第10話:グラナダからの最終通告
執務室の空気が、張り詰めていた。
エレノアの視線が、アルベルトの手元に注がれている。
アルベルトは、封を切った。
羊皮紙の擦れる音が、やけに大きく響いた。
中から現れたのは、一枚ではなく、二枚の紙だった。
一枚目は、見慣れた書式の正式な国書。
だが、まだ開いていない。
先に目を通したのは、小さく折り畳まれた二枚目、私信めいた紙片だった。
『王太子殿下へ。正式な国書が届く前に、これだけはお伝えしたく』
差出人の名はない。
だが、筆跡には見覚えがあった。
エレノアが息を呑む。
「あの書記官の……」
何度か、エレノアの侍女を介して言葉を交わしてきた相手だった。
顔も知らぬまま、互いの国の平和だけを願って文を交わしてきた。
「ああ」
アルベルトは頷き、続きを読んだ。
『グラナダ国王陛下は、これ以上の猶予をお認めになりません。正式な国書は、本日中に王宮へ届けられます。内容は――謝罪なくば、三日後に開戦』
紙を持つ指に力がこもった。
『陛下の御決断を、心よりお祈り申し上げます』
それだけだった。
「三日……」
エレノアの声が掠れた。
アルベルトは、もう一枚――正式な国書の封を切った。
紙面に並ぶ流麗な文字を、目で追う。
大使追放への謝罪要求。
関税三倍への撤回要求。
そして最後の一文。
『以上の非礼につき、三日以内に正式な謝罪と撤回なきときは、我が軍は国境を越える』
末尾には、グラナダ国王自らの署名。
偽りようのない、本物の重みだった。
卓上に置かれた国書の縁が、燭台の炎を受けて鈍く光っている。
エレノアが、その一文をもう一度読み返した。
「三日……国境まで早馬で一日。往復だけで二日は消えます」
「実質、動ける猶予は一日あるかないかということか」
「謝罪……」
アルベルトは低く呟いた。
「あの男に、それができると思うか」
エレノアは答えなかった。
答える必要もなかった。
王太子府。
半刻後には、ヴィクトリアも呼び出されていた。
三人が囲む卓の上に、国書が広げられている。
「三日」
ヴィクトリアが繰り返した。
「短すぎます」
「向こうにとっては、十分すぎる猶予のつもりだろう」
アルベルトは腕を組んだ。
「大使追放から、もう十日近く経っておる。謝罪の機会は、とうに与えられていたということだ」
「問題は、謝罪の中身です」
エレノアが国書の一文を指でなぞる。
「国王陛下ご自身の署名と、公式の書状による撤回が求められています。誰かが代わりに書いて済む話ではありません」
「あの男に頭を下げさせる……」
ヴィクトリアが扇を握る手に、力がこもった。
「想像するだけで、気が遠くなりますね」
「だが、やらねば戦になる」
アルベルトの声が、部屋の空気を引き締めた。
「冷害の年に、隣国との大戦だと。国庫はようやく持ち直したばかりだ。今、戦を始めれば、国そのものが保たぬ」
「北方の守りは」
ヴィクトリアが問う。
「後任として据えられた三名は、皆ジュリアンの息がかかった者たちだ」
アルベルトの表情が険しくなった。
「グレイソンは、解任されたままだ。実際に軍を動かせる立場にはない」
「今、あの北の守りに戦を任せられるか、正直分からぬ」
「代筆という手は」
エレノアが言いかけて、すぐに自分で首を振った。
「国王陛下の署名を、他人が真似ることは重罪です。もし露見すれば、謀反の証拠になりかねません」
「わしも同じことを考えて、同じ結論に至った」
アルベルトは苦く笑った。
「正攻法しかない、ということだ」
「正攻法で、あの子が頭が下げるでしょうか」
ヴィクトリアの声には、産み育てた者だけが知る諦念が滲んでいた。
「あの子は、負けを認めたことが一度もありません。小さい頃から」
ヴィクトリアが、静かに、しかし鋭く言った。
三人とも、しばらく答えを持たなかった。
沈黙が落ちた。
「時間がありません」
エレノアが立ち上がる。
「正式な国書が王宮へ届くのは、本日中とのことです。陛下がどう出るか、先んじて知る必要があります」
「わしが行く」
「陛下」
エレノアが呼び止める。
「もし、間に合わなかったら」
「その時は」
アルベルトは、彼女を振り返った。
「戦を止める算段を、また一から練るまでだ。諦めるという選択肢は、初めから持っておらぬ」
エレノアは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「私も、参ります」
「北方には」
ヴィクトリアが呼び止める。
「密使を。グレイソンたちに、いつでも動ける備えをさせておきましょう」
「頼む」
