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愚息と体が入れ替わった王ですが、どうやら我が国は崩壊寸前らしい  作者: あずきまんま
第1部:裏からの反撃と陣営構築編

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第9話:国庫の防衛戦

翌朝。


王宮の会計院に、慌ただしい足音が響いていた。


窓の外はまだ薄闇が残り、蝋燭の灯りが帳簿の山を黄色く照らしている。


羊皮紙とインクの匂いが、狭い室内に染みついていた。


財務卿エドワード・グランヴィルは、分厚い帳簿を抱えたまま、廊下を足早に進んでいた。


眉間の皺が、ここ数日で一層深くなっている。


「陛下が、国庫より直接、金貨五千枚の払い出しを命じられました」


背後からついてくる若い書記官が、声を震わせながら報告する。


「五千……」


エドワードの足が止まった。


「大祝宴のため、と」


「今すぐにか」


「はい。今日中に、と」


エドワードは、天を仰ぎたい衝動を堪えた。


新税の件は、法の手続きでまだ時間を稼げている。


施行までの二十日は、いまだ半分も過ぎていない。


だが、これは新税の話ではない。


すでに国庫にある金を、直接引き出せと言っているのだ。


(待ちきれなくなったか)


「止める手立ては」


若い書記官の問いに、エドワードはしばし黙り込んだ。


やがて、記憶の奥から、ある古い規定を引っ張り出す。


「……ある」


王太子府。


執務室では、アルベルトが書類に目を通し、向かいでエレノアが別の帳面を検めていた。


執務室に飛び込んできたエドワードの顔を見て、アルベルトはすぐに異変を悟った。


「殿下、火急の用件でございます」


エドワードは扉を閉めるなり、声を潜めた。


「国王陛下が、国庫より金貨五千枚の即時払い出しを命じられました」


アルベルトは、握っていたペンを静かに置いた。


「五千枚……新税を待ちきれなんだか」


「おそらくは。新税の施行には、まだ十日以上かかります」


「ならば、既にある蓄えを直接崩そうという算段か」


「そういえば」


アルベルトが眉を寄せる。


「あの日の朝、父上が出された『国庫から一万金貨を拠出し、三日三晩の祝宴を開く』という触れは、どうなった」


エドワードは、ばつが悪そうに目を伏せた。


「実は、あの時も同様のお指図がございました。ですが、あまりの混乱で、どの部署も動けなかったのです」


「動けなかった、とは」


「陛下が朝から重臣解任の触れを出され、続けてグラナダへの国書、さらに祝宴のご命令と、立て続けでございましたので。誰も、手配にまで手が回りませんでした」


「それで、沙汰止みになったと」


「はい。国王陛下ご自身も、その後は新税のお話に移られ、以前のご命令には触れられませんでした」


アルベルトは、短く息を吐いた。


「忘れておられるのだろう」


「恐らくは」


「今度は、忘れずに掴みにきたというわけだな」


「はい。ですが、一つだけ手立てがございます」


エドワードは、帳簿の間から一枚の古い羊皮紙を取り出した。


黄ばんだ紙面に、達筆な筆致で古い条文が記されている。


「先王の御代に定められた、王室財宝規約です」


アルベルトの視線が、条文へ落ちる。


「金貨三千枚を超える国庫からの払い出しには、国王の印に加え、王妃の副印を要する、と」


「王妃の副印……」


「後継の王が財政を私することのないよう、先王が定められたと伺っております」


「これまで、この規約が使われたことは」


アルベルトの問いに、エドワードは首を振った。


「記録にございません。先王の御代より、一度も」


「つまり、埃を被った条文だったわけか」


「はい。……正直、私も帳簿の底から探し出すのに、半刻ほどかかりました」


アルベルトの口の端に、かすかな笑みが浮かんだ。


(父上らしい)


