-9 『品位の違い』
「大丈夫だったかい」
エドウィン様は僕に、そう優しく声をかけてくれました。
あの後、エドウィン様はいとも簡単にシュランを追い払ってくれました。不良である彼もさすがにエドウィン様には敵わないと思っているのか、その引き際はあっさりでした。
それから、僕のボロボロの服と踵の外れた靴に気づいたエドウィン様は「よかったら送るよ」と誘ってくれたのでした。
「そこに場所を停めているんだ。俺の用事ももう終わったし家まで連れて行ってあげる」
「あ、ありがとうございます。でも、その。学園に戻りたくて……」
さすがに学園に服も鞄も、そしてお嬢様も残したままです。
「わかった。じゃあそっちに向かおう」とエドウィン様は優しく頷いてくれました。
大通りに抜けた先に馬車の客車が置かれていました。エドウィン様はとても気さくな表情を浮かべながら、乗ろうとする僕に手を貸してくれたりしました。
女性へのエスコートで慣れているのでしょうか。「足元気を付けてね」などと気を使ってくれる仕草も、彼の優しい人となりをよく感じさせました。
やがて馬車が出発し、客車の中では僕とエドウィン様の二人だけになってしまいました。
何を話せばいいかわからず、気まずい沈黙が流れました。
思えばエドウィン様と二人きりになったのは初めてのことです。そもそも彼が、僕をエリンだと認識しているかどうかもわかりません。シュランも一目見ただけでは気づかなかったようですし。
それになによりエドウィン様にこのような女の子の姿を見せるのは、僕にはお嬢様に「可愛い」と言われる以上に複雑なものがありました。
僕が男であることはエドウィン様にすら知らされていません。
馬車に揺られ、車窓から外を眺めるエドウィン様の横顔はとても端正で、ただ物静かにしているだけでもそのような美術像なのではないかと思うほどです。窓辺越しに彼を見た道端の女性はきっと目を奪われていることでしょう。
それに比べ、同じ男なのに僕は、こんなみすぼらしく汚れたドレスを着ています。
――どっちが素敵かなんて、比べるまでもないな。
一緒にいればいるほどその差が際立つようで、ただ沈黙を気まずさより、密室の息苦しさのほうが辛いほどでした。
「さっきは随分と災難だったね。シュランに絡まれるなんて」
ふとエドウィン様が話を切り出してくれました。
さすがに学園までずっと無言というのも変だと気遣ってくれたのでしょう。
「いえ、その。そういえば言い忘れていました。助けていただいてありがとうございます」
「別にいいさ」
エドウィン様の声色はどこまでも優しいです。
そんな彼が、おもむろに僕へと目を据えてきました。
「君が抵抗しなかったのはクーナのためかな?」
「……っ!」
髪型が普段と違うとはいえさすがに気づかれていたようです。更に、
「よほど主人思いなんだね。女装してまで彼女の傍で見守っているだなんて」
「ど、どうしてそれを!」
はっと顔を持ち上げた僕は、しかし慌てて口をつぐみました。けれどもう手遅れで、エドウィン様はそんな僕を見てにこやかに笑っていました。
「やっぱりそうか。そうだと思ったよ」
「カマをかけたんですか」
「まあ、そうだろうとは思ってたよ」
「え、どうして」
「クーナを見つめる君の視線がいつも熱心だったからね」
僕のお嬢様への好意すら気づかれていたということでしょうか。
「……すみません」
「どうして謝るんだい?」
「女だって騙していましたし」
「そんなこと、俺にはどうでもいいよ。君が男だろうが女だろうがね」
それは、僕が男でもお嬢様との競争相手にすらならないという意味でしょうか。
イヤな邪推に弱気が表れてしまいます。
エドウィン様はきっとそんな嫌味な人ではないとわかっているのに。
僕と話している間もずっと物腰は落ち着いていて、僕が緊張しすぎないように柔和な笑みを向けてくれています。
「……あの」
「なんだい?」
「どうしたら……僕はエドウィン様みたいになれますか?」
僕は気づけばそんなことを尋ねていました。
エドウィン様は僕の問いに驚いた顔をすると、困った風に眉を顰めました。
「難しいことを言うね。俺は俺だし、君は君だ。俺らしくなるというのが地位のことなら、それは生まれ持ってのものだから厳しいだろう。それとも身体的なものなのか、内面的なものなのか。見方によって答えは大きく変わってくる」
「僕は――男らしくなりたいんです」
こんな女装をしている僕が言っても笑われるだけでしょう。
しかしエドウィン様は一切口許を緩めることなく、僕をまっすぐに見つめていました。
「男らしくなったらなにかあるのかい。自分に自信が持てるとか、なりたい職業があるとか」
「それは……」
「――想い人に振り向いてもらえる、とか?」
ずばりと言われ、僕は顔を俯かせてしまいました。
何も答えられませんでした。
具体的な想像が僕には何一つありません。
「仮に俺が男らしいとして、そうすれば想い人の心を手に入れられるというわけかい。だったら俺は今頃、ここに乗せているのは君じゃなくて別の子だろうね」
エドウィン様はその時初めて、不快そうな暗い顔を微かに浮かべました。まるで真剣で、凄みのある面持ちでした。
「そうだったらどれだけ楽だろうね。男らしくあるだけで意中の人を射止められるというのなら、俺は鍛錬でも勉学でも喜んでやるよ。でも、実際はそんなに簡単にはいってない。男らしい、なんて言葉はただの飾りさ」
「でも、エドウィン様のように運動も勉学も完璧なら、どんな女性でも釣り合うと思うんです」
「そこまで思ってるなら、じゃあ俺に聞くより、自分なりに運動も勉学もできるよう努力すればいいんじゃないか? そうすれば女性にもてるんだろう?」
「それは……僕は、頭も悪いし体も貧弱だから……」
「最初っから何も持ってない。やってもいないのにそうやってそれを言い訳にして無理だと言い張るのは、それはもう、ただの怠惰なんじゃないかな」
「……っ」
一言も言い返す言葉が思い浮かばず、僕はただ肩を消沈させて縮こまることしかできませんでした。
「俺は努力をしてきたさ。頭の良さも、運動能力も、母親の胎内で得たものじゃない。多少の才能の差はあれど、マークライ家の貴族の子として、決して恥じないように研鑽してきた結果なんだ。それを、勝ち得ようと努力もしていない人間に言われるのは不本意なんだ」
エドウィン様の言葉が僕の心を鋭くえぐるように入り込んできました。うつろな僕の頭の中にうるさいほど反響し、痛くなるほどに。
僕はイヤが応にも実感してしまったのです。
僕と、彼との差を。
明確な努力をした秀才と、それを妬むだけの凡才。
こんな僕が彼に勝てるはずがないということに。
重苦しく、冷たく沈んだ雰囲気に、しかしふとエドウィン様はおどけた風に白い歯をみせました。
「ま、今のはシュランのことね。彼はいつも、貴族だからってだけで目の敵にしてくるから俺も困ってるんだ」
気まずさのまま終わらせないように気を使ってくれたのか、エドウィン様はそうはぐらかしたように言いました。それが半分本当で、半分は嘘なのだろうと僕もわかっていました。
それからしばらくして、馬車は学校へとたどり着きました。
「ありがとうございます」
馬車を降りようとした僕に、エドウィン様は最後に言いました。
「大切なのは、誰になりたいかじゃなくて、どうなりたいかだと俺は思うよ」
「えっ……」
「俺は君にはなれないからね」
馬車を降りた僕はそのエドウィン様の言葉をいまひとつ呑みこめないまま、最後に頭を下げてその場を去っていったのでした。




