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凪の轍  作者: 黒犬


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第三章「言い知れぬ不安」


 あの日感じた名前のない感覚は、何年経っても言葉にならなかった。


 あの頃、凪は管制センターに着任して一年目だった。端末の画面には今と同じNERVAの管制インターフェースが表示されていたが、右下に小さな切替ボタンがあった。「国内系統 手動切替」。印西ナショナルDCハブのオンプレミスサーバーへ、管制の主系を手動で切り替えるための非常用コンソール。週に一度の切替訓練が業務に組み込まれていて、凪はその手順書を一読して完璧に暗記した。


 その訓練が、ある日突然消えた。


---


 始まりは、祖父の死だったのかもしれない。


 早瀬源蔵が居眠り運転で高速道路多重事故を起こしたのは、凪が六歳のときだった。三人が死んだ。祖父を含めて。西日本大震災の英雄が、蓄積した疲労に体を従えさせ、ハンドルを握ったまま死んだ。「人間の手動運転の限界」を象徴する事件として大きく報じられ、完全自動運転の義務化と、後のNERVA構想を加速させるきっかけのひとつになった。凪はそのことを、大人になってから知った。祖父を殺したのは人間の限界。NERVAはその限界を超えたものだ。だからこそ信じたかった。だからこそ、疑えなかった。


 その後、前政権の下でNERVAの本格導入が決まったとき、構成は明快だった。印西ナショナルDCハブのオンプレミスサーバーを主系とし、viaが宗国に設置したアジア太平洋リージョンをホットスタンバイに置く。国内に心臓を持ち、海外に予備の心臓を置く。万一の際は自動で切り替わり、NERVAは止まらない──そういう設計だった。


 ところが、導入初年度から問題が噴出した。


 印西のサーバー群は、稼働開始から半年で故障率が想定の三倍に達した。NERVAが要求する演算負荷は従来の行政システムとは桁が違い、ハードウェアの寿命が急速に縮んだ。交換部品の調達が追いつかず、予備機の在庫は三ヶ月で底をついた。年間維持費は当初予算の二・四倍に膨れ上がり、補正予算が二度組まれた。一方、ホットスタンバイとして待機していた宗国リージョンのクラウドは、同期間の障害件数がゼロだった。


「オンプレミスの限界ですよ」


 管制センターのテクニカルレビュー室で、本社のインフラ技術者がため息まじりに言った。


「viaのクラウドは物理層の冗長性が桁違いです。故障したサーバーは自動的に切り離されて、ユーザーからは何も見えない。オンプレミスで同じことをやろうとしたら、予算がいくらあっても足りません」


 数字は雄弁だった。オンプレミスの年間障害率は一・二パーセント。宗国リージョンは〇・〇〇一パーセント以下。三桁の差。コストに至っては、クラウドのほうが年間四十億円以上安い。凪は会議の数字をすべて覚えた。覚えて、そして反論できなかった。


 追い打ちをかけたのは不景気だった。自動運転の義務化が急速に進んだことで、全国の運送業者、タクシー会社、バス事業者が一斉に人員整理を始めた。トラックドライバーだけで八十万人、タクシー・バスの運転手が三十万人。関連する整備工場、教習所、ガソリンスタンド──裾野まで含めると二百万人規模の雇用が数年で消えた。「自動運転不況」とメディアが名づけた失業の波が日本を覆い、前政権の支持率は二割を切った。


 そして、前政権は倒れた。


---


 鶴見洋一郎の名前を、凪が初めて意識したのはテレビだった。


 管制センターの休憩スペースに据えられた旧式のディスプレイ。昼休みに誰かがニュースをつけると、画面の中で鶴見が演説していた。まだ幹事長に就任する前、新政権の事業仕分け会議で司会を務める映像だった。


 長い会議テーブル。一方に鶴見と政治家たち、もう一方に官僚たちが並ぶ。鶴見は六十前後の痩せた男で、銀縁の眼鏡の奥の目が鋭かった。声はよく通り、言葉は短く、間の取り方が巧みだった。テレビ映えする政治家、と凪は思った。


