第8話:忠臣への密書
王太子府の門をくぐると同時に、アルベルトは御者の手も借りず地面へ降り立った。
若い脚がわずかにもつれる。
奥歯を噛み、その場に踏みとどまった。
(倒れている暇はない)
背後で、エレノアの馬車も同時に止まる。
馬たちの荒い息と、車輪の軋みだけが、朝靄の残る庭に響いていた。
「陛下」
追いついてきたエレノアの声に、振り返らず答えた。
「紙を用意させる。急げ」
執務室に飛び込むと、机の上はすでに昨日の書類で埋まっていた。
アルベルトはそれを片腕で払いのけた。
羊皮紙が、音を立てて床へ散らばる。
インクの染みが、灰色の絨毯に小さく広がった。
「殿下……!」
側侍が慌てて拾おうとするのを、片手で制した。
「後だ。それより、紙とペンを三人分」
「さ、三人分でございますか」
「グレイソン将軍。そして、共に解任された残る二名の将だ」
側侍の顔が強張った。
「殿下、それは……国王陛下がお怒りになられた方々では」
「知っている」
アルベルトは短く答え、椅子に腰を下ろした。
インク壺の蓋を、震える指で開ける。
若い身体は、まだ一晩の疲労を引きずっていた。
瞼の裏がひどく熱い。
だが、手だけは止めない。
窓の外では、鐘楼の鳥たちが騒がしく飛び立っていく。
どこか遠くで、荷馬車の車輪が石畳を叩く音がした。
王都は、いつも通りに動いている。
その平穏がいつまで続くのか、アルベルトには分からなかった。
エレノアが向かいに座り、書類の山から白紙を選び出す。
「時間は」
「昼までに書き上げる」
「ジュリアン殿下の推挙は、午後だと」
「だからこそ、それより先に届けねばならぬ」
アルベルトはペン先をインクへ沈めた。
一枚目の紙に、まず宛名を記す。
『グレイソン将軍へ』
そこで、手が止まった。
何を書けばいいのか。
慰めか。命令か。それとも――。
「陛下」
エレノアが静かに言った。
「将軍が欲しいのは、慰めの言葉ではないと思います」
「では何だ」
「信じるに足る理由です」
アルベルトは顔を上げた。
エレノアの瞳は、迷いなく彼を見ていた。
「王太子アデルの言葉など、今の将軍には響きません。……ですが」
「わしにしか、書けぬことがあると」
「はい」
アルベルトはしばらく黙り、記憶を辿った。
三年前。
グラナダとの国境で、小規模な衝突が起きた年だ。
グレイソンは寡兵で北の砦を守り抜き、援軍が来るまで一歩も退かなかった。
戦の後、酒宴の席で彼はひとつだけ愚痴をこぼした。
「陛下は、あの時わしに退けと仰った。だが、退けば砦の民が守れなかった」と。
そして続けた。
「陛下は、あとになってわしを叱らなかった。ただ一言、『よく生きて戻った』とだけ仰った。あれだけで、わしは十分だった」と。
アルベルトはペンを握り直した。
『三年前、砦を退けと命じた王を許せ。あの時、わしは兵を惜しみ、そなたは民を選んだ。結果としてそなたが正しかった。あの夜、酒杯を交わしながら伝えた言葉を、わしは忘れておらぬ。――よく生きて戻った。今も、その言葉に嘘はない』
『これより先、そなたの忠義がどこへ向かうかは、そなた自身が決めよ。ただ、性急に事を構えるな。牙を隠し、時を待て。真に国を憂う者ならば、それができるはずだ』
署名はしなかった。
代わりに、王太子の紋章ではなく、幼い頃から使っていた個人の印――剣と麦穂を象った小さな判を捺す。
政務では一度も使ったことのない印だった。
エレノアがそれを見て、小さく息を呑んだ。
「その印は」
「わしが十にもならぬ頃、亡き父王から譲られたものだ」
アルベルトは静かに答えた。
「アデルは、存在すら知らぬはずだ」
「では、これを見れば」
「本物だと、疑わずにはいられまい」
残る二通には、より簡潔な言葉を選んだ。
一通目は、オルグレン将軍へ。
堅物で知られる古参で、規則を何より重んじる男だった。
『解任の理由なきことは、いずれ明らかになる。それまで、貴殿の律義さで軍規を保て』
回りくどい情に訴えるより、その方が響くはずだった。
もう一通は、まだ三十を出たばかりのデュラン将軍へ。
血気に逸りやすい若さを、アルベルトは知っていた。
『功を焦るな。今、貴殿が動けば、真っ先に狙われるのは貴殿自身だ』
短いが、釘を刺す一文を忘れなかった。
