-10『後ろ向き』
学園へ戻ったころにはもうすっかり遅い時間になっていて、校門のマダムルーナも、下校する生徒もほとんどいませんでした。
幸いにも人目につかずに手芸部の部室へと戻ったのですが、鍵がかかっていて不在のようです。どうしたものかと迷った末に、自分たちのクラスの教室へと向かってみました。
もうみんな帰ってしまったのでしょうか。
レジーさんも、グレンくんも。
――お嬢様も。
誰もいない、がらんどうの廊下に寒風が吹き抜けます。
まるでこの世界から誰もいなくなったかのような静けさでした。
もしお嬢様がエドウィン様と婚約して家を出たらこんな感じなのでしょうか。いつも一緒にいるのが当たり前だったお嬢様がいないだけで、僕の心は窄んだように小さくなってしまいます。
――なんで急に。お嬢様がいない時なんてよくあるのに。
今日はそのわずかな時間さえ、まるで悠遠のように長く感じてしまいます。きっとそれはエドウィン様と話し合ったせいでしょう。
僕にはお嬢様を引き留めることができません。このままではお嬢様はエドウィン様と一緒になってしまうでしょう。それがきっとお似合いで、自然なのです。
使用人の僕にできることは、毎朝のお茶を出すことくらいだけ……。
「ああ……駄目だな、僕。体だけじゃなく心も弱いんだ」
これじゃあシュランに悪く言われても仕方ありません。
僕なんかがお嬢様の傍にいては、それこそお嬢様の品位を下げてしまうでしょう。
「ううん、駄目。こんなこと考えるからもっと悪くなっちゃうんだ」
不安に駆られる思いどうにか吹き飛ばしながら教室の扉に手をかけると、鍵が開いていることに気づきました。
扉を開けて中に入りました。
西日が差して朱色に染まり始めた教室の中、片隅の席に、突っ伏したまま眠りこくっているお嬢様の姿を見つけました。
両手を枕にして穏やかに瞳を閉じているお嬢様の顔は、もはや芸術品のように美しく思いました。西日に当てられてやや赤くなった白雪の頬はつい触りたくなるほどに柔らかそうです。
静かな寝息を立てて眠るお嬢様はまるで無防備で、やってきたのが僕でよかったと安堵するほどでした。
「……んん」
お嬢様の瞼がうっすらと持ち上がり、僕は寝顔を覗き込んでいた顔を慌ててそらしました。
「あら、エリン」
寝ぼけ眼に瞼をこすりながら、お嬢様はにこりと優しく微笑みました
たったそれだけに、僕のさっきまで抱えていたモヤモヤも少しだけ軽くなったような気がしました。
「お嬢様、待っていてくださったんですか?」
「だって急にどこかにいくんだもの。レジーも用事があるって言ってたから先に帰らせたわよ」
お嬢様は椅子の足元に置かれていた紙袋を差し出してくれました。その中には僕の制服などが入っています。
「ドレスは今度、ちゃんと洗って返すわ。随分とまあ汚してくれちゃって」
「すみません。靴もなんです」
「みたいね。謝っておかないと」
「……すみません」
シュンとうなだれる僕に、お嬢様は急に僕の頬を掴んで引っ張りました。
「いたっ! いたたたたた、痛いですお嬢様!」
「貴方に無理やり着せたのは私たちだし、ああなったのもグレンが暴走しちゃったからでしょ。遊び半分で眺めてた私たちのほうが悪いわよ」
「それは……」
こつん、とお嬢様は指先で僕のおでこをつつきました。
「勝手に自分が悪いとか駄目だとか――そうやって思うのは貴方の悪い癖よ」
「僕は……お嬢様たちに迷惑をかけてしまったと思ったから」
「いつ私がそう言ったのかしら」
「…………」
俯かせた僕の顔を、お嬢様を顎先に指を添えてくいっと持ち上げました。僕の視線に、お嬢様の顔がイヤでも入ってきました。
「エリンは私の心がわかるの? それじゃあ、いま私がどう思っているのかもわかる?」
「それは……わかりません」
「でしょうね。でも、私も貴方がどう思ってるかわからないのよ」
吸い込まれるようなお嬢様の円らな瞳が、僕へと一身に向けられていました。
「人間は、相手に自分の感情を写し出すの。苛立ちを覚えていたら相手も怒ってるように。自分が楽しい気持ちなら相手も笑っているように。そうやって、自分自身の心を反映させてしまうのなの。エリン。もしいま私が怒っているように感じるのなら、それは貴方が、怒られて当然だと思い込んでいるからよ。そうやって勝手に委縮して、本当の自分をなくしちゃうんだから」
口調は厳しく、はきはきとしています。
僕にはそれが、お嬢様の言っている通り怒りを含んでいるように捉えていました。
けれどよく見るとその口許は少し微笑んでいて、目尻もやや下がっています。
ただ責められているように思いました。
けれど、お嬢様はいたっていつも通りでした。
「思い込みで自分を殺しちゃダメ。わかった?」
お嬢様はそう、優しく僕へと微笑みかけてくれ舞田。
「もし貴方が心を読めるんだったら苦労していないわよ」なんておっちゃらけた風に言ったりもして。
お嬢様は僕から手を離してまた椅子に落ち着くと、ぐっと腕を天井に向けて伸びをしました。そうして足元の鞄を拾い上げ、
「さ、帰りましょう。一緒に」
「はい」
お嬢様は僕にそう微笑みかけてくれたのでした。