「年間維持費が当初見積もりの二・四倍。補正予算を二回。つまり、見積もりが甘かったということですね?」


 鶴見が問う。答えるのは総務省の情報通信基盤課長だった。五十代の男が額の汗を拭きながら、メモに目を落とす。


「NERVAの演算負荷が想定を上回ったことは事実ですが、これは技術的に前例のない──」


「前例がないのは承知しています。聞いているのは、見積もりが甘かったのか、そうでないのか。イエスかノーで」


「……甘かった点は、認めざるを得ません」


「ありがとうございます。では次に、クラウドとの比較をお願いします。年間障害率、維持費、それぞれ」


 官僚が数字を読み上げた。障害率は三桁の差。コストは年間四十億円以上の差。数字が読み上げられるたびに、テレビの向こうで議場がざわめいた。


「つまり、国民の税金を四十億円余計に使って、千倍壊れやすいシステムを維持していたわけですね」


 鶴見の要約は正確で、しかし一方的だった。オンプレミスが「国内にある」という事実の価値は、数字に換算されなかった。凪はそのことに気づいたが、テレビの中の官僚はそれを言い返せなかった。


 隣の席で宮田が「すごいな、この人。バッサリ切るなあ」と呟いた。凪は画面を見つめたまま、「うん」とだけ答えた。


---


 事業仕分けの結果、新たな計画が発表された。


 NERVAの主系を宗国リージョンのクラウドに移行する。viaが国内リージョンでAIインフラサービスの提供を開始し次第、マルチリージョン体制に移行する。それまでの暫定措置として印西のオンプレミスをホットスタンバイに残すが、段階的に縮小し、最終的には廃止する。


 合理的な計画だった。凪もそう思った。数字を見れば反論の余地がない。クラウドは安く、速く、壊れにくい。国内リージョンが使えるようになれば移行する。それまでの過渡期を、海外リージョンで凌ぐ。筋は通っている。


 ただ、一つだけ引っかかった。「viaが国内リージョンでAIインフラサービスの提供を開始し次第」──その時期は、誰にも確約できなかった。via側の事業判断であり、日本政府がコントロールできるものではない。一年後かもしれないし、五年後かもしれない。その間、NERVAの心臓は海の向こうに置かれ続ける。


 管制センターで、凪は印西ナショナルDCハブとのホットスタンバイ同期状態を毎日確認した。主系はすでに宗国リージョンに移っていたが、印西のサーバーにはミラーデータがリアルタイムで同期されている。万一、海外リージョンが落ちても、この切替ボタンを押せば国内系統に切り替わる。その安心感があるうちは、凪は自分を納得させることができた。


---


 鶴見が幹事長に就任してから、半年。事業仕分けの断行で一時は跳ね上がった支持率が、急落を始めた。


 理由は複合的だった。強引な歳出削減で地方の公共事業が軒並み凍結され、自動運転不況からの回復が遅れた。社会保障費の圧縮で高齢者の反発を買い、教育予算の削減で若い世代の支持も離れた。鶴見は後先考えない政策を連発する人物で、個々の施策には合理的な根拠があるように見えたが、全体の整合性は取れていなかった。半年前に六十パーセントを超えていた支持率は、三十パーセントを割り込んだ。


 そして、あの記者会見が行われた。


 凪がその映像を見たのは、帰宅後の夜だった。端末でニュースサイトを開くと、鶴見の顔がトップに出ていた。見出しは「鶴見幹事長、NERVA運用費のさらなる削減を発表」。


 記者会見場で、鶴見は自信に満ちた口調で語っていた。


「国民の皆様にお約束した歳出改革を、さらに加速します。NERVAの運用基盤について、マルチリージョン移行計画を前倒しし、国内オンプレミス拠点の即時廃止を決定しました。これにより年間二十億円のコスト削減が見込まれます」


 記者が質問した。


「マルチリージョン移行の前倒しとのことですが、国内リージョンでのAIインフラサービスはまだ提供されていませんよね。移行先がない状態でオンプレミスを廃止するということですか」


「クラウドの信頼性は、オンプレミスを大きく上回っています。事業仕分けで確認されたとおりです。国内リージョンが使えるようになり次第、速やかに移行します。それまでの間、わざわざ年間二十億円をかけてオンプレミスを維持する合理性はありません」


「しかし、万一の──」


「万一を言い始めたら、何もできません。隕石が落ちてきたらどうする、という議論と同じです」


 鶴見は笑った。記者たちも何人かが笑った。凪は笑えなかった。──それでいて、数字だけを見れば、凪の中にも納得してしまう部分があった。九十九・九九九パーセント。その「ゆき届かない残り」に足をすくわれた人間の孫でありながら、「確率が低い」という言葉にあっさり丸め込まれそうになる自分が、少しだけ嫌だった。


