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凪の轍  作者: 黒犬


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第七章「西へ」


 その夜の霞が関は、蝋燭の匂いがした。


 省庁横断の緊急会合が終わったのは午後九時を回った頃だった。官僚たちは疲弊した顔で廊下に散り、凪は国交省の建物の一階ロビーに戻った。かつてセキュリティゲートが並んでいた空間に、今は段ボール箱と毛布が積まれている。原発由来の限定給電で天井の蛍光灯が三本に一本だけ点いており、人々の影が不自然に長い。


 銀嶺号は、建物裏手の搬入口に停めてある。荒木は運転席で仮眠を取ると言っていた。凪は佐伯に呼び止められたまま、廊下の隅に立っている。


「早瀬さん、お祖父さんが走ったルートは──ご存じですか」


 佐伯信吾は声を落としていた。五十四歳の国交省室長補佐は、会合中の冷静な佇まいとは裏腹に、廊下ではひどく落ち着かない様子で眼鏡のブリッジを何度も押し上げている。


「おおよそは」


「荘川の倉庫には、NERVAのフルバックアップテープが二基のコンテナに収めてあります。一基だけでも印西に届けば、国内リージョンへの仮復旧が可能になる。先ほど会合でお話ししたとおりです」


「はい」


「ですが……この話を、どこまで荒木さんにお伝えしていますか」


「まだ何も」


 佐伯が眼鏡を外し、レンズを上着の裾で拭いた。手が微かに震えていた。


「全部、話してください。あの方に」


---


 搬入口に向かう途中、凪は暗い廊下を歩きながら考えた。


 佐伯から聞いた話の全体像はこうだ。岐阜・荘川の旧い公共倉庫に、廃棄されたはずのNERVAのバックアップテープが二基の耐環境コンテナに収められて眠っている。佐伯が個人資産まで投じて退避させた、台帳上は「廃棄済」のデータ。それを千葉県印西市のナショナルDCハブに届ければ、崩壊前日に東京・名古屋リージョンでサービスを開始したばかりのviaのインフラを使い、NERVAを国内の地面の上に仮復旧できる。


 問題は距離と手段だった。東京から荘川までの往復を含め、総距離は約六百キロ。高速道路は停止車両で埋まり、自動運転車両は使えない。自衛隊は西日本支援と宗国の牽制で手一杯。旧道と山道を手動で走破するしかない。


 それができるのは、この国に一人しかいない。


 搬入口の鉄の扉を押し開けると、夜気が頬に当たった。四月の夜は予想よりも冷えた。コンクリートの搬入路に銀嶺号が停まっている。ヘッドライトは消えているが、運転席にはダッシュボードの常夜灯がかすかに灯っていた。


 凪がキャブの横に立つと、運転席の窓が内側から開いた。


「お嬢さん。会合は終わったか」


「はい。──荒木さん、話があります」


---


 凪は搬入口の縁に腰を下ろし、荒木は銀嶺号の運転席から降りてきて隣に立った。凪は佐伯から聞いたことをすべて話した。バックアップテープの存在。荘川の倉庫。印西への輸送。仮復旧の可能性。


 荒木は腕を組んだまま黙って聞いていた。凪が話し終えても、しばらく何も言わなかった。夜の空気にディーゼル燃料の残り香が混じっている。遠くで、自衛隊の車両が通過する低い音が聞こえた。


「荘川か」


 荒木がようやく口を開いた。


「ああ、荘川。あの辺りは……知ってる」


「ルートは──」


「国道二〇号で甲府を抜けて、諏訪から一九号で木曽路に入る。塩尻あたりで一五八号に折れて、安房峠を越えれば高山だ。高山から一五八号をさらに西へ行けば荘川に出る。帰りはテープを積んで、中央道の側道と旧国道を東に戻って関東平野に下りる。印西までは国道一六号がある」


 凪は瞬きもせず荒木を見た。ルートの名前が口をついて出る速さ。荒木は地図も広げずに、暗闇の中で、まるで先週走った道を思い返すような口調で言った。


「源蔵さんと走った道だ。西日本大震災の夜、この逆を行った。荘川から西へ。あのときは福井、兵庫まで。今度は東京から荘川へ行って、東に戻る」


「覚えていらっしゃるんですか。三十五年前の道を」


「忘れるわけがない」


 荒木はそれだけ言った。凪は記憶の中から道路データを引き出した。国道二〇号──甲州街道。東京から甲府まで約百二十キロ。大月付近で笹子トンネルを通過するが、停電でトンネルが使えない場合は旧道の笹子峠を迂回する必要がある。勾配七パーセント、幅員四・五メートル。国道一九号──塩尻から木曽福島を経由して松本方面に抜ける中山道沿いの山岳路。国道一五八号──松本から安房峠を越えて高山に至る。安房トンネルは停電で通行不能の可能性が高く、旧道の安房峠を越えることになる。幅員三・八メートル、設計荷重十二トン、九十度カーブが連続──。


