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凪の轍  作者: 黒犬


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第二章「完璧な血管」


 あれは──まだ、すべてが動いていたころ。


 午前八時十五分。早瀬凪は、新座拠点三階の陸上輸送管制センターで端末を開いた。壁面の大型ディスプレイには関東圏の高速道路網が血管のように描かれ、その上を無数の光点が流れている。一つ一つが自動運転トラック。光点の群れは東京を中心に放射状に広がり、東名、中央、関越、東北、常磐──あらゆる幹線を同時に脈打ちながら、秒単位の精度で隊列走行を続けている。


「おはようございます、早瀬主任」


 宮田が席についた。まだ二十五歳。配車管理の担当として着任して半年、仕事に慣れ始めた頃だった。手元のタブレットにはNERVAが自動生成した当日の配車スケジュールが表示されている。宮田はそれを一度スクロールして、すぐ閉じた。


「今日も平和ですね」


「うん」


「昨日の当番、河野さんに聞いたんですけど、夜間の障害件数もゼロだったみたいですね。これで何日連続ですか」


「三十二日」


「三十二日連続ゼロ。すごいな」


 平和、と宮田は言った。三十二日間、障害ゼロ。統計が保証する平穏。──けれど凪の記憶のどこかで、「統計の外側」に追いやられた一夜がちらついた。西日本大震災の晩、四十八時間不眠で旧道を走り抜いた祖父。その英雄譚の、数年後の結末。高速道路の多重事故。統計にとっては「人間の運転ミスによる死亡事故・一件」。それだけの数字に回収されて終わった命のことを、平和という言葉を聞くたびにほんの一瞬だけ思い出す。一瞬だけ思い出して、すぐに管制画面の光点に目を戻す。いつもそうだった。


 凪は自分の端末に目を落とした。管制インターフェースの画面右上に「障害ゼロ」のステータス表示。昨日もゼロ、一昨日もゼロ。直近三十日間の障害発生件数は全国で二件。いずれもNERVAが〇・三秒以内に自己修正し、車両の運行に影響は出ていない。年間障害発生率〇・〇〇三パーセント。凪が着任した五年前は〇・〇一パーセントだった。NERVAは年々賢くなり、障害は減り続けている。


 管制センターには十二人の要員が配置されている。もっとも、全員がモニターに張りつく必要はなかった。NERVAが正常に稼働している限り、人間の仕事は「NERVAが正常に稼働していることを確認すること」に尽きる。かつてこの部屋には三十人以上が詰めていたと聞く。自動運転の信頼性が上がるにつれて人員は削減され、今では半分以上の席が空いている。壁際の一列は完全にモニターが撤去され、観葉植物の鉢が並んでいた。


「早瀬主任、東名の海老名付近で隊列の車間距離が〇・二メートル広がってます」


 河野が声をかけてきた。経理部門からの異動で管制業務は二年目。細かい数字の変動をよく拾う。


「路面温度の補正だね。朝の冷え込みでアスファルトの摩擦係数が変わるから、NERVAが車間を自動調整してる。十時には戻るよ」


「あ、そういうことですか。すみません」


「いや、気づくのは大事。報告を上げてくれるほうがいい」


「早瀬主任は優しいですね」


 宮田が横から口を挟んだ。


「僕なんか最初の頃、〇・一度の気温変化で車間が動くたびに報告して、先輩に笑われましたよ」


「私も最初はそうだった。でもそのうち、報告することがなくなる」


「なくなる?」


「NERVAが全部やってくれるから。私たちは、NERVAがちゃんとやってることを確認するだけ」


 凪はそう言いながら、内心では苦笑した。〇・二メートル。二十センチの車間変動を「異常」として報告する。それが今の管制業務の粒度だった。


---


 昼前、凪は管制センターを離れて拠点内を巡回した。三階の管制フロアから一階の物流ハブまで、新座拠点は四つのフロアで構成されている。一階は自動運転トラックの発着場と荷捌きスペース。巨大な搬入口から無人のトラックが次々と入り、ロボットアームが荷を下ろし、別のトラックに積み替える。人間の姿はほとんどない。安全監視員が二名、搬入口の脇に立っているだけだった。


 全国の高速道路を無人トラック隊列が走り、港湾では自律航行コンテナ船がAI管制のもとで荷役し、ラストワンマイルはドローンが担う。日環ロジスティクス・グループが陸海空の物流を一手に引き受け、NERVAがその全体を最適化する。東京湾に入ったコンテナ船の荷が、三時間後には長野のスーパーの棚に並ぶ。注文から配達まで、人間の手が触れる工程はゼロに近い。凪が管制画面で見ているのは、その巨大な循環のごく一部──陸上輸送の関東ブロック、数百台分の光点──に過ぎなかった。それでも、一日に動く荷の量は旧時代の物流会社数十社分に相当する。


