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凪の轍  作者: 黒犬


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第十一章「新しい道・凪の轍」


 関東平野は、夜明けの色をしていた。


 銀嶺号が秩父の山あいを抜け、飯能から狭山の台地に出たとき、東の空が薄い橙色に染まり始めていた。凪は助手席で目を開けた。いつの間にか眠っていたらしい。首筋がこわばり、腰が痛む。窓の外に広がる平野の風景が、山道しか見てこなかった目には嘘のように平らだった。


「起きたか」


 荒木の声は掠れていたが、揺らぎはなかった。ハンドルを握る手は安定している。ただ、左手の甲に浮いた血管が、出発時より太く見えた。


「いま何時ですか」


「四時半を回ったところだ」


 御母衣の林道を抜けてから、何時間が経ったのか。安房峠を下り、松本で約束どおり医薬品を小林に届けた。その後、中央道の側道と旧国道を繋ぎ、甲府を迂回し、奥多摩から秩父を抜けてきた。凪の記憶の中の道路データが、一本一本の旧道を引き出し、荒木がそのたびにハンドルを切った。二人のあいだに言葉は少なかった。必要な情報だけを交わし、あとは銀嶺号のエンジン音が沈黙を埋めた。


「国道一六号に出ます。あと十五キロほど南東に走れば──」


「印西か」


「はい」


 荒木は頷いた。凪は荷台のほうを振り返った。幌の下に、佐伯が荘川に残した耐環境コンテナが積まれている。中にはNERVAのコア制御プログラムと全国の自動運転ネットワーク設定データの完全なスナップショットが、LTO磁気テープの形で眠っている。三年前のデータだ。すべてを元に戻すには足りない。だが、道筋を開くには十分なはずだった。


---


 国道一六号は、関東の環状動脈だった。NERVAの時代には一日数万台の自動運転車両が流れていたこの道も、今は停止した車列が断続的に並ぶだけの灰色の帯になっている。それでも山間部に比べれば障害物は少なく、荒木は対向車線を使いながら銀嶺号を快調に走らせた。


 朝霧が出ていた。関東平野の四月の朝に特有の、低く薄い靄が田畑の上を這っている。田んぼの水面が空を映し、空と地面の境界が溶けていた。ヘッドライトの光が霧の粒子に散乱し、白い光の幕が前方に広がった。その幕の向こうに、巨大な影が浮かんでいる。


「見えてきた」


 凪の声は、自分でも意外なほど小さかった。


 朝霧の中から、コンクリートの建物群が姿を現した。印西ナショナルDCハブ。国の統合データセンター。フェンスで囲まれた広大な敷地に、均一な高さの箱形建築が整然と並んでいる。外壁に窓はほとんどなく、代わりに巨大な空調設備が屋上と側面に張りつき、霧の中でかすかに輪郭を滲ませている。NERVAが生きていたころ、この施設はエンジニアの作業スペースとして余生を送っていた。サーバーが撤去され、ラックが抜かれ、デスクとホワイトボードが並んだ──あの空のサーバールームを、凪は覚えている。


 あのとき感じた、名前のつかない不安。空のラックの扉が半開きだった光景。あれが何だったのか、今ならわかる。


 前にここを訪れた日のことが、記憶の中で鮮明に重なった。ラックの扉が半開きで、中は空だった。「NERVA-HS-03」のラベル。あのとき胸の奥に沈んだ感覚に、ようやく名前がついた。不安ではなかった。喪失だ。守るべきものが、すでに失われていた。あのときはまだ気づかなかった。気づけなかった自分を、凪は忘れない。


 建物群の正面ゲートに、人の姿があった。


---


 銀嶺号がゲート前で停まると、ディーゼルの排気音を聞きつけたように建物から人が出てきた。施設のスタッフが三人。そして、迷彩服を着た自衛隊員が五人。通信技術チームだった。佐伯が衛星電話で手配した受け入れ人員が、ここで待機していたのだ。


 凪がステップを降りると、ゲート脇に立っていた施設管理官の女性が歩み寄ってきた。五十代半ば、白髪交じりの髪をきっちりと束ねている。


「日環の早瀬さんですね。国交省の佐伯室長補佐から連絡を受けています。──長旅でしたね」


「ありがとうございます。慎重に運びたいので、搬入口への誘導をお願いします」


「もちろん。サーバールームは先週から電力を確保して空調を再起動しています。viaの技術者が二名、東京からここまで自転車で来てくれました。受け入れ準備は整っています」


