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凪の轍  作者: 黒犬


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第六章「霞が関の残火」


 霞が関の入口で、銀嶺号は停まった。


 桜田通りに自衛隊の検問が敷かれていた。迷彩服の隊員三人がコンクリートブロックの脇に立ち、うち一人が銀嶺号に近づいてきた。二十代の若い男で、自動小銃を胸の前に構えている。荒木がサイドウィンドウを開けた。


「民間車両は通行禁止です」


「自衛隊の物資輸送任務で来ている。荒木だ」


 荒木が通行許可証を差し出した。黄色い紙に手書きの日付と認証印。デジタル認証が使えない今、すべてが紙とハンコに戻っている。隊員は許可証を確認し、銀嶺号のナンバーと車体を一瞥して頷いた。


「物資の積み降ろしは外務省側の搬入口で。──そちらの方は」


「日環ロジスティクスの早瀬です。省庁横断緊急会合に出席するよう要請を受けています」


 凪は社員証を見せた。隊員がそれを確認する間、凪は検問の向こうに広がる景色に目を凝らした。


 霞が関の官庁街は、灯りが違った。


 省庁の巨大なビルは窓の大半が暗く、一フロアにつき数箇所だけ黄色い光が漏れている。原発由来の限定給電。NERVAとは別の系統で、別の論理で、電気だけはまだ生きている。あの光の一つ一つが、途絶えかけた国家機能のかけらだった。NERVAに一切依存しないインフラが、NERVAが消えた世界をかろうじて支えている。その事実が、凪の胸に複雑な感情を落とした。──備えとは、こういうことだったのかもしれない。かつてこの街を照らしていた無数のオフィスの窓、NERVAが管制する車両のヘッドライト、案内板のLED──そのすべてが消えている。残っているのは、申し訳程度の黄色い光と、建物の輪郭を描く空だけだった。


 検問を抜け、銀嶺号がゆっくりと官庁街に入っていく。ディーゼル音がビルの谷間に反響した。自衛隊車両を除けば、霞が関でエンジン音が響くのは今日が初めてかもしれなかった。道路には放置された自動運転車両が点在し、荒木はそれを避けながら低速で進んだ。車両の窓ガラスに日光が反射して、まるで行き場を失った光の群れだった。


---


 国土交通省の建物は、他の省庁と同様に最低限の電力で動いていた。


 エレベーターは停止している。荒木と別れた凪は非常階段を上った。踊り場には電池式のランタンが置かれ、コンクリートの壁にオレンジ色の光を投げている。三階の廊下を歩くと、左右のオフィスからかすかな声と紙をめくる音が漏れてきた。端末もネットワークもない世界で、官僚たちは紙と鉛筆と口頭伝達で仕事をしている。廊下の壁にはA4の紙が何枚もテープで貼られていた。「本日の給水:14時〜15時 地下1F」「伝令便スケジュール:各省間は10時・14時・18時発」。


 大会議室の前に人だかりができていた。スーツ姿の官僚、迷彩服の自衛隊員、ネクタイを緩めた企業幹部。全員が疲れていた。スーツの皺、剃り残しの髭、目の下の隈。七日間の危機が、人の外見を均等に削っている。


「日環ロジスティクスの早瀬さんですね。お待ちしていました」


 入口で声をかけてきたのは国交省の若い職員で、手書きの名札には「連絡係・田所」とあった。


「現場責任者の方を、とお願いしていたんです。ちょうど午後の部が始まるところですので、こちらへ」


 会議室に入った。長いテーブルが二列に並び、三十人ほどが席についている。蛍光灯は四本だけで隅のほうは薄暗い。テーブルの上にはコピー用紙の裏に刷られた資料とペットボトルの水。窓のブラインドは半開きで、午後の日光が斜めに差し込んでいた。電気の足りない分を、陽光で補っている。


 凪は壁際の補助椅子に案内された。パイプ椅子の冷たさが腰に伝わった。三十キロ歩いて来る覚悟をしていた場所に、銀嶺号のおかげで座っている。会議の構成を見回した。上座に国交省の審議官。隣に総務省、経産省、防衛省の幹部。向かいに自衛隊の制服組が二人。企業側は日環グループの鳥居常務のほか、通信事業者と電力会社の代表。鳥居常務は凪に気づいて小さく頷いたが、消耗した顔色は隠せていなかった。