 先週のことを思い出した。印西ナショナルDCハブへの視察。


 NERVAは一般車両を含む全国の交通を管制する国家インフラだ。そのオンプレミス拠点は、一事業者の社内に置かれるようなものではなかった。千葉県印西市の国家統合データセンター──印西ナショナルDCハブ。そこに、NERVAの国内ホットスタンバイが置かれていた。宗国リージョンにあるNERVAの本体に万一のことがあれば、印西のサーバーが即座に引き継ぐ──はずだった。


 国交省の担当官に案内されたサーバールームは、以前訪れたときとは別の場所のようだった。ラックは半分以上撤去されていた。残っているラックも電源が落とされ、代わりにデスクと椅子が三脚、ホワイトボードが二枚。若いエンジニアが二人、ノートPCに向かって作業している。足元にはケーブルの束が這い、壁面には撤去されたラックの跡が長方形の影として残っている。空調だけが過剰に効いていた。サーバーを冷やすために設計された空調が、人間二人のために全力で稼働している。


「事業仕分けでオンプレの廃止が決まってから、急ピッチで撤去が進んでます。先月も奥のラック二本を抜いたばかりで」


 担当官が淡々と説明した。空いたスペースは、そのうちエンジニアの作業スペースとして転用する予定だという。


「空調、もったいないですね」


 凪が訊いた。


「サーバー冷却用のがそのまま稼働してますからね。夏場でも上着が要ると、エンジニアには好評ですよ」


 担当官は苦笑した。凪は部屋の隅に目をやった。壁際に、一台だけ残されたサーバーラックがある。電源インジケーターは消灯。扉が半開きで、中は空だった。ラックの側面に小さなラベルが貼ってある。「NERVA-HS-03」。ホットスタンバイの三号機。この番号が何を意味していたか、凪は知っている。このラックが生きていたとき、ここには海外リージョンのミラーデータがリアルタイムで同期されていた。


 今は空の箱だ。


 何かが引っかかった。胸の奥の、言葉にならない場所で。──AIの判断を信じろ。クラウドの冗長性を信じろ。母も、学校も、会社も、そう教えてきた。それを疑う根拠はどこにもない。数字がそう言っている。けれど目の前にあるのは、信仰の対象だったはずの「備え」が抜け殻になった姿だった。空のラック。半開きの扉。NERVA-HS-03。凪はその矛盾を一瞬だけ視界の端で捉え、名前をつける前に飲み込んだ。──大丈夫。クラウドには物理的な箱よりずっと堅牢な冗長性がある。そう教わったのだから。


 凪はその感覚を胸の奥に押し込んだまま、印西を後にした。


---


 午後の管制業務は穏やかだった。NERVAは完璧に動いている。全国二十万台の自動運転車両が一台の例外もなく正常に運行し、港湾の荷役も予定どおり、ドローン配送網にも異常はない。凪のやるべきことは、異常がないことを確認し、異常がないという報告書を書くことだった。


「もう事故が起きる余地がないですよね」


 宮田が誰に言うともなく呟いた。


「統計的にはね」


「統計的には、って。早瀬主任、それ以外に何があるんですか」


「いや、別に。そのとおりだと思う」


「でしょう? 僕が入社してから半年、一度も有人介入してないですよ。管制マニュアルの『緊急時手動切替』の章、たぶん一生使わないですよね」


「使わないに越したことはない」


「ですよね。……正直、僕たちの仕事って、あと何年で完全に自動化されるんですかね」


「そのときはそのときで考えればいいよ」


 凪はそう言ったが、言葉に管制マニュアルの『緊急時手動切替』のページがちらついた。一度読んだだけで全文を覚えている。使う日は来ない。たぶん。統計的には、確かに事故は起きない。NERVAの判断速度は人間の千倍以上、認識精度は人間の百倍以上。人間が手動で運転していた時代の事故率と比べれば、現在の道路は限りなく安全だった。人間の手動運転は法律で原則禁止され、教習所はすべて廃校になった。運転免許という制度そのものが過去の遺物になった。


 安全だ。便利だ。効率的だ。


 それでも凪は、管制画面を見つめるたびに、何か薄い膜のようなものを感じることがある。完璧に動いている歯車を眺めているときに、ふと、この歯車が止まったらどうなるのだろう、と考えてしまう。すぐに打ち消す。止まらない。NERVAは止まらない。止まる理由がない。