 自転車で。凪は一瞬、その言葉の重さに立ち止まった。NERVAが止まった世界で、技術者が何十キロもの距離を自転車で移動してきた。法律上は禁止されている移動手段だが、もはや誰もそんなことを咎める余裕はない。自分たちは旧いトラックで来た。技術者は自転車で来た。人が動かなければ、何も始まらない。手段は何であれ、人が意志を持って動いたということが、すべての始まりだ。


 銀嶺号が搬入口に寄せられた。荒木がエンジンを切ると、急に世界が静かになった。数日間聞き続けたディーゼルの鼓動が消え、代わりに室外機の低いモーター音と、鳥の声だけが残った。


 幌を外す。耐環境コンテナが、朝の光を受けて鈍く光った。自衛隊の通信技術チームと施設スタッフが慎重にコンテナを荷台から降ろし、搬入口からサーバールームへ運んでいく。凪はその作業を見守った。荘川の暗い倉庫から銀嶺号の荷台へ。御母衣の夜の林道を越えて。中央道の側道を東へ。そしていま、この建物の中へ。テープ一巻一巻に、NERVAの設計図が眠っている。


 荒木は運転席から降りず、その光景を見ていた。荷台が空になった銀嶺号が、搬入口の脇で小さく見えた。何百キロもの道を走り、峠を越え、林道を抜けてきたこの車の仕事は、ここで一区切りだった。


「源蔵さんは、あの夜、西へ物資を運んだ」


 凪は荒木のそばに立ったまま答えた。


「私たちは東へ、システムを運んできました」


「対だな」


「ええ」


 それだけだった。それだけで十分だった。


---


 サーバールームに入ったとき、凪の足が止まった。


 あのときと同じ部屋だった。天井の空調ダクト、床下のケーブルラック、壁面の消火設備。配置は記憶のとおりだ。しかし、以前デスクとホワイトボードが並んでいた空間に、新しいサーバーラックが並んでいた。viaの国内リージョン用Outpost機材。崩壊前日に提供が開始されたAIインフラサービスのための、真新しい筐体。後から聞けば、駐留米軍が死力を尽くして本国から搬送したと。


 あの空のラックがあった場所に──「NERVA-HS-03」のラベルが貼られていた、あの空の箱があった場所に──新しいサーバーが据えられている。空調が冷気を送り込み、電源インジケーターが青い光を点滅させていた。


 技術チームがコンテナを開封し、テープカートリッジを一本ずつ取り出していく。ラベルに印刷されたシリアル番号と日付。三年前のデータ。佐伯が一人で、個人資産まで投じて守り抜いたもの。


「テープライブラリの装填、始めます」


 自衛隊の通信技術士官が声をかけた。viaの技術者がモニターの前に座り、キーボードに手を置いた。カートリッジがライブラリに吸い込まれ、磁気ヘッドがテープの表面を読み始める。モニターにデータの読み込み状況が表示された。進捗バーが、ゆっくりと伸びていく。


 凪はモニターの前に立った。画面には、NERVAのコアイメージファイルがサーバーに転送されていく過程がリアルタイムで表示されている。ファイル名の一つ一つを、凪は知っていた。管制インターフェースの設定ファイル。ルーティングエンジンのパラメータ。車両制御プロトコルのマスターデータ。三年前のスナップショットだから、その後のアップデートは含まれていない。全国の自動運転車両に制御信号が届くまでには、ここから何週間もの再構築作業が必要になる。それでも。


「東京リージョンへの仮復旧、開始します」


 技術者の声が、空調のハム音の中に響いた。


 凪はモニターを見つめた。データが流れていく。宗国のクラウドではなく、この建物の中のサーバーに。日本の地面の上にある、日本の電力で動く、日本の空調が冷やす機械の中に。NERVAが、この国の土の上に、帰ってくる。


 数時間が経った。午前十時を過ぎた頃、技術者がキーボードから手を離し、モニターを二度確認してから振り返った。


「基幹制御プログラムの起動試験──成功です」


 サーバールームに、短い沈黙が落ちた。そして、自衛隊の技術士官が小さく拳を握った。施設管理官の女性が目を伏せた。viaの技術者が眼鏡を外して目頭を押さえた。


 全国復旧には、まだ数週間かかる。三年分のデータの差分を埋め、車両制御プロトコルを更新し、全国のインフラとの接続試験を一つずつ通す必要がある。それでも、道筋は開かれた。NERVAの心臓が、海の向こうではなく、日本の地で再び動き始めた。