内心で呟く。


「殿下……恐れながら」


エドワードが声を落とす。


「王妃陛下がこの規約に基づいて副印を拒めば、払い出しは止まります。ですが、陛下のご機嫌を著しく損ねるかと」


「案ずるな」


アルベルトは立ち上がった。


「母上には、わしから伝える」


「私は、会計院へ参ります」


エレノアが立ち上がった。


「エドワード卿の後ろ盾に、公爵家の名を添えます。会計官たちだけでは、王命に逆らう勇気を持てぬでしょうから」


「頼めるか」


「陛下がグレイソン将軍たちにされたことと、同じです。……信じるに足る後ろ盾を、示すだけです」


アルベルトは、短く頷いた。


半刻後。


会計院の一室では、エレノアが会計官たちを前に、静かに、しかし揺るがぬ声で告げていた。


「規約に従っただけで、罰せられることはありません。もしどなたかが咎められるようなことがあれば、公爵家が後ろ盾になります」


会計官たちの間に、目に見えて安堵が広がった。


震えていた若い書記官の肩から、力が抜けていく。


離宮。


ヴィクトリアは、卓上に広げられた同じ条文を、静かに指でなぞっていた。


「懐かしいこと」


「知っていたのか」


「もちろんです。婚礼の折に、先王陛下ご自身から教えていただきました」


ヴィクトリアの唇に、薄い笑みが浮かぶ。


「『息子が愚か者になった時のための、最後の楔だ』と、笑っておいででした」


アルベルトは、しばし言葉を失った。


「父上は、まさかこの日を予見して……」


「予見ではなく、覚悟でしょう」


ヴィクトリアは扇を閉じた。


「どの家の子も、いつか道を誤ることがある。王家とて例外ではない、と」


ヴィクトリアは、条文の端に触れた指を止めた。


「あの方は、まさかこの条文を使う日が来るとは、思っていなかったでしょうけれど」


その声に、わずかな寂しさが滲んだ。


アルベルトは、何も言えなかった。


卓の端に控えていたエレノアが、口を開く。


「ですが、王妃陛下。副印を拒めば、陛下は激しくお怒りになります。理由をどう説明されるおつもりですか」


「事実を申します」


ヴィクトリアは即答した。


「グラナダとの緊張が続く中、軍への備えを最優先すべき時に、祝宴へ大金を投じるのは危険だと」


「北部の冷害も、まだ癒えておりません」


エレノアが続けた。


「税を重くしながら、王自ら散財なさるとなれば、貴族どもの不満に火をつけるようなものです」


「ガーディナー侯爵たちか」


アルベルトが低く言う。


「あの者たちの嘆願書が、ちょうど各地から集まり始めています」


エレノアが手元の書類を示した。


「もし国王陛下が浪費なさっている事実が広まれば、彼らの言い分に、さらなる正当性を与えることになります」


ヴィクトリアが頷いた。


「ならば、私が拒む理由は、山ほどありますね」


「そういえば」


エレノアがふと声を落とした。


「グレイソン将軍たちは、静かにしておられます」


「約束は、守っているようだな」


アルベルトの声に、わずかな安堵が滲んだ。


「今のうちに、この一件で恩を売っておくのも悪くない」


国庫の扉の前。


重厚な鉄の扉には、二つの錠が並んでいた。


冷えた石壁に、松明の炎が揺れる影を映していた。


錆と油の匂いが、地下特有の湿った空気に混じっている。


一つは国王の印、もう一つは王妃の印でなければ開かぬ仕掛けになっている。


「開けろ。俺が国王だぞ」


アデルが苛立たしげに命じる。


会計官は、震えながらも首を横に振った。


「畏れながら、王妃陛下の副印がなければ、この錠は……」


「うるせぇ、力ずくで壊せ!」


「そ、それは……先王の御代より、王家の宝を守る最後の砦として……壊すことすら、法に触れます」


アデルは扉を蹴りつけたが、鉄はびくともしなかった。


痛みに顔をしかめ、片足で跳ねる。


周囲に控えていた衛兵たちが、そっと視線を逸らした。


「くそったれが……!」


その日の昼。


王妃の居室に、荒々しい足音が近づいてきた。


扉が乱暴に開け放たれる。


「おい! なんで判を押さねぇんだ!」


アルベルトの身体を持つアデルが、怒鳴りながら踏み込んできた。


後ろには、青ざめた顔の会計官が控えている。


「行儀のなっていないこと」


ヴィクトリアは、椅子から立ち上がりもせず、静かに応じた。


「王たる者が、そのような声を張り上げるものではありません」


「うるせぇ! 金を出せって言ってんだよ!」


「理由をお聞かせください」


「祝宴のためだって言ってんだろ!」


「その祝宴のために、民へ重い税を課したのは、どなたでしたか」


アデルの喉が、詰まったような音を立てた。


「税と祝宴は別だろうが!」


「別ではございません。同じ国庫から出るものです」