「河野さん、午後の定時レポート出しておいて」


「了解です」


 管制センターに沈黙が戻った。モニターの光点は整然と流れ続けている。この国の血管は、一滴の滞りもなく脈打っている。


---


 定時の業務が終わると、凪はいつもの習慣に戻った。


 端末の業務画面を閉じ、別のデータベースを開く。NERVAの全国道路データ。本格稼働に合わせて実施された国家規模の道路調査──自動運転対応改修のために、全国の道路が一本残らず再測量された。幹線道路はもちろん、県道、市道、旧道、廃道、林道。地元の土建業者が山に分け入り、誰も通らなくなった峠道の路面状態まで記録した。路幅、勾配、カーブの曲率、路肩の地盤強度、設計荷重、舗装の種類と劣化度。膨大なデータが、NERVAのデータベースに格納されている。


 凪はそれを読む。業務とは関係なく、ただ読む。


 今日は中部地方の旧国道。国道一五八号の安房峠旧道。かつて飛騨と信州を結んだ山岳路で、安房トンネルの開通後は通行量が激減し、冬季閉鎖のまま放置されている区間がある。調査データには、九十度カーブが連続する区間の路面写真と測量値が添付されていた。幅員三・八メートル。大型車通行不可。設計荷重六トン。ガードレールは腐食が進み、一部は欠落。


 数字と画像が目に入った瞬間、凪の記憶に刻まれる。一度見たものは忘れない。路面のひび割れの形も、ガードレールの欠落位置も、すべて。


「早瀬主任、まだいたんですか」


 管制フロアにはもう凪しかいなかった。窓の外は暗くなり始めている。宮田が帰り支度をしながら凪の画面を覗き込んだ。


「何読んでるんです? 安房峠? 旧道のデータ?」


「うん」


「なんでそんなもの読んでるんですか。自動運転車が通らない道でしょう」


 凪は少し考えた。なぜ読んでいるのか。業務に必要だから、ではない。趣味、と言えばそれまでだが、趣味にしては没頭の度合いが異常だと自分でもわかっている。全国の道路データを、五年かけてほぼすべて読んだ。読んで、覚えた。旧道も、廃道も、林道も。自動運転車が通らない道も、人間がもう歩かない道も。路面の材質、排水溝の位置、法面の傾斜角。覚えようとして覚えたのではない。目に入ったものが、勝手に残る。そういう頭だった。


「……なんでだろうね」


「また出た、早瀬主任のバグ」


 宮田が笑った。悪意のない笑い方だった。同僚たちは凪の記憶力を「バグ」と呼ぶ。便利だが、少し不気味。凪自身もそう思うことがある。


「お先に失礼します。明日も平和だといいですね」


「おつかれさま」


 宮田は鞄を担い上げ、数歩歩いてから振り返った。


「早瀬主任って、その道路データ、全部覚えてるんですか」


「全部じゃないけど。……それに近いかも」


「やっぱバグだ」


 宮田が笑いながら管制フロアを出ていった。凪は端末に目を戻した。安房峠旧道のデータの続き。御母衣(みぼろ)ダム方面への分岐路。荘川に抜ける旧旧道。幅員はさらに狭くなり、三・二メートル。普通車一台がかろうじて通れる幅。


 なぜこんな道のデータを読んでいるのか。とりあえず何にでも興味を持ってしまう──凪はずっとそう自分に説明してきた。記憶力のせいだ。目に入ったものが片端から残ってしまうから、残ったものを整理するために、次のデータを読む。終わりがないのは性分であって、目的があるわけではない。そう思っていた。けれど、どうしても業務に直結する幹線のデータより、誰も走らない旧道のほうに手が伸びる。指がスクロールを止めるのは、決まって峠道や、崩れかけた林道や、冬季閉鎖の山岳路のところだった。──本当は、祖父の轍を探しているのではないか。あの夜、祖父が走ったかもしれない道を、データの中に辿り直しているのではないか。半ば気づいていて、認めたくない仮説が、画面の白い光の向こうにうっすら浮かんでいた。


 早瀬源蔵。凪の祖父。三十五年前の西日本大震災の日に、こうした旧道を走って救援物資を運んだ伝説のトラック乗り。東京から荘川を経由して福井、兵庫まで。高速道路が寸断され、幹線道路が瓦礫で埋まった夜に、旧国道と林道を辿って物資を届けた。


 凪はその話を、祖父本人から聞いたわけではない。六歳のときに祖父は死んだ。居眠り運転による高速道路多重事故。英雄の最期としては、あまりに呆気なかった。凪が知る「西日本大震災の夜」の話は、業界の語り草として、あるいは母が時折こぼす断片として、間接的に伝わったものだ。