「総距離は片道約三百キロ。往復で六百。国道二〇号は大月から勾配がきつくなります。笹子を越えて甲府盆地に下りれば一旦は楽ですが、諏訪から先の一九号は木曽谷の連続カーブ。さらに一五八号に入ったら安房峠の九十度カーブ群。平均時速を考えると──」


「三日はかかる」


 荒木が言った。凪の計算と同じ数字だった。


「山道は日が暮れたら止まる。峠の旧道を夜走るのは自殺行為だ。一日目で松本あたりまで。二日目に安房峠を越えて荘川。三日目にテープを積んで東へ戻る。戻りは下り基調だから少し速い。だが途中何があるかわからん。停止車両の障害、路面の崩落、何でもありだ。四日、見ておいたほうがいい」


「燃料が問題です」


 凪は言った。


「銀嶺号のタンク容量は百五十リットル。満タンで航続距離約九百キロ。六百キロなら計算上は足りますが、山道では燃費が落ちます。迂回も考えると、途中で一度は給油しないと──」


「ガソリンスタンドは死んでるだろう。電力がなきゃポンプが動かん」


「佐伯さんが、ルート上の自治体に燃料の手配を掛け合うと言っていました。甲府や松本の防災倉庫に自治体備蓄の軽油があるはずだと」


「あるにはあるだろうが、出してくれるかどうかは別の話だ。どこの自治体も自分のところの燃料は手放したがらん。電力が来ない以上、軽油は暖房にも発電にも使う。命に関わる」


「それは──そうですね」


---


 凪は佐伯のもとに戻り、ルートと必要な支援を伝えた。佐伯は頷きながらメモを取り、知りうるすべての知己に連絡を入れ始めた。しかし衛星電話の回線は混み合い、地上の通信は断続的にしか通じない。


「甲府と松本に通行許可と燃料手配の打診を出しますが……確約は難しい。通信が安定しないんです」


「それでもお願いします」


「自衛隊にも掛け合いました。護衛の車両は出せないそうです。西日本に主力が張りつけで、首都圏にも回す余裕がない。ただ──軍用衛星電話の貸与だけは認めてもらえました。これで最低限の連絡手段は確保できます」


 佐伯が差し出した衛星電話は、民生品とは違う武骨な筐体だった。凪はその重さを掌で確かめた。通信手段が一つあるだけで、何もないのとはまるで違う。だが同時に、これが唯一の命綱であることの心許なさも感じた。


「護衛なしですか」


「申し訳ない。西日本の状況が──」


「いえ、わかっています。──予備燃料はどうにかなりませんか。ドラム缶で一本でも積めれば──」


「手配を試みましたが、霞が関の備蓄燃料は自衛隊の車両運用に回されています。民間への放出は、今の段階では──」


「わかりました」


 凪は引き下がった。ないものを求めても仕方がない。銀嶺号のタンクに入っている燃料と、途中で交渉して得る燃料。それだけが頼りだ。荒木が言ったとおりだ。出してくれるかどうかは別の話。だが、出してもらうしかない。祖父もそうだったはずだ。一つずつ、人間に頭を下げて。


「あとひとつ。差し出がましいお願いですが、新座への食料と水を」


「わかりました。それぐらいであれば何とかなるでしょう」


---


 午後十一時を過ぎた。


 凪は搬入口に戻った。荒木は銀嶺号の荷台に腰かけて、古い道路地図を広げていた。佐伯が省庁のどこかから見つけてきた紙の地図──国土地理院発行の五万分の一。折り目がすり切れ、端が黄ばんでいる。NERVAの時代に紙の地図を使う人間は皆無だった。しかし今、電子端末の電池は死に、通信は途絶え、この黄ばんだ紙が最も信頼できる情報源だった。