 壁際の席にもう一人の顔を見つけた。佐伯信吾。国交省自動運転戦略室の室長補佐。数年前、オンプレミス撤去に関する省庁横断連絡会議で「冗長性なき効率は砂上の楼閣」と静かに異を唱え、退けられた男。凪と廊下で言葉を交わしたあの日以来、顔を合わせてはいなかった。地味なグレーのスーツと眼鏡は記憶のままだが、髪の白いものが増えている。佐伯は書類の束を膝に載せ、テーブルの末席で背筋を伸ばしていた。あの日の声が耳の奥で再生された。「冗長性なき効率は、砂上の楼閣です」。静かで、しかし震えを押し殺したような声。あの声は会議室の空調音にかき消され、議事録にすら残らなかった。──今、その声の主が、崩壊した世界の片隅で同じ姿勢で座っている。


---


 会議は自衛隊の報告から始まった。


 統合幕僚監部の幕僚が、壁に貼られた大判の日本地図を指しながら立ち上がった。赤と青のマーカーで線が引かれ、数字が書き込まれている。NERVAの管制画面の代わりに、紙とペンで状況を可視化していた。


「自衛隊は独自の自律走行システムにより車両の運行を維持していますが、投入可能な車両総数は約八百両。うち六百両が西日本の人道支援に投入済みです。百二十両が宗国の動向への南西方面警戒に充当。首都圏で機動的に運用可能な車両は六十両です」


 会議室がざわめいた。六十両。自動運転トラック二十万台が止まった国で、首都圏を動かせる車両が六十。


「西日本の状況は深刻です。三十五年前の西日本大震災の復興過程で自動化を全面導入した地域は、手動運転の手段がほぼ存在しません。確認できている死者は──」


 幕僚が一瞬言葉を切った。


「四百名を超えています。医療機関への搬送が間に合わないケースが大半です」


 重い沈黙が落ちた。凪は壁際で拳を握った。四百名。七日間で四百名が、物が届かないという理由で死んだ。薬はある。食料はある。燃料も国家備蓄が二百日分ある。それなのに届ける手段がない。二百日分の原油を抱えたまま火力発電所は止まり、倉庫に医薬品を積んだまま人が死んでいく。NERVAという血管が止まっただけで、この国の臓器は一つずつ壊死している。新座拠点で七十代の男性が咳き込んでいた顔が浮かんだ。あの人は今日も生きているだろうか。


 次にNERVA復旧の見通し。経産省の情報政策課長が口を開いた。


「率直に申し上げます。NERVAの中枢は宗国リージョンのデータセンターとともに物理的に消失しました。コアシステム、運用データ、バックアップ、すべてです。設計から全国展開まで含めた通常の再構築で、十五年から二十年が最短の見積もりです」


「十五年?」


 誰かが呻くように言った。


「NERVAの制御アルゴリズムは三百人以上のエンジニアが七年かけて開発したものです。設計文書の多くもクラウド上にありました。文字どおり、ゼロからのやり直しに──」


「なぜ国内にバックアップがなかったんだ」


 通信事業者の代表が声を荒げた。五十代の男で、顔は赤く、怒りを隠そうとしていなかった。


「国家インフラを丸ごと外国のクラウドに預けて、国内に控えを一つも置かなかった。コスト削減のために安全弁を全部外した結果がこれか。年間二十億の削減で、国が止まった」


「オンプレミスの段階的廃止は、事業仕分けの一環として──」


「鶴見が支持率のためにマルチリージョン移行計画を潰したんだ。この国の背骨を折ったんだろう」


 会議室の空気が煮えたぎった。自衛隊の幕僚たちだけが表情を変えずに座っている。この三日間、同じ怒号を何度も聞いてきたのだろう。


「責任の追及は今ここですべきことではありません」


 審議官がかろうじて場を引き戻した。


「復旧への道筋に集中しましょう」


 しかし道筋は見えなかった。通信、電力、物流──それぞれの部門から報告が上がったが、いずれも「NERVAなしでは抜本的な解決ができない」という結論に帰結した。携帯基地局の再稼働には燃料輸送が必要で、燃料輸送にはNERVAの管制が必要で、NERVAの復旧にはサーバーインフラが必要で、サーバーには電力が必要で、電力の安定維持には燃料輸送が必要で──。循環する不可能の連鎖が、会議室の空気を押し潰していた。


