第11話:暴君への諫言
鐘の音のような響きに、耳を塞いだところで、何も変わりはしない。
アルベルトは、握りしめた拳をゆっくりと開いた。
指の関節が、白く浮き出たまま、なかなか色を取り戻さない。
エレノアが、そっとアルベルトの袖に触れる。
「陛下、顔色が」
「分かっている」
アルベルトは短く答え、大きく息を吐いた。
若い身体の芯が、鈍く軋んでいる。
一晩中歩き通しの脚は、もう感覚さえ怪しかった。
執務室の奥からは、まだアデルの喚き声が漏れ聞こえていた。
近衛と北方の軍を、今すぐにでも国境へ向かわせる気だ。
新任の三名の将は、実戦の経験もろくにない。
そんな者たちを先鋒に立てて、勝てる保証などどこにもなかった。
負ければ、国境が破られる。
勝ったとしても、冷害の年に無理な遠征を重ねれば、国庫はまた底を突く。
どちらに転んでも、この国が傷つくことに変わりはなかった。
だが、今は休んでいる時ではない。
(正面から止めても、あやつは意地を張るだけだ)
これまで幾度となく思い知らされてきたことだった。
法も道理も、あやつには届かない。
届かせようとするだけ、こちらの体力を無駄に削るだけだ。
届くとすれば――。
恐怖か、欲か。
そのどちらかしかない。
「エレノア」
アルベルトは低く言った。
「わし一人で、あやつに会ってくる」
エレノアが目を見開く。
「今、ですか」
「今しかない」
「危険です。今の陛下は、誰の言葉も聞く耳を持っておられません」
「誰の言葉も、な」
アルベルトの口元に、苦い笑みが浮かんだ。
「だが、わしの言葉は、少し違う」
エレノアは、しばし押し黙った。
その瞳が、アルベルトの顔を探るように見つめる。
何をするつもりか、聞かされずとも察したのだろう。
アルベルトは、廊下の壁から身体を起こした。
「わしは、あやつの弱さだけは、誰よりもよく知っている」
国を見ることにかまけ、息子を見てこなかった。
皮肉にも、その負い目が、今は使い道になる。
その声には、自嘲と、わずかな哀しみが同居していた。
「その間に、私は」
エレノアが、静かに言った。
「グラナダの書記官への糸を、繋いでおきます。事がどう転んでも、動けるように」
「頼む」
「……お気をつけて」
エレノアは、深く頭を下げた。
「案ずるな」
アルベルトは、短く答えた。
二人は、その場で左右に分かれた。
エレノアの足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。
一人になったアルベルトは、夜の回廊をゆっくりと歩き出した。
松明の灯りが、等間隔に石壁を照らしている。
昼間なら行き交うはずの侍女や官吏の姿は、今はどこにもなかった。
誰もが、王の不興を買うことを恐れて、息を潜めているのだろう。
歩きながら、これから口にする言葉を頭の中で何度も組み立て直す。
説得ではない。
誘導だ。
あやつが己の意志で選んだと思い込むように、道筋だけを整えてやる。
かつて、戦場で敵将を降伏させた時と、やり方は変わらない。
違うのは、相手が――我が子だということだけだった。
苦い味が、喉の奥に広がる。
それでも、足を止めるわけにはいかなかった。
半刻後。
国王執務室。
扉番の近衛兵に耳打ちすると、少しの間があってから、扉が開かれた。
室内は、燭台の灯りだけが揺れていた。
近衛兵たちは、すでに人払いされている。
酒杯を片手にしたアデルが、長椅子に足を投げ出したまま、億劫そうに顔を上げた。
「何の用だよ」
呂律のわずかに怪しい声だった。
酒精の匂いが、部屋の隅々にまで染みついている。
「陛下」
アルベルトは、扉の前で立ち止まったまま、深く頭を下げた。
恭しく。
ゆっくりと。
「此度のご決断、まことに見事にございます」
アデルの眉が、わずかに動いた。
「あ?」
警戒と、わずかな期待の色が、その顔に浮かぶ。
「グラナダごとき田舎国に、頭を下げるどころか、先んじて叩き潰す。臆病者には到底なし得ぬ、王者のご采配かと」
アデルの口元が、緩んだ。
「わ、分かってるじゃねぇか」
酒杯を弄びながら、鼻を鳴らす。
「あの陰気な老臣どもとは大違いだ。お前も少しは物が分かるようになったな」
アデルは満足げに笑い、長椅子の背に深くもたれかかった。
「昔のお前は、俺の顔を見るだけで、辛気臭ぇ説教ばかりしてきたもんだがな」