アルベルトは短く答え、扉へ向かった。
扉が閉まると、ヴィクトリアはすぐさまクララを呼んだ。
「北方へ、早馬を」
「文面は」
「『備えよ、ただし動くな』それだけで構いません」
クララは一礼し、足早に部屋を出ていった。
ヴィクトリアは窓辺に立ち、遠くグラナダの方角を見つめる。
三十年、この国の行く末を見守ってきた瞳に、初めて隠しきれない不安が滲んでいた。
その日の夕刻。
国王執務室。
アルベルトとエレノアが扉の外へ着いた時には、すでに室内から怒声混じりの笑い声が漏れていた。
扉番の近衛兵が、二人を見て気まずそうに目を伏せる。
「殿下……今は、あまり良い頃合いでは」
「構わぬ。通せ」
アルベルトは短く言い放ち、扉の隙間から中の様子を窺った。
正式なグラナダの国書は、すでに届いていた。
アデルは、それを片手に持ったまま、大声で笑っていた。
「あぁ? 謝れだと? このグラナダの田舎者どもが、いい度胸してるじゃねぇか」
傍らに控えていた老臣が、青ざめた顔で進み出た。
「陛下、これは看過できる内容ではございません。三日以内に事を収めねば、国境で戦が」
「上等だろ」
アデルは国書を机へ叩きつけた。
「向こうから喧嘩売ってきたんだ。受けて立ってやるよ」
「陛下、冷害の年でございます。今、戦を起こせば、民の暮らしが立ち行きません」
財務卿エドワードが、震える声で割って入った。
「知らねぇよ、そんなこと」
アデルは、財務卿の言葉を鼻先で笑い飛ばした。
法務卿セルジュも、震える声で進み出た。
「陛下、宣戦布告には正式な手続きが……」
「またそれかよ!」
アデルが机を叩く。
「お前らはいつもいつも、手続きだ法だとうるさいんだよ! 俺は王だぞ!」
セルジュは、深く頭を下げたまま、それ以上何も言えなかった。
長年国政を支えてきた老臣の背が、その瞬間、ひどく小さく見えた。
アデルは鼻を鳴らした。
「勝てばいいんだろ、勝てば」
「陛下……!」
「近衛と北方の軍を動かせ。先に叩き潰してやる」
軍務卿と思しき壮年の男が、顔面蒼白のまま立ち尽くしていた。
誰も、その命令に「はい」とは答えられずにいる。
アルベルトの喉が、干上がるように渇いた。
(間に合わなんだ)
これ以上見ていても、状況は悪くなるだけだった。
アルベルトは、拳を握ったまま扉から離れた。
エレノアが、静かに隣へ並ぶ。
「陛下」
「今は何も言うな」
アルベルトは低く遮った。
「頭を冷やす時間がいる」
廊下を数歩進んだところで、背後から声がかかった。
「兄上」
囁くような声だった。
振り向くと、ジュリアンが穏やかな顔で立っていた。
「面白いことになりましたね」
「ジュリアン、お前……」
「私は、何もしておりませんよ」
ジュリアンは両手を軽く広げた。
「ただ、父上がお決めになったことです」
その瞳の奥に、隠しきれない愉悦の色があった。
「兄上は、戦がお嫌いですか」
ジュリアンが、首を傾げるように問う。
「くだらぬ問いだ」
アルベルトは低く答えた。
「戦とは、勝っても負けても民が死ぬものだ。好き嫌いで語るものではない」
ジュリアンは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、いつもの笑みへ戻る。
「相変わらず、達観しておられる」
ジュリアンは軽く一礼し、静かに去っていった。
その足音が完全に消えてから、エレノアが小さく息をついた。
「どう思われますか」
「あやつは、この戦を望んでいる」
アルベルトの声は、平坦だった。
「国が乱れれば乱れるほど、あやつにとっては好都合だからな」
エレノアが、わずかに眉を寄せる。
「国庫を守ったばかりだというのに」
「休む暇もないな」
アルベルトは、自嘲するように笑った。
「金の次は、戦か」
アルベルトは拳を握りしめた。
遠く、執務室の中からは、まだアデルの喚き声が漏れ聞こえていた。
「グラナダの連中に見せてやれ! この国の王がどれだけ怖いか!」
老臣たちが、なすすべもなく顔を見合わせている。
窓の外、夕闇に沈む王都の向こうに、遠くグラナダとの国境が横たわっていた。
あの土地に、何万という兵が押し寄せる光景を、アルベルトは容易く思い描けた。
焼かれる村。
逃げ惑う民。
かつて自らが守り抜いてきたはずの国境線が、今、最も脆い場所になろうとしていた。
三日後。
その言葉が、アルベルトの頭の中で鐘のように鳴り続けていた。
(第11話「暴君への諫言」へ続く)
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