 端末の画面を閉じ、天井を見上げた。即時廃止。印西のホットスタンバイが消える。あの切替ボタンが消える。NERVAの心臓が海の向こうに一つだけになる。


 合理的か。数字だけ見れば、そうかもしれない。宗国リージョンのSLAは年間稼働率九十九・九九九パーセント。年間ダウンタイム五分以下。viaは物理的に複数のアベイラビリティゾーンを持ち、一つが壊れても他が引き継ぐ。確かに、オンプレミスより信頼性は高い。


 だが、それは「リージョン内部の障害」に対する冗長性だ。リージョンそのものが消失するシナリオ──天災、戦争、政変──に対しては、何の備えにもならない。鶴見はそれを「隕石が落ちる確率」と切り捨てた。凪にはその比喩が正しいのかどうか、判断がつかなかった。


---


 オンプレミス即時廃止が発表された翌週、国交省主催の省庁横断連絡会議が開かれた。NERVAの運用基盤移行に関する実務調整のための会議で、日環グループからも現場責任者の出席が求められ、凪は初めて霞が関の会議室に足を踏み入れた。


 長いテーブルに十五人ほどが並んでいた。国交省、総務省、経済産業省、防衛省。日環からは凪のほかに本社の担当役員が出ていた。議題は移行スケジュールの確認だったが、空気は重かった。


 会議の序盤で、一人の官僚が挙手した。


「国交省自動運転戦略室の佐伯です」


 静かな声だった。五十代前半の、眼鏡をかけた中背の男。髪にはちらほら白いものが混じり、スーツは地味なグレー。温厚そうな顔立ちで、声を張る人間ではないことが一目でわかった。凪はこのとき初めて佐伯信吾の名前と顔を認識した。


「一点だけ、確認させてください。オンプレミス拠点の即時廃止により、NERVAの運用基盤は宗国リージョンの単一拠点に集約されます。国内にフェイルオーバー先が存在しない状態が、国内リージョンでのサービス開始まで──時期は未定ですが──継続することになります」


 佐伯は手元の資料に目を落とした。


「NERVAは交通管制だけでなく、物流、港湾、航空管制との連携を含む国家基幹インフラです。その全体が海外の単一リージョンに依存する構成は、率直に申し上げて、極めて危険です。」


 会議室の空気が硬くなった。鶴見の決定に異を唱える発言だった。議長を務める国交省の審議官が、佐伯を見た。


「佐伯さん、それは政策判断に対する──」


「政策判断を批判しているのではありません。技術的なリスクを指摘しています。クラウドの信頼性が高いことは事実です。しかし、地政学的リスクは技術的なSLAではカバーされません。宗国リージョンが物理的に破壊された場合──自然災害、軍事衝突、テロ──NERVAは即座に全停止します。国内に代替がなければ、復旧には月単位、下手をすれば年単位の時間がかかります。──冗長性無き効率は、砂上の楼閣です。」


 佐伯の声は静かだったが、言葉の一つ一つに重さがあった。凪は佐伯の発言を聞きながら、胸の奥に沈んでいたものが輪郭を帯びるのを感じた。自分が感じていた違和感に、初めて言葉の形が与えられようとしていた。そうだ。SLAが保証するのはクラウド事業者の技術的な稼働率であって、その上位にある地政学的なリスクは範囲外だ。リージョンが「存在している」ことを前提とした数字であって、リージョンが「消える」可能性は計算に入っていない。


 だが、佐伯の発言は退けられた。


「佐伯さんのご懸念は記録に残します。しかし、本日の議題は移行スケジュールの確認です。政策の是非については、すでに上で決定されています」


 審議官がそう締めくくった。佐伯は「承知しました」と静かに引き下がった。


 会議が終わった後、凪は廊下で佐伯とすれ違った。佐伯は書類の束を抱えて歩いていた。凪が軽く頭を下げると、佐伯も目礼を返した。その目は穏やかだったが、どこか疲れていた。


「あの」


 凪は思わず声をかけた。佐伯が足を止める。


「先ほどのご指摘──私も、同じことを考えていました」


 佐伯は少し驚いた顔をした。それから、かすかに笑った。


「そうですか。現場の方がそう感じているなら、私の心配も杞憂ではないのかもしれませんね」


「でも、数字を見ると反論が難しい。クラウドのほうが安くて壊れにくいのは事実ですし」


「ええ。数字は正しい。ただ、数字にならないリスクがあるんです。発生確率が極めて低く、しかし発生したときの被害が取り返しのつかないもの。そういうリスクは、コスト比較の表には載らない」


