【15】転移紋の管理部
転移紋管理部オルガ=マザエフはそっと溜息をついた。
「……綺麗」
『転移紋の様子がおかしい』
そう囁かれ始めたのは一体何年前からのことだっただろうか。
中心の一番円に乗ったものを瞬時にもう一方の紋へと移動させる、古来より伝わる不思議で便利なそれを王家に仕える魔術師として管理して早10年。
書に残されたかつての管理人たちの技を読み取りながら必死に各地の転移紋の手入れを行っていたが、その声は年々増しているようだった。皆焦り、書を漁り、解決法が見出だせず戸惑った。
魔法学校を出て試験に受かり就職したものの、ここでも空間魔法の師には巡り会えなかった。
空間魔法自体、使えるものが少ないのだ。魔法学校にはオルガと、あと一人しかいなかった。
「まだ見てるのか、オルガ」
「ええ。すごく綺麗なんだもの」
その『もう一人』キリル=ダリンが、しゃがみこんでいるオルガの後ろから同じく修復されたばかりの転移紋を腰を曲げて覗き込んだ。
後ろで結ばれた、彼の銀の髪が揺れる。
「ああ……本当だな」
「……ずっと見ていられる。本当に綺麗」
「これまで俺たちは一体何やってたんだろうって気になる」
「言わないで」
困った顔でキリルを見上げ、苦くオルガは笑った。
転移紋管理部にはもちろん先輩も、上司もいた。
かつての管理人たちの残した書を教科書に、その指導を受けながらも、なにかしっくりとこないような、もやもやした気持ちが常に胸の中にあった。
空間魔術師には世界の形が他とは違って見えているのだという。
そんなこと言われてもオルガにはそれしか見えていないのだから、見えていない人が何を見えていないのかがわからない。
彼らには地面から湧き上がる粒子の色、水から舞い上がる光の形、植物から舞う玉のようなものが見えないという。
何が見えるのかと言われて説明しようにもどうしようもない。そこにある当たり前の光を指さし『まずこれは赤ですね』というと怪訝な顔をされるのだ。相手には青に見えているのか、そもそもそこに光があることが見えていないのかオルガにはわからない。オルガにはこれ以外の世界の形がわからない。
この世にありながらこの世にないような、不安な気持ちで生きてきた。魔法学校に入って、キリルに会えたときはうれしかった。初めて同じ世界に生きている人間に出会ったと思った。同じものを目で追っているのがわかった。
彼もまた孤独を感じさせる人間だった。群青色の目はしんと澄み、世界を冷たく、外から眺めるように見ている人だった。
お互いに人付き合いの苦手な者同士だったのでなかなか距離は近づかなかったが、卒業する頃には会話くらいはできるようになっていた。そしてここで10年。今や大切な仲間になっている。
オルガは転移紋に触れぬよう指を浮かせ、空でその形をなぞる。
「近くに湖があるからこの形になるのね」
「ああ。この地は水が強いから。そしてこっちにつながって……こうなるか。美しすぎて背筋が寒くなる」
「洗練された美。無駄が一つもないわ」
「これを初見で一筆だ。恐れ入る」
テレーズ=カサドゥシュは2年前のある日突然現れた。小さな子供ジャンを連れて。
かつての管理人の生き残りというその老婆は、まさに魔法使いだった。
数枚の転移紋の写しの紙を持ち、その描き手を尋ねたので覚えのあったオルガとキリル、他数人が手を上げた。
『今手挙げた奴、これからあたしと全国行脚だ。文句は言わせねえ。黙ってついてきな』
というわけでそれ以来オルガたちは旅をしている。転移紋から転移紋へ。大きな地図に現在生きている紋を書き記しながら、修復した日を書き込みながら。どことどこがつながっているかを改めて書き入れ、すでに途切れている場合にはそれもまた書き入れる。途切れる寸前のものであれば二番円、三番円を修復すれば1年くらいでその地の魔力を取り入れ力が戻るそうなので、それもまた書き入れる。また1年後に様子を見に来るためだ。
いくつもの紋を廻りながらオルガは、本当にギリギリだったのだ、と背筋が寒くなった。
このまま彼女が現れず、誤った手入れを続けていれば、あと10年もしないうちに半分以上の転移紋が駄目になっていた。
そのことに気づいていなかったこと自体が、実に恐ろしい。
「神様の使いみたいだわ」
「ああ。そう思う」
「……学べて嬉しい」
思わず涙がこぼれた。
テレーズはジャンに説明をする。大きな声で、子供でもわかるようにわかりやすく。
だがそれはその賢い子に向けられた説明ではないことを、管理部の皆がよくわかっている。今回旅をしているのは若手だけではない。20歳以上年上の上司もいる。部外者である彼女に頭を下げて、手取り足取りの指導をお願いできない立場の人間だ。
皆に聞こえるようにテレーズは説明する。
皆が必死に、それを聞きメモを取っている。
文字の情報しかなかった、知識の骨に
毎日豊かに、肉がつき血が通うのを感じている。
「俺もだ。このまま一生旅していたい」
「ええ。私も。本当に、毎日が楽しい」
「ああ。楽しい」
移動は辛い。転移門が結ぶのは片割れの紋までの道なので、別の紋に移動するには陸を行かなくてはならない。徒歩もある。馬車もある。その土地土地の特殊な動物の背に乗ったり、人里離れたところならば野宿をすることだってある。
寒いときも、暑いときもある。
でも、楽しい。
毎日が新しく、発見に満ちている。
誰よりも旅慣れているのが最年長のテレーズであることも面白い。彼女は紋だけでなく旅の知恵もまた、惜しむことなく教える。
『あたしはあと何年もは生きられまいよ』
外で炎を囲いながら、テレーズは微笑んで言った。
『覚えておくれ。身につけておくれ。そして正しく広めておくれ』
そっと、テレーズが彼女に寄りかかって眠ったジャンの頭を撫でる。
『いつでも愛を忘れないでおくれ。頼んだよ』
「愛……」
「……」
オルガが呟き、キリルが何かを言いかけた次の瞬間、転移紋の一番円に何かが現れた。
「……」
「外だー!」
「眩しい!」
土にまみれた革の服、大きなゴーグルにヘルメット。
編み込まれたドレッドヘアーに髭、すごい筋肉、大きい男に小さい男。
「おっれたっちゃゆっかいな石堀屋〜」
彼らは楽しそうに歌いながら遠ざかっていく。
「……ここって民間人使用可の紋だっけ」
「ああ。鉱山への立ち入りが許されている者に限るけど」
「びっくりした」
思わず尻もちをついたオルガが笑う。キリルが笑いながら手を伸ばす。
「はい」
「ありがとう」
オルガがキリルを見て笑い、手を取って立ち上がる。
「……オルガ」
「なあに」
風が吹く。
手を握ったままキリルがじっとオルガを見ている。
「……いや、何も」
「そう。ありがとう。ああ、そろそろお昼ごはんの準備をしないと」
「今日はオルガの日か。楽しみだ」
「あまり期待しないで。いつものパンにスープよ。それじゃあ」
手を離し、オルガが今日泊まる木の小屋に向かって歩き出す。
「愛……」
その背中を見送りながら、右手を握って立ち尽くし、キリルは呟いた。
風が吹き彼の長い銀の髪を揺らす。
「……愛……」
人間同士の場合口に出さなければ伝わらないそれを、今日もキリルは口に出せずに噛みしめる。