 荒木が地図に鉛筆で線を引いている。凪はその手元を覗き込んだ。国道二〇号、一九号、一五八号。三本の線が東京から西へ、山を越え、谷を渡り、荘川に至っている。


「荒木さん」


「ん」


「祖父のこと──もう少し、聞いてもいいですか」


 荒木の手が止まった。鉛筆の先が地図の上で静止している。荘川の文字の横。


「何が知りたい」


「あの夜のこと。西日本大震災の夜。祖父がどう走ったのか」


 荒木は鉛筆を地図に置いた。銀嶺号の荷台の鉄板が、夜の冷気を吸って冷たくなっていた。凪は搬入口の縁に立ったまま、荒木の横顔を見ていた。常夜灯の薄い光が、老人の白髪と深い皺を照らしている。


 長い沈黙があった。自衛隊の哨戒車両が遠くを通り過ぎ、その音が消えて、また沈黙が戻った。


「あの夜は」


 荒木が話し始めたとき、声は低く、抑えられていた。


「荘川の倉庫に、食料と医薬品が備蓄されていた。西日本の被災地に届ける必要があった。高速は寸断されていた。源蔵さんが、旧国道で行くと言った」


「荒木さんも一緒だったんですか」


「俺は別のトラックだ。源蔵さんの後ろを走った。荘川を出たのは夜の十時頃だった。国道一五八号で高山を越えて、一五六号で福井に抜け、そこから兵庫まで。距離にして三百キロ以上。旧道と山道だけで」


 荒木の目は地図に落ちていたが、見ているのは地図ではなかった。三十五年前の闇の中を走る二台のトラックの、ヘッドライトの記憶を辿っているのだと凪にはわかった。


「源蔵さんはな、あの夜、四十八時間ぶっ通しで走った」


 声の調子は変わらなかった。まるで天気の話をするように。


「荘川を出てから福井に着くまでに十二時間。福井で物資を下ろして、次は兵庫へ。兵庫の避難所に着いたのは翌日の夜だった。それからさらに、別の避難所を三箇所回った。最後の荷を下ろしたとき、出発から四十八時間が経っていた」


「荒木さんは──」


「俺は福井で止まった。限界だった。眠くて、手が震えて、これ以上は無理だと思った。源蔵さんに、休もうと言った」


 荒木の声がわずかに低くなった。


「あの人は聞かなかった」


 凪は黙って聞いていた。呼吸を止めるようにして。


「途中、峠の道が崩れていた。土砂崩れで半分以上が埋まっていた。普通なら引き返す。迂回路を探す。だが源蔵さんは止まらなかった。残りの半分の幅で、大型トラックを押し通した。路肩は崖だった。ガードレールは崩落で流されていた。あの人は片輪を崖の縁にかけたまま二十メートルを走り抜けた」


 荒木の手が、無意識にハンドルを握るように丸まった。


「英雄だったよ。間違いなく。あの人がいなかったら、避難所の人間は何人か死んでいた。物資が届かなければ、あの冬は越せなかった」


 荒木は一拍置いて、付け足すように言った。


「──だがな、あの夜の前にも、源蔵さんは道を間違えたことがある。塩尻の手前で分岐を見落として、三十キロ余計に走ったことがあった。荷主に頭を下げて、俺にも当たった。翌日になって、すまなかった、昨日は判断を誤った、と言った。英雄じゃない。普通の人間だ。迷うし、間違えるし、それを認める男だった。──あの夜だけが、違った」


「……」


「だが──あの走り方は、正しくなかった」


 荒木がそう言ったとき、凪は初めて老人の声に感情の揺れを聞いた。揺れ、というほどのものですらない。水面に落ちた砂粒が起こす波紋のような、かすかな振動。


「四十八時間、不眠で走り続けるのは人間のやることじゃない。崩れた峠を強引に突っ切るのは、勇気じゃない。あれは──」


 荒木は言葉を切った。数秒の沈黙。


「その後、あの人がどうなったか──あんたは、知っているだろう」


 凪は頷いた。声は出なかった。


 知っている。祖父は西日本大震災の後もトラックに乗り続けた。英雄として讃えられ、しかし身体は確実に壊れていた。四十八時間不眠の走行がもたらした蓄積疲労は、何年経っても消えなかった。そして、最後は居眠り運転で高速道路の多重事故を起こして死んだ。凪が六歳のときだった。


 祖父の大きな手。軽油の匂い。かすれた声。あの手がハンドルから離れた瞬間のことを、凪は知らない。母はそのことを語らなかった。だが結果だけは知っている。三人の死者。祖父を含めて。


「俺は止められなかった」


 荒木が静かに言った。


「あの夜、福井で止まったとき、源蔵さんのトラックを追いかけなかった。追いかけて、身体を張ってでも止めるべきだった。あの人の隣にいた人間は俺だけだった。俺が止めなければ、誰も止められなかった。──それが、ずっと」