 佐伯はそう言って、少し考え込んだ。


「まあ、杞憂ならそれに越したことはありません。備えるだけ備えて、何も起きなければ笑い話です。……いちばん怖いのは、備えをなくしてしまうことです」


 そう言って佐伯は軽く頭を下げ、廊下の奥へ歩いていった。凪はその背中を見送りながら、「備えをなくす」という言葉が胸に残るのを感じた。


---


 それから数週間。凪は管制センターでいつもどおりの業務をこなしていた。NERVAは安定稼働を続けている。障害はない。事故もない。宗国リージョンのクラウドは完璧に動き、光点は画面を整然と流れている。


 印西のオンプレミス撤去は粛々と進んでいた。社内通知で撤去スケジュールが回覧され、凪は日付を確認した。第一フェーズの撤去──ホットスタンバイ系統のメインサーバーとストレージ──は先月完了。第二フェーズ──切替制御システムとネットワーク機器──が来週。第三フェーズ──残存ラックとバックアップメディアの処分──は来月。


 バックアップメディア。NERVAのコア制御プログラムと全国の自動運転ネットワーク設定データの完全なスナップショットが、LTO磁気テープに記録されて印西に保管されていた。凪はその存在を知っていた。テープの本数、記録容量、最終更新日──管制マニュアルの付録に記載されていた情報を、一度読んだだけで覚えている。あのテープがあれば、万一の際にNERVAを復元できる。保険のようなものだ。それも廃棄される。


 廃棄。


 凪はその言葉を頭の中で反芻した。テープを保管するだけならコストはほとんどかからない。場所さえあれば、電力も空調も不要だ。なぜ廃棄するのか。おそらく台帳管理の手間を省くためだろう。あるいは、「廃止」と決めた以上は一切を残さないという官僚的な徹底か。いずれにせよ、合理的とは言いがたい判断だった。


 だが凪はそのことを誰にも言わなかった。言ってどうなるものでもないと思った。


---


 佐伯信吾はそうは思わなかった──ということを、凪が知るのは、ずっと後のことだ。


 佐伯は動いていた。省庁横断連絡会議で退けられた翌日から。


 廃棄予定のバックアップテープは、第三フェーズで民間の産業廃棄物処理業者に引き渡されることになっていた。佐伯はその引き渡しの手続きを担当する立場にあった。台帳上の処理を「廃棄済」として処理し、実際にはテープを岐阜県高山市荘川町──佐伯の故郷にある旧い公共倉庫に運び込んだ。耐環境コンテナ二基に収められたLTO磁気テープとデータカタログ。自動運転ネットワーク設定データのフルスナップショット。佐伯はコンテナの輸送費と倉庫の維持費を自分の預金から支払い、同じ敷地内に食品と医薬品の備蓄まで手配した。


 「こんなこともあろうかと」。佐伯の口癖が、そのまま行動になった形だった。


 度を超えた心配性。周囲はそう見ただろう。佐伯自身もそう思っていたかもしれない。二十億円の年間コスト削減に対して、個人資産を投じてバックアップテープを退避させる。合理的な行動とは言えない。杞憂に終わる確率のほうが圧倒的に高い。


 だが佐伯は知っていた。杞憂に終われば、失うのは金だけだ。備えをなくして杞憂でなかったとき、失うものは金では済まない。


---


 第二フェーズの撤去日。


 凪は印西ナショナルDCハブにいた。日環グループの立会い要員として呼ばれたのだ。前回の視察とは違い、今回は撤去作業の現場に直接立ち会う。


 サーバールームに入ると、作業員が三人、ラックの前で機器の取り外しにかかっていた。今日撤去されるのは切替制御システム──あの切替ボタンの実体だ。管制センターの端末から「国内系統 手動切替」のボタンを押したとき、信号を受けて系統を切り替える制御装置と、それに接続されたネットワーク機器。