アデルの勢いが、わずかに止まる。


「そ、それとこれとは……」


「同じことです」


ヴィクトリアの声は、氷のように冷たかった。


「グラナダとの国境が、いつ火を噴くか分からぬこの時に、国庫を空にする愚を、母として看過できません」


「愚って……お前、俺に向かって」


アデルの声が、初めて上擦った。


かつて母に甘え、叱られれば口を尖らせるだけで済んだ日々の記憶が、その顔に一瞬よぎったのかもしれない。


「あなたに向かって、当然のことを申しております」


アデルの顔が、屈辱で赤く染まった。


「じゃあ、いつなら判を押すんだよ!」


「宝物庫の品を売ればいいだろ! 金貨に換えれば済む話だ!」


「それも、同じ規約の下にあります」


ヴィクトリアは、扇の先で条文の一行を示した。


「王家の宝物にも、王妃の副印が必要と定められています」


アデルの顔が、みるみる赤黒く染まっていった。


「グラナダとの一件が片付き、冷害の被害が癒えた時。それまでは、一枚たりとも」


「ふざけんな……!」


アデルは拳を震わせたが、それ以上の言葉を継げなかった。


母の瞳の奥に、有無を言わさぬ何かがあることを、本能で感じ取っていたのかもしれない。


「覚えてろよ……!」


捨て台詞を残し、アデルは踵を返した。


扉が、乱暴に叩きつけられる。


静寂が戻った部屋で、ヴィクトリアは小さく息を吐いた。


「お見事です」


陰から現れたエレノアが、静かに言った。


「……疲れました」


ヴィクトリアは、初めて肩の力を抜いた。


扇を持つ指先が、わずかに震えている。


実の息子へ向けた言葉の重みを、誰よりも彼女自身が感じていた。


同じ頃。


自室で、灰衣の男からの報告を受けていた者がいた。


ジュリアンである。


母が息子に――否、王に――真っ向から逆らったという報せを、彼は静かな笑みで聞いていた。


(母上まで、か)


心の中で呟く。


父上、兄上、そして母上まで。


気づけば、この王宮の要所という要所に、見えない糸が張り巡らされている。


財務卿。将軍たち。そして今、王妃までもが。


一枚岩だったはずの盤面が、いつの間にか、兄を中心に組み変わり始めていた。


(誰が、糸を引いているのか)


答えは、もう半ば分かりかけている。


それでも、確証がなければ動けない。


焦る必要はない。


焦れば、獲物に気取られる。


(もう少しだけ、泳がせておこう)


「面白い」


誰にともなく呟き、ジュリアンは踵を返した。


懐の革袋が、歩みに合わせて微かに揺れた。


夕刻。


王太子府。


「ひとまず、国庫は守られました」


エレノアの報告に、アルベルトは深く息を吐いた。


「母上のおかげだ」


「陛下のご準備のおかげでもあります。財務卿を、早くから味方につけておられた」


アルベルトは、窓の外を見た。


王都の空に、茜色が滲み始めている。


「だが、これで終わりではない」


「はい」


「あの男は、金を諦めはしない。次はどこから引き出そうとするか」


「宝物庫の装飾品を売り払う、という手もあります」


エレノアが眉を寄せた。


「王家の威信に関わることですが、あの方が躊躇うとは思えません」


「あり得るな」


アルベルトは苦い顔をした。


「貴族からの借り上げ、あるいは……」


エレノアは、窓辺へ歩み寄った。


「今日一日で、ずいぶん敵を作りましたね、私たち」


「今更だ」


アルベルトは、短く笑った。


「初めから、味方は数えるほどしかおらぬ」


「増やしましょう、これから」


「そういえば」


アルベルトがふと思い出したように言う。


「バルトの容態は」


「変わらず、意識は戻っておりません」


エレノアの表情が曇る。


「あの一件も、まだ何一つ終わっていないのですね」


エレノアの声に、疲れの中にも芯の強さがあった。


その時、扉が叩かれた。


「失礼いたします」


入ってきたのは、旅装のままの伝令だった。


泥に汚れた外套からは、長距離を駆けてきたことが見て取れる。


馬を乗り継ぎ、休みなく駆けてきたのだろう。


息はまだ整っていなかった。


「グラナダより、火急の書状にございます」


アルベルトとエレノアの視線が、同時に強張った。


差し出された書状には、見覚えのある封蝋。


だが、その色が、これまでとは違っていた。


赤ではなく、黒。


「これは……」


エレノアの声が、かすかに震えた。


アルベルトは、封を切る指に力を込めた。


国庫の危機を凌いだ安堵は、一瞬で消え去った。


新たな嵐が、国境の向こうから迫っていた。


(第10話「グラナダからの最終通告」へ続く)



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