事実だけを記し、それでいて相手の気質を映す。
型通りの文面では、疑いを招くだけだと分かっていたからだ。
三通を書き終える頃には、日はすでに中天近くまで昇っていた。
アルベルトは羽根ペンを置き、右手を開いた。
指先が、小さく痙攣している。
「陛下、お手が」
「大したことはない」
強がりだと、自分でも分かっていた。
「これを、届けねばならぬ。だが」
「表立った使者は使えません」
エレノアが引き取った。
「私に、心当たりがあります」
「誰だ」
「厨房への納品業者です。バルトの一件を調べる過程で、口の堅い者を何人か見繕ってあります」
アルベルトは目を見張った。
「いつの間に」
「陛下がお命じになる前から、備えておりました」
エレノアの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「同盟相手ですので」
その言葉に、アルベルトも短く笑った。
だが、笑みはすぐに引っ込む。
「急げ。ジュリアンより先に」
「はい」
三通の手紙が、エレノアの手に渡った。
インクはまだ完全には乾いておらず、彼女は指先で軽く扇いで乾かした。
エレノアは手紙を油紙で包み、内側の胸元へ収めた。
「厨房の裏口から、市場へ出る荷車があります。そこに紛れ込ませます」
「見張りは」
「昼時は交代の隙があります。バルトの一件で、すでに調べ尽くしました」
アルベルトは頷いた。
「行け。わしはここで、次の手を考えておく」
「次の手、とは」
「万が一、間に合わなんだ時のことだ」
エレノアの足が、一瞬止まる。
「間に合わせます」
短く言い切り、彼女は部屋を出ていった。
扉が閉まる音を聞きながら、アルベルトは椅子へ深く沈み込んだ。
若い身体の芯が、鉛のように重い。
それでも、目だけは閉じなかった。
市場の喧騒に紛れ、荷車がひとつ、王都の裏通りを進んでいく。
積み荷は野菜と、油紙に包まれた三通の文。
荷台には土の匂いと、朝どれの葉野菜のみずみずしい匂いが混じっていた。
荷車を引く老爺は、何も知らぬ顔で鼻歌を口ずさんでいた。
見張りの兵が、一瞥もくれずに通り過ぎる。
だが、市場の角で、一人の兵が荷車を呼び止めた。
「待て。中を検める」
老爺の手が、手綱を握ったまま強張った。
荷台の野菜の下、油紙の包みまで、あとわずかな距離。
「何のための検めだ」
横から割り込んだのは、通りすがりの行商人を装ったエレノアの手先だった。
「今朝から、財務卿の使いで市場の物価を調べておりましてね。手間取らせては困りますよ」
懐から見せたのは、王太子府の紋章が入った通行証だった。
兵は一瞬迷ったが、面倒を避けるように手を振った。
「行け」
荷車は、何事もなかったように動き出す。
角を曲がったところで、老爺は初めて詰めていた息を吐いた。
荷車は、やがて三つの方角へ分かれていった。
その頃。
王宮の裏手。
グレイソン将軍の屋敷は、すでに物々しい空気に包まれていた。
門の前に立つ衛兵の数が、いつもより多い。
槍の穂先が、朝の光を鈍く弾いていた。
庭に敷かれた石畳には、まだ夜露が残り、鎧の足音がやけに大きく響く。
ヴィクトリアを乗せた馬車が着いた時、屋敷の主はまだ屋内にいた。
「王妃陛下……」
出迎えた老将軍の顔は、深い皺の奥で青ざめていた。
「解任の報せは、届いているようですね」
ヴィクトリアは馬車を降りず、窓越しに静かに告げた。
「軽挙は慎みなさい、将軍」
「ですが……」
「あなたが今、王宮へ抗議に出向けば、それこそが相手の思う壺です」
グレイソンの拳が、震えながら握られた。
「三十年、この国に仕えてまいりました。それが……『気に入らぬ顔』の一言で」
声は低く、抑えられていたが、その底には煮えたぎるものがあった。
「妻も子も、王家のために捧げてまいりました。それを、たった一言で」
背後に控えていた若い従卒が、思わず唇を噛んだ。
主の屈辱を、そのまま自分のことのように受け止めているのが分かった。
「知っています」
ヴィクトリアの声が、わずかに和らいだ。
「だからこそ、伝えたいことがあります。……もうすぐ、あなたのもとへ一通の文が届くでしょう」
「文、でございますか」
「読めば分かります」
ヴィクトリアはそれ以上を語らなかった。
