さまの分と、地域の方々の分と」


 小林の手が震えた。箱を受け取り、胸に抱えるようにして目を伏せた。数秒、言葉が出ないようだった。


「……すまん。ありがとう」


「礼はいりません。約束を果たしただけです」


 荒木が荷台から降りてきた。残りの医薬品の段ボールを下ろし、小林が手配した軽トラックの荷台に積み替える。地域の診療所と薬局に配る分だ。小林の隣人だという中年の女性が手伝いに来ていて、段ボールの中身を確認するたびに「これ、うちの母に要るんです」「これ、向かいの山田さんが探してた」と声を上げた。作業は十五分で終わった。


「次はどこへ行く」


「東です。印西まで、まだ四百キロ近くあります」


「気をつけてな。一五八号は山が深い。夜になったら無理するな」


「ありがとうございます」


 小林が深く頭を下げた。凪も頭を下げた。銀嶺号のエンジンがかかり、ディーゼルの低い振動が防災倉庫のコンクリート壁に反響した。バックミラーの中で、小林が薬の箱を胸に抱えたまま見送っているのが小さくなっていく。その隣で、隣人の女性が手を振っていた。


---


 荷台が軽くなっていた。荘川で積んだ医薬品類をすべて下ろし、食料と水もすべて松本の倉庫に納めた。残っているのはNERVAのバックアップテープを収めた耐環境コンテナ一基のみ。銀嶺号の足取りがわずかに軽い。サスペンションの沈み込みが浅くなり、カーブでの車体の傾きが小さくなっている。


「荷が減った分、燃費も良くなりますね」


「ああ。ただ、その分バランスが変わる。荷が軽くなると、路面の凹凸に振られやすくなる」


「重いほうが安定する、ということですか」


「そうだ。空荷のトラックは風にも弱い。コンテナ一基分の重さが残っているだけ、まだましだがな」


 中央自動車道の側道を東へ。関東平野を目指して。朝の光の中を、銀嶺号は走り続けた。


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