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 -8 『逃避行』

 僕はひたすら校舎を走り回っていました。


 ただ少し逃げるだけのつもりだったのですが、予想外にグレンくんが追いかけてきたのです。その場しのぎに身を隠しても、すぐに再び見つかっては追いかけっこになっていました。


 待ってくれ、話を聞いてくれ、などと真剣に追いかけてくるので余計に心が苦しいです。ドレス姿のため走りづらく、靴もやや高めのヒールです。それに運動が苦手な僕ではすぐに体力が切れそうでした。


「お願いだから勘弁してくださいぃー」


 もはや涙ながらにそう声を漏らしながら、僕はついに学園の外にまで飛び出したのでした。


「みなさんお気をつけてお帰りなさいね。今日もしっかり勉学に励みましたか。明日も笑顔で登校しましょうね……って、あら?」


 校門で下校中の生徒に声をかけるマダムルーナの目の前を、僕は全速力で駆けました。


「ちょっと。走っては危ないわよ」


 ――突っ込むところはドレス姿ではなくそこですか。


 そんな彼女の言葉をかき消すような勢いでグレンくんも続いて通り過ぎます。


「ちょっとぉ! 走っちゃ危ないってば!」


 マダムルーナの言葉もむなしく、僕たちは町の中へと駆け込んでいきました。


 それからはもう必死でした。

 息切れもひどい中、どうにか狭くて複雑な路地に入ったり、人ごみに混じったり。できる限りにグレンくんを巻こうとしました。


 もう何分走ったでしょう。

 顎をつたった汗が滴り落ち、足の痛みもだんだん増していきます。


「……はあ、はあ。もう追いかけてこないかな」


 しばらくして振り返ると、ようやくグレンくんの姿が見えなくなっていました。


 久しぶりに足を止めて息を正します。

 呼吸は激しく乱れ、肩も上下しています。前髪はおでこにひどく張り付いていました。汗で化粧も流れ、民家の窓ガラスに映る顔はぐしゃぐしゃになっていました。


 走っているうちに靴のヒールも外れてしまっています。ドレスの裾は土だらけで、とてももとの純白さは残っていませんでした。


「ボロボロにしちゃった……あとで謝らないと」


 せっかくレジーさんが丹精込めて作った洋服が台無しです。


「……帰ろう」


 路地裏の井戸水で顔を洗いました。

 付け毛はまだついていますが、水面に映る僕の顔はほとんど元通りのエリンです。


「なにやってるんだろう、僕」


 思わずため息がこぼれてしまいます。


「可愛い僕、か。やっぱり複雑だな」


 お嬢様は僕を女の子にして遊んできます。

 けれどそれはつまり、僕を男として見てくれていないわけで。


 たとえ不本意でもお嬢様が喜んでくれるのは嬉しいです。主人の幸せは従者として本望なことは間違いありませんが、『エリン』としては少し違います。


 貴族で、それでいて勉学も優秀なお嬢様に振り向いてもらうためには、僕も同じくらい立派な男にならないといけないのに。


「僕はお嬢様に、可愛いっていうよりも――」


 肩を落としてとぼとぼと路地裏を歩いていた時です。


「きゃっ!」


 不意に曲がり角から出てきた人影にぶつかり、僕はよろけて尻もちをついてしまいました。


「どこ見て歩いてんだよ、このクソガキ」

「す、すみません。ぼーっとしてました」


 顔をしかめながら謝った僕ですが、その人と目を合わせたとたん、大きく目を見開かせてしまいました。


「――っ、シュラン」

「ああ?」


 苛立ちを明確に含んだその声の主は、シュランでした。

 僕とお嬢様のせいで停学になった彼と偶然にもまた鉢合わせてしまったのです。


「なんで俺の名前――。お前、もしかして付き人の……」


 髪型が違うためかすぐに気づかなかったようですが、僕がついうっかり漏らしてしまった言葉のせいで気づいて様です。


 彼の一瞬浮かべた驚きの顔が、不気味に口許を吊り上がらせます。


「誰かと思ったぜ。何やってんだこんな路地で。しかもそんな恰好でよ」

「いえ、別に何も」

「何も、ねえ。ただの従者がそんな服着て。お嬢様ごっこか?」

「ち、違います」


 土を払って僕は立ち上がりました。

 せっかくのドレスなのにさらに汚れてしまいました。


「随分とみすぼらしい服じゃねえか。なんだ。お嬢様に憧れてドレスを着たはいいものの、扱いきれずに汚しちまったってか?」

「別にそんなんじゃありません」

「じゃあなんでなんだよ」

「それは……」


 返答に迷いました。


 彼に『お嬢様がウエディングドレスを着たいと言ったから』などと説明を始めても理解してもらえないでしょう。それどころか笑われる可能性すらあります。


 笑いものが僕だけならまだしも、お嬢様もそうなることだけは避けなければなりません。


 ――厄介なことにならないうちに今すぐ立ち去らないと。


 そう思う僕の内情を覗き見たように、立ち去ろうとする僕にシュランは声をかけてきました。


「綺麗な恰好をしても馬子に衣装ってか。宝の持ち腐れじゃねえか」


 ――相手にしちゃダメだ。


「主人の袈裟を借りて」


 ――乗っちゃダメだ。


「それとも、変身すれば自分でもお嬢様みたいになれるって勘違いしちゃったのか?」


 ――違う、そうじゃない!


 僕がお嬢様のようになれるはずがありません。

 それはわかってる。わかっています。誰よりも、この僕が。


「こんな勘違い甚だしい従者をつれてるご令嬢ってのもタカが知れるな」

「……っ!」


 案の定、またしてもシュランはお嬢様を馬鹿にする物言いをしてきました。その声調は明らかに僕を挑発しているようでした。


 舐められているから。

 いえ、僕が手を出せないとわかっているからでしょう。


 そんな度胸などありませんし、万が一に手を出せば、お嬢様までもの責任追及の可能性があるからです。


「きっとお前の主人も、普段からそんなみすぼらしい服を着てるんだろ? ああ、そうか。泥まみれになっても洗わせてもらえないとか? 洗濯すらケチる貧乏貴族だったか?」

「…………」


 言いたい放題です。

 ですが僕には、握りこぶしを震わせながら奥歯をかみしめることしかできませんでした。


 沸々と怒りが湧いてきます。

 けれどそれを堪えるほかありません。


 言い返してしまえばまた以前の時と同じ。あの体育の時と同じように、僕のためにお嬢様が駆けつけてきてしまう。そんな気がしました。


 だから、僕は絶対にやり返してはいけません。


「おい、聞いてるのかよ。ドブネズミみたいな汚ねえ恰好してよお」


 落ちこぼれの僕はお嬢様のために何もできません。

 だからせめて、お嬢様の迷惑だけには――。


「なにしている!」


 ふと僕たちの間に鋭い声が割って入ってきました。


 僕は一瞬、そのタイミングから、またお嬢様が助けに駆けつけてきたのかと思ってしまいました。


 しかしその声がした方向――大通りに面した路地の出口、薄暗いこの路地とは正反対に日を浴びて明るく白飛びしたように浮き出ているそこに立っていたのは、お嬢様とは全く違うシルエットでした。


 長い四肢にきりっとした目つき。艶やかな短い金髪を風になびかせる学生服姿の青年――そこにいたのは、エドウィン様でした。


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