馬車の窓を静かに閉じる。
「今しばらく、屋敷から動かぬように」
車輪が石畳を鳴らし、遠ざかっていった。
グレイソンは、長い間その場に立ち尽くしていた。
従卒が、そっと声をかける。
「将軍……」
「……分かっている」
老将軍は、屋敷の奥へ向かって歩き出した。
その背中には、まだ怒りと戸惑いが重く残っていた。
書斎に一人戻ったグレイソンは、届いたばかりの一通を卓上に置いた。
封を切る指が、わずかに震える。
文面を読み進めるうち、老将軍の目が見開かれた。
『よく生きて戻った』という一文に、目を閉じる。
あの夜、確かに王から掛けられた言葉だった。
侍従の耳にも入らぬ、二人きりの酒宴での一言。
「……まさか」
掠れた声が、誰もいない書斎に落ちた。
グレイソンは、しばらく文を握りしめたまま動かなかった。
同じ頃。
王宮、謁見の間。
「陛下、こちらが北方守備の後任にふさわしいと存じます」
ジュリアンは恭しく一礼し、三枚の推薦状を差し出した。
玉座に座る男――アルベルトの身体を持つアデルは、それを一瞥もせずに受け取った。
「お前が選んだんなら、間違いねぇだろ」
「恐れ入ります」
傍らに控えていた老臣が一人、わずかに眉をひそめた。
だが、誰も声を上げなかった。
逆らえば、次に狙われるのは自分の椅子だと、皆が知っていた。
「早速、任命しろ。手続きなんてどうでもいい」
「御意」
ジュリアンは深く頭を下げた。
顔を上げた時、その口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
謁見の間を辞す道すがら、ジュリアンの足取りは、いつもより軽やかだった。
懐に忍ばせた革袋の重みを、指先が確かめる。
(兄上。今度は、間に合いましたか)
囁くように、胸の内で呟いた。
夕刻。
王太子府に、一通の返書が届いた。
差出人の名はない。
だが、封を切ったアルベルトの目に映ったのは、見覚えのある無骨な筆跡だった。
『御文、確かに拝読仕った。あの夜の言葉、忘れてなどおりませぬ』
『某、性急には動きませぬ。ただし――』
『某の他に、もう二名。同じ思いの将がおること、お忘れなきよう』
アルベルトは、その一文を何度も読み返した。
「間に合ったか」
呟く声に、力が戻っていた。
だが、喜びも束の間だった。
扉が控えめに叩かれ、外套姿のヴィクトリアが入ってきた。
裾には、まだ土埃がついたままだった。
「グレイソンの屋敷は、変わった様子はありません」
ヴィクトリアは外套を脱ぎながら言う。
「衛兵の数は多いままですが、今のところ手出しはされていないようです」
「ご苦労だった」
アルベルトは、封を切ったばかりの返書をヴィクトリアへ差し出した。
目を通したヴィクトリアの表情が、わずかに緩む。
「間に合ったのですね」
「かろうじて、な」
「陛下」
エレノアが、別の報せを手に部屋へ入ってくる。
「北方守備の後任が、正式に任命されました」
「誰だ」
「ジュリアン殿下の推薦した者、三名すべてです」
アルベルトの表情から、色が消えた。
軍という盤面の駒が、また一つ、敵の手に渡った。
だが、少なくとも――。
古参の将たちの「忠義」だけは、まだこちら側に繋ぎ止められている。
「駒を失っても、心までは奪われていない、ということですね」
エレノアが静かに言った。
「それだけで良しとせねばならぬのが、業腹だがな」
アルベルトは苦く笑った。
エレノアは、それ以上を言わなかった。
代わりに、卓の上へ新しい紙を静かに広げる。
次の戦いの支度は、もう始まっていた。
窓の外、王都に日が沈んでいく。
「休む間もないな」
アルベルトは、疲れた声で呟いた。
「はい」
エレノアが、静かに頷く。
「次は、国庫です」
「国庫……」
「祝宴の費用が、いよいよ現実の数字として動き始めています」
アルベルトは天井を仰いだ。
戦うべき場所は、まだいくつも残っている。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
味方は、まだ増え続けている。
見えぬところで、少しずつ。
(第9話「国庫の防衛戦」へ続く)
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