11 聖女の身代わり
雨に濡れたせいなのか、嵐の翌日からツァイは熱を出した。
頑健なヒューリは平気だったのだが。
「あの、薬湯でしたら私が用意しますから」
おろおろする聖女付きの侍女をよそに、ヒューリは神殿の台所で薬草を煎じていた。
鼻が曲がりそうな渋くて、えぐみのあるにおいだ。
これは蜂蜜を入れなければ、ツァイも飲みにくいだろう。
「たっぷりと甘くしてあげないとな」
ぶつぶつと呟きながら、腕を組んで土でできた鍋を睨み続けるヒューリを、侍女と巫女は遠巻きにしている。
「甘く……」
ぽつりと呟いて、ヒューリは急に頬を赤く染めた。
「なんか……なんというか……なんなんだ」
どうしたことか、急に昨夜のことを思いだしてしまった。
今朝はまだツァイに会っていないが。いったいどんな顔をすればいいのだろう。
仕事中は立場をわきまえなければならない。だがすでに、自分は素手でツァイに触れてしまった。それは穢れではないのか。
いや、触れるだけではなく……。
「ううううっ。なんで俺は……」
ヒューリは頭を抱えてしゃがみこんだ。
侍女と巫女は、さらにヒューリから距離を取り、互いに顔を見合わせている。
「着付け師、乱心したの? あれは、どうなの?」
「あの、まずそうな薬を飲まされるツァイさまも、お可哀そうに」
ぐつぐつと沸騰する鍋と、自問自答する着付け師を、彼女らは憐みの目で見つめた。鼻をつまみながら。
薬湯を運ぶヒューリは、柱廊でサドリと出会った。嵐の翌朝なので、大気は洗ったように澄みきっている。空は鮮やかなほどに青い。
象は今朝早く、マグナ・マテルの神殿へと返された。
あの巨体が見えないとなると、妙な寂しさも覚える。
サドリもそう思っているのか、浮かない表情だ。
「その薬湯、ツァイさまにですね」
「熱を出しておられる」
「……そうですか」
なぜかサドリは二歩ほど退いた。話の途中なのに。
嫌な予感に、ヒューリは顔をしかめる。これは勘だが、角盆を放り出してもヒューリの腕が届かない距離感だ。
「ツァイさまに、何の用だ」
「今日の予定を伝えに行くだけですよ」
予定という言葉に、胸の奥がざわついた。
「まさか、急遽祭儀が入ったとか言うんじゃないだろうな」
「そのまさかです。急なので信者はおりませんが」
薬湯の入った器が、かたかたと音を立てる。かろうじて角盆を落とすことがなかったのは、この薬をツァイにどうしても飲ませる必要があったからだ。
ヒューリは深呼吸した。
この前のように感情に任せてサドリを殴ったところで、何も解決しない。
ツァイ本人にも打ち明けてはいないが、ヒューリはすでに決断していた。
自らが聖女の身代わりになると。
あれはツァイがまだ五歳の頃だったから、ヒューリは二十一歳の時だ。
聖女の後継者として神殿で育てられたツァイだが、体も小さく祭儀には到底耐えられないだろうと判断された。
先代の聖女は、すでに十年の務めを終えて神殿を去った。ふた月ほど祭儀は滞り、キュベレーも信者も怒りだした。
――使えぬ聖女ならば、殺してしまえばいい。それを祭儀とすればよかろう? 聖女の代わりなどいくらでもいるのだから。
それが女神の言葉だった。
あの頃から、キュベレーは狂っていたのかもしれない。
ヒューリに女神の言葉を伝えに来たサドリの顔は蒼白で、その声は震えていた。
――信じてほしい。女神は、そのような愚かしい凶暴なことを、本心から望んでいるのではないと。
心ここにあらずといった様子で、何度も何度もサドリはその言葉を繰り返していた。
あれは、ツァイを逃がさないためだったのだろうか。
聖女の着付け師であるヒューリは、可愛い盛りに育ったツァイを犠牲にすることはできなかった。
親に売られたツァイは、いつもヒューリの後を追いかけていた。
だが、優しい声をかけることは、着付け師である自分には許されていない。そして聖女であるツァイがいつまでも、責務を果たさない訳にはいかない。
――ならば、この自分が聖女の身代わりとしてキュベレーに血を捧げよう。
せめてツァイが月に一度の祭儀に耐えられるようになるまで。
そしてヒューリは神殿の基壇の前で、体を切りつけられた。
――着付け師であるあなたが、犠牲を払う必要はないのだ。
ヒューリの背を鞭打ち、手を切りつけたのはサドリだった。
おとなしかった同級生は、唇を噛みしめながらヒューリを傷つけた。
ふさがらぬ傷に白い手袋は赤く染まり、何枚も捨てるしかなかった。
聖なる儀式と理解はしていても、とてつもなく汚らしいことを強いられている気がして。
あどけない笑顔で花を差し出してくるツァイの顔を、まともに見ることができなかった。
手をつなぎたいと伸ばしてきた小さなツァイの手。
触れられた箇所の傷が開き、手袋が血に染まっていく。
そんな様子を知られたくなくて、あの子の手をふり払いもした。
着付け師と触れあうことが穢れなら、血に染まり狂乱の場で見世物のように鞭打たれる自分は、不浄そのものだ。
なのにその穢れをもたらすのは、女神だという矛盾に困惑する。
こんな信仰は廃れてしまえばいいと、何度願ったことだろうか。
◇◇◇
「また、あなたが聖女の身代わりとなるのですか」
ヒューリの決心に、サドリは気付いた。
「過去にもそうだった。前例がないわけではないだろう? あとで神殿に行く」
まだ薬湯からは湯気が立っている。冷めるとよけいに渋みが増して飲みにくいから、早くツァイに届けなければ。
ツァイの部屋に入ったヒューリは、いつものように手袋をはめた。今更という気もするが。
「にがっ……あまっ」
ベッドに上体を起こしたツァイは、薬湯を口に含んで顔をしかめた。相当まずいのか、眉間だけではなく口の横にも皺を刻んでいる。
その顔がおかしくて、ヒューリは笑ってしまった。
「ひどい。笑うなんて」
「申し訳ございません、つい。ツァイさまが可愛らしくていらっしゃるから」
仕事中は丁寧な口調を心がける。ツァイも了承しているのか、この件に関しては不満を口にしない。
「ツァイさま?」
「な、なんでもありません。見ないでください」
急にツァイが背中を向けてしまった。
『ねーねー。なんで顔が真っ赤なの?』
『相当熱が高いのであろう。大変よのう』
「ち、違うの。いえ、違わないけど」
アメトリン達に指摘され、ツァイは慌てて薬湯を口に含んだ。そのあまりの苦さと渋さとえぐみに、肩を震わせている。
「ゆっくりとお休みください。俺は用事がありますから、今日はもう来られないと思います。何かあれば侍女に申し付けてください」
「ヒューリ?」
「では」
ツァイの瞳が不安そうに揺らぐ。それを見ていられなくて、ヒューリは慌てて一礼した。