 凪が発言を求められたのは一度だけだった。


「日環の早瀬さん。手動運転で物流を代替する可能性はありますか」


 凪は立ち上がった。


「現実的ではありません。日環グループの保有車両二十万台はすべてNERVA管制専用に設計されています。手動運転免許の残存保有者は全国で約三千二百人、その大半が東日本在住です。平均年齢七十一歳。さらに、手動運転可能な大型トラック車両は東日本でおよそ千台、関東近郊に至っては数台しか登録がありません」


 三千二百人。かつて八十万人いたトラックドライバーの、最後の残滓。会議室に静けさが広がった。審議官はそれ以上訊かず、凪は椅子に戻った。その三千二百人の一人が、今この建物の駐車場で銀嶺号の荷を降ろしている。


 椅子に座りながら、凪は自分の手を見下ろした。通信事業者の男が怒鳴った言葉が頭の中で反響している。「コスト削減のために安全弁を全部外した」。──自分も、その数字を見て納得した側の人間だ。印西の空ラックを見たとき、「これは合理的な移行だ」と自分に言い聞かせた。鶴見の「隕石が落ちる確率」に、心のどこかで頷いた。佐伯の声を聞いても、動かなかった。あの男だけが声を上げ、自分は黙って座っていた。──共犯、とまでは言わない。だが、無関係ではない。


---


 会議は二時間半で休憩に入った。結論は出なかった。明日も同じ顔ぶれが集まり、同じ壁にぶつかるのだろう。窓の外では日が傾きかけていた。


 凪は大会議室を出て廊下を歩いた。蛍光灯は消え、窓から差す夕日だけが足元を照らしている。すれ違う官僚たちは皆、紙束を抱えて疲弊した顔をしていた。誰も走っていない。走る体力が残っていないのだ。この建物にいる人間の全員が、七日前からろくに眠れていないのだろう。凪も同じだった。


「早瀬さん」


 背後から、静かな声がかかった。


 振り返ると、佐伯信吾が三メートルほど後ろに立っていた。手にはクリップボードとペットボトルの水。廊下の夕日が眼鏡のレンズを橙色に染めている。


「佐伯さん──」


 数年前の廊下が重なった。凪が「同じことを考えていました」と声をかけ、佐伯が「いちばん怖いのは、備えをなくしてしまうことです」と答えた、あの場所。建物は同じだ。廊下の幅も天井の高さも変わらない。ただ、あのときは蛍光灯が点いていた。


「お久しぶりです。覚えていらっしゃいますか」


「もちろん。あの会議で、声をかけてくださった」


 佐伯は疲れた微笑を浮かべた。頬がこけ、眼鏡の奥の目は赤い。しかし眼差しの穏やかさは記憶のままだった。


「少し、お話ししたいことがあるんです。人の少ない場所で」


 佐伯の穏やかな表情の下に、硬い覚悟のようなものが透けていた。


 非常階段の踊り場に導かれた。コンクリートの壁と鉄の手すり。ランタンの灯りが弱く、二人の影が壁に長く伸びた。階下から自衛隊員の靴音が微かに響いてきたが、すぐに遠ざかった。


 佐伯が凪に向き直った。


「早瀬さん。──あなたのお祖父さんの名前は、源蔵さんではありませんか」


 凪の心臓が跳ねた。新座の搬入口で荒木が「源蔵さんの、孫か」と呟いたとき以来の衝撃。死んだ人間の名前が、生きている世界で呼ばれる。


「なぜ、祖父の名前を」


「私は荘川の出身なんです。早瀬源蔵さん──西日本大震災の夜に荘川から旧国道を辿って西へ走った方。地元では今でも語り継がれています。あの夜、荘川の倉庫の物資を最初にトラックに載せたのが源蔵さんだったと」