 荒木はそこで口を閉じた。それ以上は言わなかった。言う必要がなかった。


 夜の空気が冷たかった。凪は搬入口の縁に座ったまま、コンクリートの冷たさが太腿の裏に染みるのを感じていた。二人の間に沈黙が降りた。それは居心地の悪い沈黙ではなかった。言うべきことを言い終えた後の、ただ静かな時間だった。


 祖父の伝説。業界の英雄。救援物資を届けた男。その話は何度も聞いた。母から、業界の先輩から、追悼記事から。しかし今夜、荒木から聞いた言葉は、それらのどれとも違った。英雄の裏側に、止められなかった人間がいた。讃えられた走りの陰に、正しくなかった判断があった。


 祖父の伝説を、ただの美談として消費してはいけない。凪は改めてそう思った。そしてこれから自分たちがやろうとしていること──旧道を六百キロ、手動で走破すること──が、三十五年前の夜と重なることの意味を考えた。


「荒木さん」


 声が出た。自分でも驚くほど静かな声だった。


「今度は──今度は、同じ轍を踏まないでください」


 荒木の身体が微かに動いた。凪を見た。老人の目が、暗がりの中で光った。驚きだった。七十二年間の記憶の厚みを持つ目が、三十一歳の女の言葉に、たしかに驚いていた。


 凪は荒木の目を見返した。祖父が踏んだ轍。四十八時間の不眠。崩れた峠の強行突破。英雄的な無謀。その轍の先にあったもの──高速道路の多重事故。三人の死。六歳の凪が見た、祖父のいない朝。


 同じ道を走る。だが同じ轍は踏まない。


 荒木は数秒のあいだ凪を見つめていた。その目に三十五年前の記憶が通り過ぎるのが見えた気がした。福井の夜。止められなかった背中。追いかけなかったことの重さ。


 それから荒木は視線を逸らし、地図の上に目を落とし、荘川の文字を指先でなぞった。


「──ああ」


 低い声だった。


「踏まん」


 それだけだった。それだけで十分だった。


---


 午前三時。凪は仮眠から目を覚ました。


 国交省の一階ロビーの隅に敷いた毛布の上で、二時間だけ眠った。身体は硬かったが、頭はすっきりしていた。眠れたのは、眠る必要があると自分に命じたからだ。これから三日以上の旅が始まる。最初の夜に眠れない人間は、道中でもっと眠れなくなる。


 毛布を畳みながら、凪は自分のこれまでを振り返った。NERVAの管制フロアで画面を見つめ、数字を読み、AIが出す答えを信じてきた。異常に気づいても、最後はシステムの判断を受け入れた。自分の目で見たものより、アルゴリズムの出力を信じるよう訓練されてきた。──それが、たった七日前に全部消えた。今、自分の手元に残っているのは、記憶と、紙の地図と、これから隣に座る老人の筋肉だけだ。AIに任せきりだった二十代の自分を、今さら責めても意味はない。だが、これからの道で何を頼りにするかは、自分で決められる。


 搬入口に出ると、荒木はすでに銀嶺号のエンジンを暖機していた。ディーゼルの低い振動が夜明け前の空気を揺らしている。排気口から白い煙が上がり、建物の壁に沿って漂っている。四月の東京の夜明け前は、まだ冬の名残がある。


 佐伯が駆け寄ってきた。手に衛星電話と、茶色い封筒を持っている。


「通行許可の件ですが──甲府は連絡がつきました。市の防災担当に事情を説明して、通行の便宜を図ると。ただし松本以西は、まだ返事がありません」


「ありがとうございます」


「あと、新座には明日にでも物資が一部回るかと」


「助かります」


「そうだ。これは荘川の倉庫の鍵と暗証番号です。コンテナの固定方法もメモしてあります。──それから、これを」


 佐伯がベストのポケットから小さな紙片を取り出した。手書きの数字が並んでいる。


「倉庫の座標です。紙の地図上での位置を荒木さんに伝えてください。GPSは使えませんから」


「わかりました」


 佐伯は封筒を渡し終えると、一歩退いて凪を見た。眼鏡の奥の目が、暗がりの中でも光って見えた。


「早瀬さん。お祖父さんは西へ走った。あなたは西へ行って、東へ帰ってくる。どうか──無事に」


 凪は頷いた。佐伯の声には「こんなこともあろうかと」の余裕はなかった。ただの、人間の祈りだった。


---


 凪は助手席に乗り込んだ。


 荷台には最低限の物資──水、保存食、毛布、工具箱、ジャッキ、牽引ロープ、懐中電灯、佐伯から受け取った紙の地図と封筒。それだけだ。帰りにはこの荷台に、NERVAのバックアップテープが入った耐環境コンテナが載る。