 それでも凪は、道路データを読むたびに祖父のことを考える。この道を、祖父は走ったのだろうか。このカーブを、祖父のトラックは曲がれたのだろうか。あの巨大なキャブオーバーの車体で、幅三メートルの峠道を。


 考えても意味のないことだった。祖父の時代と今では、道路も車両も、何もかもが違う。人間が運転する必要は、もうない。祖父の死がNERVAを作り、NERVAはすべての交通を最適化し、事故は統計的に消滅し、道路は自動運転車両のためだけに存在している。旧道のデータは改修の要否判定のために収集されたもので、実際に人間が走ることを想定したものではない。


 それでも凪は読む。読んで、覚える。自動運転車が通らない道の路面状態を、ガードレールの欠落箇所を、設計荷重の数値を。まるで、いつか誰かがこの道を走る日が来ることを、知っているかのように。


---


 管制センターの奥に、小さな会議室がある。「テクニカルレビュー室」と呼ばれていて、月に一度、NERVAのシステム構成に関する定例報告が行われる場所だった。


 その日はちょうど定例の日で、凪は主任として出席した。報告者は本社のインフラ管理部門から来た技術者で、画面に映し出されたのはNERVAのシステム構成図だった。


 図の中央に、太い線で囲まれたノードがある。「AP Region ── 宗国」。いわゆるハイパースケーラーと呼ばれる、米国系のクラウドサービス「via」が宗国に設置したアジア太平洋リージョンに、NERVAのコアシステムはホストされている。


「現在のNERVAコアは、引き続き宗国リージョンのAIインフラストラクチャ上で稼働しています。viaの国内リージョンでは同等のサービスが提供されていないため、この構成に変更はありません。競合他社を選定し直した場合でも同様の状況です」


 技術者が淡々と説明する。凪はその説明を聞きながら、構成図の隅に目をやった。図の右下に、灰色で表示された小さなノード。「国内オンプレミス(廃止済)」。かつてホットスタンバイとして機能していた国内拠点。先週、凪が印西で目にした、あの空のラックが並ぶ部屋。


「オンプレミス拠点の最終撤去は先月完了しました。跡地はエンジニアリングラボとして転用済みです」


「質問いいですか」


 凪が手を挙げた。


「宗国リージョンに障害が発生した場合のフェイルオーバー先は」


「現時点では、同一リージョン内の冗長構成で対応します。リージョン全体が落ちるシナリオは、via側のSLAで年間稼働率九十九・九九九パーセントが保証されていますので、実質的には想定外です」


「リージョン全体が落ちる可能性は、ゼロではないですよね」


 会議室の空気がわずかに変わった。技術者が凪を見た。他の出席者も凪を見た。


「理論的にはゼロではありませんが、viaの宗国リージョンは物理的に複数のアベイラビリティゾーンで構成されており、同時に全ゾーンが機能停止する確率は──」


「天文学的に低い、ですよね。わかりました」


 凪は引き下がった。技術者の説明は正しかった。クラウドの信頼性は、旧来のオンプレミスを上回る。コスト効率を考えれば、海外リージョン一本に集約するのは合理的な判断だ。国内リージョンで同等のAIインフラサービスが利用できない以上、選択肢は限られている。


 それでも、凪の胸には小さな棘が残った。NERVAの心臓が、海の向こうにある。この国の物流を支える血管の、心臓部分が、自分たちの手の届かない場所にある。


 会議が終わり、廊下に出た。先週見た印西のサーバールームが脳裏に浮かんだ。あのラックにサーバーが生きていたころは、万一の備えがあった。海の向こうが落ちても、印西が動けばNERVAは止まらなかった。今はデスクとホワイトボードが並んでいるだけだ。


 合理的だ、と凪は自分に言い聞かせた。クラウドの信頼性は十分。SLAは九十九・九九九パーセント。年間のダウンタイムは五分以下。コスト効率を考えれば、これが最適解。オンプレミスの維持費用は年間数十億円。それを削減して、他のインフラに投資するほうが全体最適になる。


 正しい。数字は正しい。


 それなのに、あの空のラックの扉が半開きだった光景が、目の奥に残っている。


---


 午後七時過ぎ、凪は新座拠点を出た。清瀬市の自宅まで、パーソナルモビリティで十五分。NERVAが管制する小型の自動走行ポッドが、拠点の前に待機している。乗り込んで行き先を告げる必要すらない。NERVAは凪の退勤時刻を把握しており、毎日この時間にポッドを配車している。


