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9 雷

 ヒューリに聖女としての務めが無期限になったこと、祭儀が今後は月に四回行われることを告げられた時、不思議とツァイは心が動かなかった。


(変ね。少し前までなら、きっと嫌だと言っていたのに)


 ツァイと向かい合って座るヒューリは、なぜか申し訳なさそうな顔をしている。

 決定を下したのはヒューリではないのだから、気にすることはないのに。


(ああ、そうね。今後もずっとわたしの着付け師をしなければならないなんて、嫌よね)


 頬にキスされた程度のことを、好意を抱いてくれていると舞いあがるような娘を、きっと愚かだと思っているのだろう。


 幼い頃にヒューリと手をつなぎたくて、ツァイは自分の手を伸ばしたことがあった。

 けれど、手袋に包まれた手にふり払われた。


 巻物にヒューリの似顔絵を描いて渡したこともあったけれど。すぐに捨ててしまったのかもしれない。

 ヒューリは根底では、ツァイのことを嫌っているのだ。それを知っていたはずなのに。

 

 どうして希望を抱こうとするのだろう。

 

「ベッドで休んでください。薬湯も持って参ります」

「なぜ?」


 ヒューリは黙って鏡を差し出してきた。丸い鏡に映るツァイの顔は、目の下に隈ができていた。


「ひどい顔」


 一人になった部屋で窓の外を見ると、重い雲が垂れこめていた。黒い雲と恐ろしいほどに赤い夕焼け。大気が湿っているせいで、髪が重い。


「嵐が来るんだわ」


 ツァイは庭に面した扉に手をかけた。象が庭に繋がれたままになっている。避難させないと。


『頼むぞ、ツァイ』

『あたし達が行けたらいいんだけど』

「平気よ。任せておいて」


 落ち込んでいる暇はない。アメトリン達を部屋に残して、ツァイは庭へと走りだした。

 人ではないアメトリン達には、ツァイの苦しさを理解することはできない。

 