 凪は窓のないサーバールームの壁を見つめた。この壁の外には、関東平野が広がっている。その先に日本海があり、山脈があり、西日本がある。NERVAの血管が再びこの国を巡る日まで、まだ遠い。だが、心臓はもう、ここにある。


 サーバールームを出ると、搬入口のコンクリートの上に荒木が座っていた。安全靴を脱いで足を伸ばし、朝の光に目を細めている。凪がその隣に腰を下ろすと、荒木はポケットから飴を一つ取り出し、無言で凪に差し出した。黒飴だった。凪はそれを受け取り、口に入れた。甘くて、少し苦い。


「終わったのか」


「始まったんです。まだ、始まっただけですけど」


「それでいい」


 荒木はそう言って、空を見上げた。朝霧が晴れ、四月の青空が広がっている。銀嶺号が搬入口の脇に停まっている。排気管はまだ温かく、薄い陽炎が立ちのぼっていた。


---


 復旧から数ヶ月が経った。


 NERVAの仮復旧は、国内に留まっていた数少ない通信手段を通じて全国に伝えられた。基幹制御プログラムの復元から全国の自動運転車両への管制信号再開までは早かったが、事故車両の移動と主要道の道路啓開には六週間を要した。完全復旧には至らないまでも、主要幹線の物流が再開したとき、首都圏の避難所から歓声が上がった。


 しかし歓声の裏側では、怒りが渦巻いていた。


 国家の重要インフラが海外クラウドの単一リージョンに依存していた事実。事業仕分けの名の下にバックアップを廃止し、国内への移行計画を棚上げした経緯。それらが報道を通じて国民の知るところとなり、鶴見洋一郎政権は総辞職に追い込まれた。調査委員会が設置され、鶴見が宗国への利益誘導に熱心であったことが白日の下に晒された。政権交代後、鶴見は逮捕され、国家背任の罪で起訴された。法廷でも「想定外の事態だった」と繰り返したが、すでに誰の耳にも届かなかった。側からは、宗国人の妻すらいなくなったそうだ。


 新政権は「デジタル主権法」を制定した。国家の基幹インフラを構成するシステムは、国内に物理的な主系を置くことが法的に義務づけられた。NERVAは国内複数拠点への分散アーキテクチャに再設計された。かつてのNERVAは、一つの巨大な頭脳がすべてを制御する構造だった。速く、賢く、効率的だった。だがその頭脳は海の向こうにあり、一箇所が倒れればすべてが止まった。新しいNERVAは違う。東京、名古屋、大阪、九州、北海道──国内の複数の拠点が、それぞれ独立して動きながら互いを補う構造。一箇所が倒れても、残りが肩代わりする。さらにオンプレミスとクラウドのマルチ構成が標準とされた。東京、名古屋、大阪はクラウド、福岡と石狩がオンプレミス拠点に選ばれた。バックアップテープの物理的保管制度も復活し、荘川に残された二基目の耐環境コンテナは、新たなオフサイトバックアップ拠点として正式に登録された。


 佐伯信吾は、世間から英雄視された。独断でバックアップを守り抜いた男。しかし「無断で国家資産を持ち出した」事実は問題視されることになり、処分が検討されたものの佐伯はその前に国交省を辞職した。救国の立役者を放置すれば国民の支持を失うと危惧した新体制は、荘川オフサイト拠点の責任者に佐伯を乞うた。佐伯はある日凪に電話をかけてきて、そのことを告げた。「こんなこともあろうかと、ですよ」と笑う声は、どこか嬉しそうだった。


 そして、各地域に手動運転可能な予備車両と訓練を受けた人員を配置する「ヒューマンバックアップ制度」が導入された。NERVAが止まっても、最低限の物流を人間の手で維持できる体制。自動と手動の二重系。どちらか一方に全面依存しない仕組み。


 この制度の設計議論に、凪は参加した。会議の席で、自分の中にずっとあった恐怖が──旅を通じてようやく名前がついた恐怖が──設計要件として形を持つのを感じた。一点依存の危うさ。備えを手放すことの代償。荘川の倉庫で佐伯のテープを手に取ったときの重み。御母衣の夜に荒木に「休みましょう」と言ったときの覚悟。松本で小林さんと顔を突き合わせた記憶。そのすべてが、「人間が最後の砦として機能する仕組み」という一文に凝縮されていた。


