10 嵐の夜
風がますます強くなったようだ。雨の音と共に、穀物庫のドアを叩きつける音がする。
「大丈夫よ」
象は今は落ち着いている。夜が明けて嵐が去ったら、巫女に頼んでマグナ・マテルの神殿に象を連れて行ってもらおう。
戸の隙間から、鋭い光が差し込む。驚いたツァイはきつく瞼を閉じた。続く雷鳴に、悲鳴を上げてしゃがみこむ。
「大丈夫。大丈夫だから」
「……さまっ。ツァイさま」
どうしたことだろう。幻聴が聞こえる。
ヒューリのことなんて、全然考えてもなかったのに。
(ちがう。考えないようにしていただけだわ)
ツァイは湿り気を帯びた床に座り、膝を抱えた。
本当は全然大丈夫じゃない。怖くて仕方ないし、声を上げて助けを呼びたい。
ヒューリに来てほしい。
「ツァイさま。ヒューリです。開けますよ」
「えっ?」
風が一瞬弱まった時、ヒューリの声がはっきりと聞こえた。
「う、嘘。ヒューリがこんな所にいるはずないわ」
「双子から聞きました。象を避難させたと。ならば穀物庫以外にツァイさまがいらっしゃる場所はありません。怖かったでしょう? 俺が来たから、もう安心なさってください」
「ヒューリ……」
思わず戸の方へ駆け出しそうになって、はっとした。
ヒューリはこんな雄弁ではない。もしかしたら偽者かもしれない。
そうだ、そうに決まっている。
「開けないで!」
「ツァイさま?」
「違う。あなたはヒューリじゃないわ。だってヒューリは、わたしのことなんて気にかけないもの。薬湯を用意するって言っていたけど、それだって祭儀のためだわ。いつだって、わたしの気持ちを迷惑そうにしているもの」
「それは……」
戸の向こうから聞こえる声が、口ごもった。
「すぐに無視するじゃない。話しかけても、返事もしてくれないことが多いわ」
ツァイはうつむいて唇を引き結んだ。言葉にすればするほど、自分が惨めになる。
「ごめんなさい。こんな我儘を言うから、迷惑がられるのよね」
聖女と着付け師は、親密にならず、互いに距離を置くべきだとは分かっている。着付け師が規則を守ることは、正しいのに。
なのに、それを実践されると寂しくてしょうがない。
ツァイは閉じた戸に手を当てた。
「俺は……嬉しかったんです。ツァイさまが庭で摘んだ花やリンゴについた青虫を見せてくださった時」
「……虫が好きなの?」
少しの沈黙があった。
雨が屋根を叩きつける音が聞こえる。ヒューリはずぶ濡れのはずだ。なのにさらに風雨にさらされ続けたら、風邪をひいてしまうのではないか。
ツァイは、思わず戸の把手に手をかけた。だが、開ける勇気が持てない。
「虫が好きなのではありませんよ。ツァイさまの笑顔が好きなんです」
軋む音を立てて、重い戸が開いた。強い風と雨が穀物庫に吹きこんでくる。
その風雨を背で受けたヒューリは、ふらついた。ツァイはとっさに手を差し伸べた。
だが逞しい彼を支えきれるはずもなく、二人そろって床に倒れ込む。
「びしょ濡れね。ごめんなさい、わたしのために」
「信じていただけましたか?」
仰向けになったツァイにのしかかるような格好で、ヒューリが見下ろしてくる。しとどに濡れた短い髪から、絶えず雫が落ちてくる。
雫はツァイの頬や耳を濡らした。
それはとても冷たく、なぜもっと早く彼を中に入れなかったのだろうと後悔した。
「あなたが本当のヒューリだと信じるわ」
「いえ、そうではなくて」
どこかが痛むのか、ヒューリは苦しそうに眉をしかめた。せめて濡れた体を拭いた方がいいだろう、とツァイはサドリから借りた掛け布でヒューリの頬をぬぐった。
その時だった。布を右手に持ったヒューリが、左手でツァイの体を抱え起こしたのは。
目の前が黒い布で隠される。
気づいた時には、布越しに唇が重なっていた。湿った布は唇にまとわりつく。
(え、どういうこと?)
思わずヒューリの腕にしがみつく。
布がはらりと落ちたと思うと、頬に手が添えられた。これまでのように手袋に包まれていない、彼の指がじかにツァイの頬を撫でる。
「ちゃんと応えてあげたかった」
「ヒューリ?」
「ずっとあなたに触れたかった」
見つめてくるヒューリの瞳は、潤んでいるように見えた。今までで一番近いからか、琥珀色の彼の瞳に金色が混じっているのを初めて知った。
頬に触れる手は温かく、手袋越しでは分からなかった彼の体温を感じた。
「嫌われていると思ってたの」
「ありえない」
閉鎖された空間で、他に象しかいないからなのか。
今のヒューリの言葉遣いは自然だ。ああ、本当はこんな風に話す人なのかと思うと、嬉しくなった。
「俺があなたのことを好きだと……あなたが自由になる日を待っていたと、信じてくれるか?」
ツァイはうなずいた。
もう布も手袋も、二人の間を遮らない。
ヒューリが再び唇を重ねてきた。