 ぽつ、ぽつ……と大粒の雨が落ちてくる。


 神殿の奥にある穀物庫なら、高さも広さもあるから象を入れることができるだろう。

 象の足に結ばれた縄を、杭から外し、穀物庫へと誘導する。

 巫女たちに餌をもらっているから、象は元気そうだが。急に降り出した雨に怯えた様子で、鼻を左右に動かしている。


「大丈夫だから。ついて来て」


 縄を引っぱると、象はようやく歩きだしてくれた。


 神殿で人影が見えた気がして、ツァイはそちらに目を向けた。降り始めた雨に打たれながら、サドリが立っていた。

 まるで途方に暮れたかのように、雲に閉ざされた空を見上げている。


「濡れますよ」


 ツァイはサドリに声をかけた。象の足音も聞こえていただろうに、サドリは驚いたように体をびくつかせた。


「……ツァイさま」


 元々、不安定な高さの声だが。今のサドリはまるで悪事が見つかった子どものようだ。


「ヒューリからお聞きになりましたか?」

「ええ。聖女で居続けることと、祭儀の回数が増えることでしょう?」

「それが何を意味するか、お分かりですか?」


 ツァイはうなずいた。

 月に四度もサドリに斬りつけられたり、場合によっては鞭打たれる。前の傷が治りきらぬ内に。

 それが元で病になるかもしれない。貧血を起こして、さらに体力を削がれることだろう。


「わたしが血を搾り取られて死んだ後、新たに聖女になる人なんて出てこないと思うわ」

「そうでしょうね。本来この神殿の聖女は、血を捧げるほかに女神の神託を受ける存在でもある。ですが、キュベレーはあなたに神託を与えない」

「まるで、ただの食事ね」


 ツァイは自嘲的な笑みを浮かべた。さすがに餌とは言えなかった。

 降る雨は徐々に強さを増し、濡れた髪が顔や背に張りつく。その時、雷鳴が聞こえた。


「……申し訳ありません」


 重く轟く雷の音に紛れるような、細い声。


「なぜ、あなたが謝るの?」


 尋ねても、サドリは答えてはくれない。ただ苦しそうに首を横に振るだけだ。


「象は巫女にでも任せて、早く室内にお戻りください」

「大丈夫。すぐに穀物庫に避難させるわ」


 厚い雲の底が、上空の雷のせいで発光する。こんな風に、サドリと話すことなんて珍しいとツァイは思った。


「あの……マグナ・マテルの双子は……」

「まだいるわ。象がいるんですもの」

「そうですね」


 なにか言いたそうに口を開いたけれど、サドリは結局、唇を引き結んでしまった。

 掛け布を肩から外すと、ツァイの頭からふわりとかける。


「少しは雨よけになると思います。あなたがお風邪を召しては、私がヒューリに殴られますから」


 では、と一礼するとサドリは踵を返した。

 雨は叩き付けるほどに強く、吹きつける風に草が激しく揺れる。


「急ぎましょう」


 ツァイは象を急かして歩きだした。

 自分が風邪をひいたら、サドリがヒューリに殴られる。司祭が冗談を言うなんて初めてのことだ。


 象を穀物庫に避難させると、急に風雨は強さを増した。雷も相当近いらしく、くらのなかにいてもその音が腹の奥にまで響いてくる。


「だ、大丈夫。雨が止むまで、ここにいれば平気だから」


 象は不安なのか、しきりに前足で土の床を掘っている。

 薄暗い庫の中が、鋭い光に照らされる。同時にまた雷鳴が轟いた。


「きゃあっ」


 ツァイは両手で耳を塞ぎ、床にしゃがみ込んだ。


「平気。大丈夫。怖くなんてないから」


 サドリが貸してくれた布を頭からすっぽりとかぶり、きつく瞼を閉じる。なのに、無遠慮で不躾な雷光は瞼の裏にまで届き、ツァイを怖がらせる。


「……ヒューリ」


 思わず呼んだ名前は、雷にかき消された。


 ◇◇◇


 薬湯の載った角盆を持ったまま、ヒューリは呆然と立ち尽くした。


「ツァイさま?」


 部屋は空っぽだ。しかも柱廊側の扉が開いたままで、雨が室内に吹きこんでいる。


「おい、アメトリン。ツァイさまはどこだ」

『やだ。怖いっ。』

『お前、無礼であるぞ。その口のきき方は何だ。たかが着付け師のくせに』

「いいから、教えろ」


 片手で二本の剣の柄を鷲掴みにする。キシリと音を立てる水晶たちが『ひぃぃー』と、引きつった声を上げた。


『素手で触らないでよっ! あたし、おっさん嫌いなのよ』

『シトリンに乱暴するな』

「してねぇよ」


 冷たい瞳で、ヒューリは剣を見下ろした。

 普段の落ち着いた口調や態度とは全く違う、粗野な様子に双子は怯えている。


『そ、外だ。ツァイは象を助けに行ったのだ』

「どこに」

『知らぬ。この神殿のどこに象を避難させることのできる場所があるかなど、我らが知るはずなかろう』

「分かった」


 短く告げると、ヒューリは剣を机の上に置いた。短剣は、すすり上げるような声で泣いている。まるでオカルトだ。


 外は横殴りの雨だった。

 庭の木々は枝が風にあおられて、葉や折れた小枝が風雨に混じって、ヒューリの体にぶつかってくる。

 あっという間に全身濡れそぼり、叩きつける雨に顔が痛い。


「象を避難させられる高さと広さ……といえば、穀物庫か」


 稲光が黒い空を引き裂き、激しい雷鳴に耳が痛む。

 こんな嵐の夜に一人きりで。どれほどツァイは怯えていることだろうか。


「無茶をして……」


 神殿の敷地内にある穀物庫が、やけに遠く感じる。

 向かい風に抗いながら、ヒューリはようやく目的の建物にたどり着いた。


「ツァイさま。いらっしゃるんでしょう? 開けてください」


 ヒューリは、濡れた拳で扉を叩き続けた。


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