 祖父の伝説が、こんなところにも根を張っていた。業界の語り草としての「早瀨源蔵」は知っていたが、荘川の地元で今も語り継がれていたことは知らなかった。


「会議で早瀬という名字を聞いて、もしやと思いました。そして先ほどの報告を聞いて確信しました。手動運転免許の残存保有者数、三千二百人。平均年齢七十一歳。あれは配布資料に載っていない数字です。NERVAの運用データの付帯資料──人口動態との突合レポートの注釈まで読まなければ出てきません。源蔵さんのお孫さんは、一度見たものを忘れない。そういう話も、荘川の年寄りから聞いていました」


 私の記憶力のことまで、佐伯は知っている。血が繋ぐ、見えない轍。


「佐伯さん、お話ししたいこととは」


「ええ」


 佐伯は凪の目をまっすぐに見た。


「先ほどの会議で、復旧には十五年から二十年と報告がありました。ゼロから再構築するなら、そのとおりです。──しかし、ゼロからではないとしたら」


 凪の呼吸が止まった。


「こんなこともあろうかと」


 佐伯はその言葉を、照れもてらいもなく、ただ事実として口にした。


「数年前、オンプレミス拠点の撤去が決まったとき、廃棄予定だったバックアップテープを私が退避させました」


 記憶が走った。印西ナショナルDCハブのサーバールーム。空になったラック。撤去確認書にサインする自分の手。そしてその部屋の隅に立っていた佐伯。腕を組み、空のラックを見つめていた横顔。


「あのとき──印西の撤去作業で」


「ええ。あの部屋にいました。あなたが確認書にサインするのを見ていた。バックアップテープの処分は翌月の第三フェーズでした。私がその手続きの担当者でした。台帳上は『廃棄済』として処理し、実際には──荘川町の旧い公共倉庫に、NERVAのフルバックアップテープを収めた耐環境コンテナを二基、運び入れました。輸送費も保管費も私費です」


 凪は声が出なかった。あった。国内にバックアップがあった。七日間、胸の奥で消えなかった直感──国内に何かが残っているはずだ──が、一人の官僚の覚悟によって現実の形を取っていた。


「テープの内容は、NERVAのコア制御プログラムと全国の自動運転ネットワーク設定データの完全なスナップショットです。約三年前のデータですが、コアの構造は変わっていないはずです。そして──崩壊の前日に、viaが東京・名古屋リージョンでAIインフラサービスの提供開始を発表しました」


 忘れるわけがなかった。管制フロアに安堵が満ちたあの午後。一晩だけの希望。


「あの設備は日本国内にあります。宗国のデータセンターが破壊されても無事です。印西ナショナルDCハブは限定給電の対象施設ですから電力も確保できる。荘川のテープを印西に届ければ──NERVAの仮復旧が可能になります。十五年ではなく、数日から数週間の単位で」


 凪の頭の中で回路が繋がった。テープ。荘川。印西。数字が並び、地名が結ばれ、一本の道筋が浮かび上がる。


「なぜ今日まで言わなかったんですか」


「台帳上は廃棄済みです。公に言えば国家資産の無断持ち出し。──しかしそれ以上に、テープがあると言っても届ける手段がなければ意味がない。自衛隊は先ほどの報告のとおり手一杯です。荘川まで往復できる車両は一両もありません」


 佐伯は一呼吸おいた。


「自衛隊はすでに手一杯です。旧い道を、民間の力で走れる者はいますか」


 静かな問いだった。しかし言葉の裏には、三日間の会議を傍聴し続けた官僚の切実な祈りがあった。テープはある。道もある。足りないのは、走る者だけだ。


 凪は佐伯の目を見た。


 そして──見えた。


 非常階段の踊り場の小さな窓から、駐車場の一角が覗いていた。夕日に照らされた国交省の敷地。自衛隊車両が並ぶその隅に、銀色の塗装がところどころ剥げた中型トラックが一台。


 銀嶺号。


 荒木が荷台の幌を整えていた。物資を降ろし終えたのだろう。老人の動作に無駄はなく、荷台の上で身体を屈める姿はトラックの一部のように自然だった。


 凪の記憶が、同時に複数の層を展開した。荒木の声。「あの大震災の夜も、一緒に走った」。祖父と荒木が荘川から西へ向かった夜。旧国道。峠道。三十五年前の道が、荒木の筋肉に刻まれている。