---


 凪は、日環ロジスティクスの新設部門「手動・自動統合運用課」の初代課長に就任した。


 肩書きの文字数が多すぎる、と同僚の河野に笑われた。宮田は「手自統」と略してはどうかと提案し、すぐに却下された。新座拠点の管制センターには新しいモニターが入り、NERVAの管制画面が再び光点を映していた。以前と同じ光景。だが以前と違うのは、画面の隅に「国内主系:正常 バックアップ:5秒前に同期済」のステータスが常時表示されていることだった。


 崩壊からの数ヶ月で、あのとき胸の底に沈んでいた「名前のない感覚」は、少しずつ言葉になっていった。


 祖父の事故をきっかけに、私は長いあいだ「人間の限界」が怖いのだと思っていた。ハンドルを握ることそのものが怖いのだと。だからNERVAを信じたし、その数字にすがった。


 違ったのだと思う。


 私が本当に怖かったのは、人間でも機械でもない。「一つに全部預けてしまうこと」だった。一つの身体に、一つのリージョンに、一つの仕組みに。壊れたときに他の手段が何も残らない、その状態に名前をつけられずにいただけだ。


---


 ある休日、凪は電車に乗った。NERVAの復旧とともに交通網は正常化し、人々は再び自動運転の車両に身を委ねて移動している。車窓を流れる風景は崩壊前と変わらない。ただ、高速道路の路肩に錆びたまま放置されている車両がところどころに残っていて、あの日々がまだ完全には消えていないことを示していた。崩壊から復旧までの間に失われた命の数は、まだ集計が続いている。その数字を、凪は一つずつ覚えている。覚えていることしか、できない。


 荒木の自宅は、秩父にあった。古い一軒家。門の前に、銀嶺号が停まっている。塗装の剥げた銀色の車体。排気管に煤。タイヤの溝に泥が詰まっている。あの旅の痕跡が、まだ残っていた。


「来たか」


 荒木が玄関から出てきた。作業着にカーキ色のベスト。安全靴。あの日と同じ格好だった。違うのは、表情にわずかな柔らかさがあることだ。


「お元気そうで」


「元気なもんか。腰が痛くてかなわん。あの旅のツケが回ってきてる」


「無茶をしましたから」


「あれは無茶じゃない。必要だった」


 荒木はそう言って、銀嶺号に歩み寄った。運転席のドアを開け、中を指で示した。


「乗れ」


「え?」


「運転席だ」


 凪は立ち止まった。荒木の目は冗談を言っている目ではなかった。


「私、運転したことがありません。教わったこともない」


「知ってる。だから教える」


 荒木は運転席のステップに手をかけ、それから凪に向き直った。


「あんたは道を全部覚えてる。車の仕組みも頭では知ってるだろう。だが、ハンドルを握ったことはない」


「……はい」


「それじゃ足りない。知っているだけでは足りない」


 凪は銀嶺号の運転席を見上げた。革張りのシートの表面は擦り切れて、スプリングの感触がシートの外から見てもわかる。計器盤のアナログメーター。ステアリングコラムの横に貼られた、色褪せたテープ。手書きの「銀嶺」の文字。


 ステップに足をかけた。身体を引き上げる。座面に腰を下ろす。硬い。背骨にスプリングの感触が直に伝わる。あの旅の初日、助手席に座ったときと同じ感触だった。だが今は、目の前にハンドルがある。


 大きい。思っていたよりも、ずっと大きい。


 両手を伸ばした。指先がハンドルのリムに触れた。冷たい。金属と樹脂と、その上に幾層にも重なった手脂の感触。荒木の手。そしてそれ以前の、この車を運転してきた誰かの手。


 握った。


 重い。


 パワーステアリングが効いているはずだった。エンジンがかかっていない状態のハンドルは、油圧の補助がない分、車輪の抵抗がそのまま伝わってくる。何トンもの鉄の塊が、このリムの向こう側にぶら下がっている。その重量が、両手に、手首に、腕に、肩に、じかに響いた。


 ──ナギ、ハンドルっていうのはな、重いんだ。


 祖父の声が、二十五年の距離を越えて、鮮明に蘇った。


 ──重いから、ちゃんと持たなきゃいかん。軽いもんは手を離しても大したことにならんが、重いもんは手を離したら誰かが怪我をする。


 重い。祖父が言っていたのは、これだ。数字でも概念でもない。手のひらに伝わる、物理的な、逃げようのない重さ。この重さを、祖父は毎日握っていた。荒木も握ってきた。人間がハンドルを握っていた時代、日本中のドライバーが、この重さを知っていた。