「今宵は、そのつもりはございません」
アルベルトは、目を伏せたまま、静かに答えた。
「私はただ、陛下の勝利が、誰にも汚されぬものであってほしいだけでございます」
アルベルトは、もう一歩、部屋の中へ踏み込んだ。
「ですが」
声を、わずかに低くする。
「一つだけ、惜しいことがございます」
「惜しい……?」
アデルの機嫌が、目に見えて陰った。
長椅子の上で、身体がわずかに起き上がる。
「北方の守りを預かる三名は、まだ任命されたばかり。実戦で兵を率いたことのない者たちです」
「そんなもん、やらせりゃ分かるだろ」
「ええ。ですが、もし万が一、緒戦でしくじれば――」
アルベルトは、あえて言葉を切った。
室内の空気が、わずかに張り詰める。
「陛下の輝かしいご決断が、『新米の将に任せた見切り発車』と、後々まで語られることになりましょう」
アデルの顔から、笑みが消えた。
握っていた酒杯が、卓へ乱暴に置かれた。
中身が跳ね、木目の上に赤い染みを作る。
「舐めた口叩いてんじゃねぇぞ、お前」
低く、凄みを込めた声だった。
その声に、アルベルトはあえて怯まなかった。
代わりに、もう一段、声を沈めた。
昔、我が子を叱りつけてきた時と、同じ響きで。
「陛下」
その一言だけで、アデルの肩が、びくりと揺れた。
理由など、本人にも分からなかっただろう。
だが、目の前の「自分の身体」の奥に、何か別のものの気配を感じ取ったように、アデルは一瞬だけ口を噤んだ。
長椅子の上で、握った拳が所在なく動く。
「な、なんだよ……脅すつもりか」
「滅相もございません」
アルベルトは静かに続けた。
「私は、陛下の勝利に泥を塗られたくないだけです」
「勝利に、泥……」
「先王陛下は、生涯において、負け戦を一度もなさりませんでした」
アルベルトは、あえて他人事のように語った。
「常に、最も勝てる形を整えてから、動かれた。それゆえに『不敗の王』と呼ばれたのです」
アデルの眉が、ぴくりと動いた。
「先王、ね」
その響きに、苦い棘があった。
「陛下がもし、先王陛下すら成し得なかった圧倒的な勝利を収められれば、誰もが陛下を、先王以上と讃えましょう」
「……以上、だと?」
アデルの目に、初めて強い興味の色が浮かんだ。
「今、性急に叩けば、それはただの『先王のやり方をなぞっただけの勝利』にしかなりません」
「わずか数日、お待ちいただければ、それで済むことです」
「数日……?」
アデルの目が、細くなる。
酔いの奥で、算段めいた光が揺れた。
「陛下、国庫はつい先日、ようやく守り抜いたばかり。この状態で戦をお始めになれば、勝ったところで、祝宴一つ満足に開けますまい」
アデルの表情が、分かりやすく動いた。
祝宴、という言葉に。
「畏れながら、陛下がお望みなのは、ただの勝利ではないはずです」
アルベルトは、そこで初めて微笑んだ。
「グラナダの田舎者どもが震え上がるほどの、盛大な祝宴つきの勝利かと」
アデルは、しばし黙り込んだ。
空になった酒杯の底を、指先でなぞっている。
やがて、鼻を鳴らす。
「……で?」
「あと三日。北方の将に兵をまとめさせ、国庫にも金貨を戻す。それだけの猶予さえあれば、陛下の勝利は誰にも文句を言わせぬものになりましょう」
「三日、か」
アデルは空の酒杯を弄びながら、天井を睨んだ。
長い沈黙が落ちた。
蝋燭の炎だけが、小さく揺れている。
「……面倒くせぇな」
アデルが吐き捨てた。
「今すぐ叩き潰した方が、はえぇだろうが」
アルベルトの心臓が、一瞬だけ跳ねた。
ここで退けば、すべてが水泡に帰す。
「陛下」
アルベルトは、あえて静かに言葉を重ねた。
「早さを誇れるのは、小者だけです」
「……あ?」
「本物の強者は、急ぎません。急がずとも、誰も逆らえないと知っているからです」
アデルの喉が、ごくりと動いた。
言葉の意味を、酔った頭でゆっくりと咀嚼しているのが分かった。
長い沈黙が、再び落ちた。
「……いいだろう」
ようやく、アデルは頷いた。
「三日待ってやる。だが、それ以上は待たねぇぞ」
「御意にございます」
アルベルトは深く頭を下げた。
顔を伏せたまま、詰めていた息を、静かに吐き出す。
「近衛と北方の軍、進発は取りやめだ。三日、待機させとけ」
アデルは面倒くさそうに命じた。