 車窓から見える街並みは静かだった。歩道を歩く人がまばらにいるだけで、車道を走る車両はすべて自動運転。音がない。エンジンの排気音も、クラクションも、タイヤのきしみも。電動モーターの微かなハム音だけが、ポッドの床から伝わってくる。


 清瀬の住宅街に入ると、さらに静かになった。ドローンが一機、隣家の玄関先に荷物を下ろして飛び去っていくのが見えた。プロペラの回転音がすぐに消え、また無音に戻る。


 自宅は築三十年の二階建て。母が遺した家を、凪が一人で使っている。ポッドが玄関前に停まり、凪は降りた。ポッドは無人のまま、次の乗客のもとへ滑るように去っていった。


 玄関を開けると、暗い廊下の先にリビングの灯りが自動で点いた。凪の帰宅を感知したスマートホームが、照明と空調を起動する。冷蔵庫には今朝ドローンが届けた食材が入っている。注文した覚えはない。消費パターンから自動発注されたものだ。


 夕食を簡単に済ませ、凪はリビングのソファに腰を下ろした。端末を開く気にならなかった。一日中モニターを見ていた目が疲れている。


 本棚の下の段に、古い写真アルバムがある。母が整理したものだ。背表紙の布地は色褪せて、角が擦り切れている。凪はそれを取り出し、膝の上に開いた。


 最初の数ページは母の幼少期。凪の知らない時代の、知らない風景。ページをめくるたびに時間が進み、やがて一枚の写真の前で手が止まった。


 巨大なトラックの前に、一人の男が立っている。角ばったキャブオーバーの車体。銀色の塗装が日光を反射して白く飛んでいる。男は作業着を着て、カメラに向かって笑っていた。目尻の皺が深く、日焼けした肌に白い歯が映えている。体格は大きくないが、トラックの前に立つ姿には、車体と一体になったような自然さがあった。


 早瀬源蔵。凪の祖父。


 写真の裏には、母の字で日付が書いてある。凪が四歳のときの撮影。つまり、祖父が死ぬ二年前。写真の中の祖父は、まだ元気だった。まだ、死ぬことなど誰も想像していなかった頃の顔だ。


 凪はこの写真を何度も見ている。見るたびに、同じ記憶が蘇る。


 祖父の大きな手。指の関節が太く、爪の間に油が染みついていた。その手で幼い凪の頭を撫でるとき、かすかに軽油の匂いがした。


 ──ナギ、ハンドルっていうのはな、重いんだ。


 祖父の声を、凪は完璧に覚えている。声の高さも、息継ぎの間も、言葉の抑揚も。一度聞いたことは忘れない。六歳の記憶が、二十五年経った今も鮮明に再生される。


 ──重いから、ちゃんと持たなきゃいかん。軽いもんは手を離しても大したことにならんが、重いもんは手を離したら誰かが怪我をする。


 ハンドルの重さ。凪は、ハンドルを握ったことがない。生まれてから三十一年、一度も。教習所は凪が物心つく前に廃止され、運転免許という制度は歴史の教科書にしか載っていない。凪の手が触れるのはタブレットの画面で、動かすのはカーソルで、管理するのは数字だった。


 祖父は、数十トンの鉄の塊を自分の手で動かしていた。道路の凹凸を、カーブの傾きを、風の向きを、すべて自分の身体で感じ取りながら。NERVAのセンサーが千分の一秒で処理するデータを、祖父は肌と筋肉と経験で処理していた。


 その祖父が、居眠り運転で死んだ。人間の限界が、そこにあった。四十八時間不眠で走り続けた伝説の代償を、数年後に身体が支払った。NERVAはそういう死を、この国から消した。それは紛れもない進歩だった。


 凪は写真を見つめた。祖父が笑っている。トラックの前で、誇らしげに。


 今の凪の仕事は、モニターの前に座って、NERVAが正常に動いていることを確認することだ。障害がゼロであることを確認し、ゼロであるという報告書を書く。全国二十万台の車両が完璧に走っていることを、画面の光点として眺める。


 ハンドルの重さを、凪は知らない。祖父が伝えようとしたものを、受け取る手段がない。


 アルバムを閉じた。表紙の布地の手触りが指先に残る。


 リビングの照明が、凪の動きの減少を感知して自動的に暗くなった。空調の音だけが静かに続いている。窓の外では、ドローンの小さなライトが一つ、夜空を横切って消えた。


 完璧な夜だった。何一つ、欠けていない夜だった。


 それなのに、凪は写真アルバムの上に置いた自分の手を見下ろして、この手が何も握っていないことに、かすかな、名前のつかない感覚を覚えた。


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