 そしてNERVAがそれを肩代わりした。重さを消した。人間の手からハンドルを取り上げ、事故を消し、死を減らし、効率を極限まで高めた。それは正しかった。祖父のような死を二度と生まないために、正しかった。だが、重さを知らない手で何かを守れるのかと、今の凪は思う。


 凪の目が熱くなった。


 恐怖がある。この重さの先に、祖父を殺したものがある。疲労と使命感が人間の限界を押し潰す力。一つのものにすべてを預ける構造の脆さ。──だが、その恐怖には、もう名前がある。名前のない不安だった頃は、ただ胸の奥で澱むだけだった。今は違う。恐怖の輪郭が見え、恐怖の名前を知り、恐怖と向き合ったまま、それでもハンドルを握ることを選んでいる。消えてはいない。消えなくていい。名前のついた恐怖は、判断の材料になる。


「荒木さん」


「何だ」


「エンジンをかけてもいいですか」


 荒木が助手席に乗り込んだ。シートベルトを締め、凪を見た。


「キーを回せ」


 凪は右手でキーをひねった。セルモーターが回り、一瞬の間があって、ディーゼルエンジンが目覚めた。低い振動が座面から腰へ、ハンドルから手のひらへ、全身に伝わった。車体が生き物のように震えている。


「クラッチを踏んで、ギアを一速に入れろ。左足がクラッチ、真ん中がブレーキ、右がアクセル」


「わかります。知識としては」


「知識はいい。足で覚えろ」


 荒木は銀嶺号の前方に広がる私道に目をやった。


「家の前も俺の土地だ。気にするな」


 左足でクラッチペダルを踏み込んだ。重い。これも重い。右手でシフトレバーを左上に押し込む。金属の噛み合う感触が手に伝わった。


「クラッチをゆっくり上げろ。急に離すなよ。エンストする」


 左足をゆっくりと上げた。ある一点で、エンジンの振動が変わった。回転数が落ち、車体が前に引かれるような力が生まれる。半クラッチ。頭では知っている。だが足の裏で感じるのは初めてだった。


 銀嶺号が、ゆっくりと動き出した。


 門の前の路地を、時速五キロにも満たない速度で。タイヤが路面の凹凸を拾い、その振動がハンドルを通じて凪の手に伝わる。ハンドルが生きている。道路の表面が、手のひらの中にある。


「真っ直ぐでいい。そのまま」


「……重いですね」


「ああ。重い」


 荒木の声は静かだった。


「……源蔵さんも、最初はそんなもんだったよ」


 凪はハンドルを握ったまま、前を見た。目の端が滲んでいた。祖父も、この重さから始まったのだ。この重さを何万回も握り、身体に刻み、やがて道と一体になった。そして、その重さに押し潰された。


 銀嶺号は山あいの路地をゆっくりと進んだ。速度は歩くより少し速い程度。凪のぎこちないハンドル操作に、車体が小さく左右に揺れる。荒木は何も言わなかった。口元にかすかな笑みが浮かんでいた。


 路地の先に、高架道路が見えた。高架道路を走る車列が目に映る。自動運転トラックの隊列だ。白い車体が等間隔で並び、秒単位の精度で流れていく。NERVAの管制信号を受けて、再び走り始めた無人の車列。あの光点の一つ一つを、かつて凪は管制画面で眺めていた。


 目に映る隊列と、手のひらの中のハンドル。自動と手動。効率と重さ。どちらも、この国の道の上にある。


 凪はハンドルの振動を確かめた。路面の凹凸が、アスファルトの継ぎ目が、タイヤを通じて伝わってくる。NERVAのセンサーが千分の一秒で処理するデータを、凪の手は一秒に一つずつ、ゆっくりと受け取っている。遅くて、不正確で、非効率な、人間の感覚。だがそれは、確かに凪自身の手で感じ取った、この道の温度だった。


 ──あのとき言い知れなかった不安には、今は名前がある。全部を一つに預けてしまうことへの恐怖。それだけは、もう二度と見過ごさない。



 どちらかだけでは、足りない。どこかだけでも、足りない。



こちらで完結といたします。お読みいただきありがとうございました。

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