 佐伯が凪の視線を追った。窓の外の銀嶺号を見て、それから凪に目を戻した。


「あのトラックは──」


「銀嶺号です。手動運転の旧型ディーゼルトラック。運転しているのは荒木健三さん、七十二歳。元長距離ドライバーで、手動運転免許を持っています。崩壊の翌日から自衛隊の依頼で物資輸送をしてきた人です。──そして、祖父と一緒にあの夜、荘川から西へ走った人です」


 佐伯は数秒のあいだ黙った。それから凪に向かって深く頭を下げた。


「お願いするのは筋違いかもしれません。私が勝手に持ち出したテープです。本来なら私が走るべきですが、車の運転ができない。免許を持ったこともない。この国のほとんどの人間と同じです」


「佐伯さん」


「テープの場所と鍵の情報は、すべてお渡しします。テープを印西に届けていただければ──NERVAは日本の地面の上に帰ってきます」


 凪は答えなかった。


 頭では理解していた。テープがある。道を知っている。走れる車がある。走れる人間がいる。すべての条件が一点に収束している。だがそれは同時に、停止車両で塞がれた旧道を、峠を、山岳路を、千キロ以上にわたって走り抜くことを意味していた。燃料の保証もなく、通信手段も限られ、何が起きるかわからない道を。


 祖父は、その道を走った。荘川から西へ、福井へ、兵庫へ。四十八時間不眠で旧国道を走り抜き、英雄になった。そして──その無茶の代償を数年後に支払い、居眠り運転で高速道路の多重事故を起こして死んだ。


 佐伯は凪の沈黙を急かさなかった。


「……少し、考えさせてください」


「もちろんです。ただ──時間はあまりありません。テープのデータにも鮮度があります。国内リージョンの設備も、限定給電が維持されている今のうちでなければ」


「わかっています」


---


 一階のロビーに出ると、夕暮れだった。


 霞が関のビル群がシルエットになっている。各フロアの数箇所だけが、ランタンのような黄色い光を灯していた。残火、と凪は思った。消えかけている。だが、まだ消えていない。


 駐車場に出た。自衛隊の車両の隣に銀嶺号が停まっている。夕日が車体の銀色を暗い橙色に染め、塗装の剥げた地金が鈍く光っていた。荷台の鉄板には細かい傷が無数についている。この車は何十年も走ってきた。道路が自動運転車両のものになり、ディーゼルエンジンが過去の遺物になり、軽油が誰にも顧みられなくなった時代を、それでも走り続けてきた。


 荒木は運転席のドアにもたれて水筒の水を飲んでいた。凪が近づくと水筒の蓋を閉めた。


「会議は終わったか」


「はい」


 凪は銀嶺号を見つめた。排気管から薄い白煙が立ちのぼっている。アイドリングの振動が地面を通して靴底に伝わってきた。あの会議室では誰も答えを出せなかった。十五年。二十年。その間にどれだけの人が死ぬのか。──だが、この車は走る。NERVAが死んでも、クラウドが消えても。軽油とエンジンと人間の手がある限り、走る。


 佐伯の声が耳に残っている。「旧い道を、民間の力で走れる者はいますか」。祖父の声も。「道っていうのはな、覚えるもんじゃない。走るもんだ」。そして葬儀の日の荒木の声。「バックアップってのは筋肉のことだ」。


 三つの声が、凪の中で重なった。


「荒木さん。──今夜、少しお時間をいただけますか。お話ししたいことがあります」


 荒木は短く頷いた。


「飯のあとにでも」


「はい」


 荒木が運転席に乗り込む。ドアが閉まる重い金属音。銀嶺号はアイドリングを続けている。低い、断続的な鼓動。止まった世界の中で、この鉄の箱だけが心臓を持っている。


 凪はもう一度、銀嶺号を見た。


 夕日が落ちていく。霞が関のビルの隙間から最後の光がフロントガラスに差し込み、一瞬だけ、車体全体が白銀に輝いた。凪の記憶の中で、祖父のトラックも同じ色をしていた。


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