 作業員がラックからサーバーユニットを一台引き抜いた。金属のレールが擦れる音。ケーブルが抜かれ、コネクタの小さなクリック音が続く。凪はその作業を黙って見ていた。


 隣に立っていたのは国交省の担当官で、前回の視察でも案内を担当した男だった。


「今日でこの系統は完全に停止です。管制端末の切替ボタンも、今週中にソフトウェアアップデートで削除されます」


「……削除」


「ボタンがあっても接続先がなくなりますからね。残しておくと混乱の元になるということで」


 凪は頷いた。論理的に正しい。存在しない系統への切替ボタンを残す意味はない。


 作業員がもう一台、ユニットを引き抜いた。二台目。三台目。ラックの中が空になっていく。かつてここには、NERVAの国内側の心臓が収められていた。宗国リージョンと同期し、鏡像のように鼓動していた機器群。それが一台ずつ、台車に載せられて搬出されていく。


 胸の奥で、何かが閊えた。


 怒りではない。悲しみでもない。もっと漠然とした、名前のない感覚。体温が一度下がったような、足元の地面が薄くなったような。地震の前に動物が感じるとされる不安に似ているかもしれない。だが凪は動物ではなく、データを扱う人間だ。データは「これでいい」と言っている。クラウドの信頼性は十分。SLAは九十九・九九九パーセント。年間コスト二十億円の削減。正しい数字が並んでいる。


 それなのに。


 空になったラックの扉が開いたまま残された。作業員が最後のケーブルを外し、蛍光灯の下でコネクタの端子が一瞬光った。


「早瀬さん、確認書にサインをお願いします」


 担当官がクリップボードを差し出した。撤去完了の確認。日環側の立会い者として署名する。凪はペンを取り、自分の名前を書いた。


 ペンを返しながら、部屋の隅に目をやった。壁際に佐伯が立っていた。この撤去作業にも立ち会っていたのだ。佐伯は腕を組み、空になったラックを見つめていた。その横顔は穏やかで、感情の読めない表情だった。凪と目が合うと、佐伯はかすかに頷いた。それだけだった。


 あの廊下で交わした言葉が蘇った。「いちばん怖いのは、備えをなくしてしまうことです」。


 備えは今、目の前で取り外されている。


 凪は撤去確認書の控えを受け取り、印西を後にした。電車に乗り、新座に戻り、管制センターの席に着いた。端末を開くと、右下に「国内系統 手動切替」のボタンがまだ残っていた。今週中に消えるボタン。押しても、もうどこにも繋がらないボタン。


 凪はそのボタンを見つめた。


 名前のない感覚が、まだ胸の底に沈んでいた。凪はそれに名前をつけようとした。不安? 違う、もっと薄い。不満? それも違う。数字を見れば正しい判断だ。不安に思う根拠はない。不満を持つ理由もない。


 ただ──備えがなくなった。


 その事実だけが、小さな石のように胸の底に残った。凪はそれを飲み込み、業務に戻った。管制画面の光点は整然と流れている。NERVAは完璧に動いている。何も問題はない。


 数日後、端末のソフトウェアが更新された。右下のボタンは消えていた。最初からなかったかのように、画面は平坦だった。凪はその変化に気づき、一瞬だけ手を止めた。──画面は平坦でも、凪の頭の中にはまだボタンがあった。位置も、形も、押したときの微かなクリック音も。一度見たものは消せない。それがこの頭の、いちばん厄介なところだった。現実の画面からは消えたボタンが、記憶の画面には永久に組み込まれて残る。そのボタンの向こうに、もう何も繋がっていないという事実ごと。そしてまた業務に戻った。


 何も起きなかった。何も起きなかった日が積み重なり、やがてあの感覚は忘れ──いや、凪は忘れない。一度感じたことは忘れない。ただ、名前をつけられないまま、記憶の底に沈んだ。名前のない感覚は、取り出しようがなかった。


 NERVAは完璧に動き続けた。鶴見の迂闊な一言──「隕石が落ちる確率」──は、テレビの向こうで何度も繰り返された。言うたびに笑いが起きた。やがて誰もリスクを口にしなくなった。佐伯信吾の名前は、凪の記憶の中だけに残った。


 それから数年。NERVAはさらに完璧になり、障害は限りなくゼロに近づいた。切替ボタンがあったことを覚えている人間は、管制センターにもほとんどいなくなった。


 凪は覚えていた。ボタンの位置も、サーバーの型番も、佐伯の声も。すべて覚えていた。


 ただ、あの日感じた名前のない感覚だけは、何年経っても言葉にならなかった。


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