 荒木がサイドミラーを確認し、ギアを入れた。クラッチが噛み合い、銀嶺号がゆっくりと動き出す。搬入路のコンクリートを鉄の車輪が踏む、低い振動。


「荒木さん」


「ん」


「国道二〇号に出たら、最初の難所は大月の笹子トンネルです。停電で通行できない可能性が高い。その場合、旧道の笹子峠に迂回します。勾配七パーセント、幅員四・五メートル。大型車は通れますが、路面にひび割れがあります。NERVA稼働時の調査データでは、東側入口から一・三キロ地点に幅二十センチの亀裂」


 荒木がちらりと凪を見た。


「……あんた、何でそんなことまで覚えてる」


「一度見たものは忘れないので」


「バグか」


「同僚にもそう言われます」


 荒木は前を向き直した。口元がわずかに動いた。笑ったのかもしれない。


 凪は自分の記憶力について考えた。一度見たデータを忘れない。それは管制フロアではただの便利な特性だった。だが今、この暗い道の上では、意味が変わる。荒木の手と足は道を覚えている。自分の頭はデータを覚えている。荒木が見えないものを、自分の記憶が補える。路面の亀裂の位置、ガードレールの欠損箇所、勾配の数値。──自分が荒木の「目」になれるかもしれない。NERVAのセンサーの代わりではなく、人間の記憶として。


 銀嶺号が搬入路を出て、一般道に合流した。信号は消えている。街灯も消えている。ヘッドライトが照らす範囲だけが世界のすべてだった。夜明け前の霞が関は、どこまでも暗い。


 荒木がヘッドライトをハイビームに切り替えた。光の帯が、内堀通りのアスファルトを白く照らした。停止した自動運転車両が数台、路肩に寄せられている。自衛隊が排除したのだろう。車道の中央は辛うじて通行できるだけの幅が開けてあった。


 凪は助手席の窓から空を見上げた。都心でこれほど星が見えたことは、三十一年の人生で一度もなかった。電力が失われた東京の夜空には、天の川の淡い帯が見えた。あの光は数千年前に発せられたものだ。NERVAが生まれるはるか以前に、この国の道を人間が歩いていた頃の光。


 銀嶺号は西へ向かった。内堀通りから国道二〇号──甲州街道に入る。新宿の高層ビル群が、非常灯のわずかな灯りだけで夜空に影を落としている。かつてNERVAの管制下で無数の車両が流れていたこの道を、今は一台のディーゼルトラックだけが走っている。


 エンジンの回転が安定し、銀嶺号は速度を上げた。調布、府中、八王子。街は暗く、人の気配はほとんどない。ときおり路肩に停止した自動運転車両が現れ、ヘッドライトの光を反射して消えていく。信号のない交差点を、荒木は減速と目視だけで通過していく。その判断の速さに、凪はNERVAの管制アルゴリズムとは異質の──しかし確かに合理的な──何かを感じた。


 凪は膝の上に紙の地図を広げた。佐伯から受け取った五万分の一。蛍光灯はないが、ダッシュボードの常夜灯がかすかに地図を照らしている。荒木が鉛筆で引いた線──国道二〇号、一九号、一五八号──を指で辿った。東京から荘川へ。山を越え、谷を渡り、三十五年前に祖父が反対方向に走った道を逆に辿る。


 祖父は西へ走った。物資を届けるために。


 自分たちは西へ行って、東へ帰る。システムを届けるために。


 同じ道。だが同じ轍は踏まない。


 凪はフロントガラスの向こうに目を移した。ヘッドライトの先に、甲州街道がまっすぐ延びている。この先に山がある。峠がある。荒木が知っている道があり、凪が覚えているデータがある。どちらか一つでは足りない。二つが揃って、初めてこの道を走れる。


 荒木がギアを上げた。エンジンの音が低く変わった。


「大月まで約七十キロ。日の出前には着きたい」


「了解です」


---


 東の空は、まだ暗かった。銀嶺号のテールランプが霞が関の暗闇に赤い光を残して遠ざかっていったことを、何度も反芻していた。


 佐伯は搬入口に立ったままだった。その赤い光が見えなくなるまで見送った後も、ずっと。手の中の衛星電話の予備機は、待機電力が生む熱でほのかに温かかった。


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