手を振り、追い払うような仕草をする。
「かしこまりました」
アルベルトは踵を返し、執務室を後にした。
扉の閉まる音が、背後で低く響いた。
廊下に出た瞬間、詰めていた息が、一気に漏れた。
扉を閉めた瞬間、廊下の暗がりに戻っていたエレノアが、駆け寄ってきた。
「陛下……」
「延期させた」
アルベルトは短く答えた。
「三日だけだが」
エレノアの表情に、安堵の色が広がった。
だが、それも一瞬だった。
「三日で、和平の道筋をつけねばなりません」
「分かっている」
アルベルトは、廊下の壁に手をついた。
膝が、わずかに震えている。
一晩中働き詰めた若い身体は、とうに限界を訴えていた。
「陛下……!」
「大事ない」
アルベルトは首を振った。
だが、その声にも、隠しきれない疲労が滲んでいた。
(あやつを止められるのは、恐怖と欲だけか)
内心で、自嘲する。
かつて、道理と情で国を治めてきたはずの自分が、今は脅しと餌でしか、我が子を――いや、あやつを、動かせない。
その事実が、刃のように胸を刺した。
エレノアは、何も言わなかった。
ただ、アルベルトの腕を、そっと自分の肩へ回した。
支えるというより、寄り添うような仕草だった。
「王妃陛下にも、お伝えせねばなりません」
「ああ」
「ですが、その前に」
エレノアの声が、わずかに硬くなった。
「少しだけでも、お休みください。このままでは、陛下のお身体がもちません」
「休んでいる暇があるものか」
アルベルトは、壁から身を離そうとして、よろめいた。
エレノアが、すかさずその身体を支える。
「三日という猶予は、陛下が身体を壊しては意味がありません」
「……そうだな」
アルベルトは、珍しく素直に頷いた。
それだけ、疲労が限界に近かったということでもある。
「少しだけ、休む」
「書記官への糸は、すでに繋ぎました」
エレノアが続けた。
「あとは、向こうからの返事を待つばかりです」
「頼む」
アルベルトは、目を閉じた。
瞼の裏に、赤黒い蝋燭の炎が、まだちらついている。
同じ頃。
ジュリアンの私室。
灰衣の男が、片膝をついたまま報告を終えた。
「進発の取りやめ、だと?」
ジュリアンの指先が、机の上で止まった。
「陛下ご自身のお言葉で?」
「はい。理由は、明らかにされておりません」
ジュリアンは、しばらく黙り込んだ。
口元の笑みだけは、崩れないままだった。
だが、瞳の奥から、温かみが消えていく。
「兄上が、何か吹き込んだか」
誰に問うでもない呟きだった。
灰衣の男は、答えを持たなかった。
「調べろ。誰が、いつ、陛下と言葉を交わしたか」
「御意」
灰衣の男が、音もなく姿を消す。
一人残されたジュリアンは、窓辺に立ち、暗い庭を見下ろした。
「たった三日、か」
囁くように呟く。
「その三日で、何を仕込むおつもりです、兄上」
月明かりが、その横顔に薄く影を落としていた。
王太子府、奥の間。
知らせを受けたヴィクトリアが姿を見せたのは、それからほどなくのことだった。
外套も脱がぬまま、長椅子に横たわるアルベルトの傍らへ膝をつく。
「三日、稼いだそうですね」
「かろうじて、な」
アルベルトは、目を閉じたまま答えた。
「脅しと、餌でだ」
ヴィクトリアは、しばらく何も言わなかった。
扇の先で、そっとアルベルトの前髪を払う。
「それでよいのです」
静かな声だった。
「あの子を言葉で説き伏せられる者など、この宮廷のどこにもおりません」
「褒められた話ではない」
「褒めてなどおりません」
ヴィクトリアは、わずかに目を伏せた。
「ただ、あなたにしかできないことだった、というだけです」
その言葉に、アルベルトは何も返さなかった。
代わりに、深く息を吐く。
眠気が、鉛のように瞼へ落ちてきていた。
「エレノアは」
「すでに動いております」
ヴィクトリアが答えた。
「明日には、書記官からの返事が届くはずです」
「三日……」
アルベルトは、意識の縁で呟いた。
「短いようで、長い三日になりそうだ」
窓の外、夜はすでに深い。
だが、三日という猶予は、確かに手に入れた。
次に動くのは、エレノアの番だった。
(第12話「秘密外交の使者」へ続く)
お読みいただきありがとうございました!
面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。




