第7話:離宮の秘密作戦会議
東の空が、ようやく橙色に染まり始めていた。
窓辺に立つアルベルトの影が、床へ長く伸びている。
「支度をいたします」
ヴィクトリアが扇を閉じ、踵を返した。
「ただし」
「分かっている」
アルベルトは頷いた。
「離宮へは、いつもの道を使わぬ」
「以前、あの場所への出入りだけで、あやつの耳へ届いたことがある」
アルベルトは苦い記憶を辿るように目を細めた。
「同じ轍は踏まぬ」
エレノアが書類を手早く束ねながら顔を上げる。
「馬車は」
「二台に分けよう」
ヴィクトリアが答えた。
「一台には侍女の衣装を着せた替え玉を。もう一台に、私たちが乗ります」
「用意周到だな」
「三年前から、その手の準備だけは怠っておりません」
ヴィクトリアの声に、わずかな苦みが滲んだ。
「息子に見張られる母親などと、想像もしておりませんでしたが」
その声に、笑いの響きはなかった。
扇を握る指先だけが、わずかに白くなっている。
アルベルトはそれに気づいたが、何も言わなかった。
言葉にすれば、傷口へ触れることになる。
母として、我が子の裏切りをどこまで信じ、どこから疑うべきか。
その線引きは、誰にも代われない。
半刻後。
裏門を出た質素な馬車が、朝靄の中を進んでいく。
紋章の入っていない、ただの黒塗りの車体。
御者は、王妃が長年信を置く老齢の従者だった。
車輪が石畳を踏む音が、規則正しく響く。
窓布の隙間から、寝静まった商家の軒先が流れていった。
パン焼き窯の煙だけが、細く朝の空へ立ち昇っている。
アルベルトは座席に深く身を沈めていた。
一晩中、立ち続け、歩き続けた身体が、鈍い重さで軋んでいる。
瞼の裏が熱い。
若い肉体は眠気に弱かった。
(情けない)
内心で吐き捨てる。
かつての自分ならば、三日三晩の遠征さえ顔色一つ変えずにこなした。
だが今、この身体は。
「顔色が優れませんね」
向かいに座るエレノアが、静かに言った。
「寝ておらぬだけだ」
「休まれますか」
「離宮に着くまでの、わずかな間だけな」
アルベルトは目を閉じた。
馬車の揺れが、意識をゆっくり沈めていく。
短い眠りの中で、夢は見なかった。
肩を叩かれる感触で、目が覚める。
「着きました」
エレノアの声だった。
窓の外には、見慣れた離宮の門柱が朝靄の中に立っていた。
離宮。
木漏れ日が敷石の上で揺れていた。
季節外れの薔薇が、庭の隅で萎れかけている。
応接室に通された三人は、扉に内側から閂を下ろした。
窓には厚い天鵞絨の帳が引かれ、外の光をわずかに遮る。
古い書物と、乾いた花の匂いが、部屋にこもっていた。
「まず」
ヴィクトリアが卓へ地図を広げる。
王都と周辺の州を記した、大きな一枚だった。
「敵は一つではありません」
指先が、地図の東部を示す。
「ジュリアンと、彼に与する貴族たち」
指が北を滑る。
「グラナダとの緊張」
そして地図の中央、王都の紋章を軽く叩いた。
「そして」
「愚息、か」
アルベルトが低く言う。
「国そのものを内側から食い破ろうとしている」
エレノアが椅子に腰を下ろした。
背筋を伸ばし、両手を膝の上で組む。
「一つずつでは、間に合いません」
「だろうな」
アルベルトは地図を見下ろした。
「同時に動かすしかない」
「まず、目先の火種から」
エレノアが指を折る。
「ジュリアン殿下の一件は、すぐに火を噴くものではないはずです。摂政の話は、国王陛下がご乱心と断じられて初めて成り立ちます」
「今のところ、陛下は乱心ではなく、ただの阿呆だと誰もが知っている」
アルベルトの口元に、皮肉げな笑みが浮かんだ。
「それは幸いですね」
「幸いなものか」
だが、否定はしなかった。
「もう一つ、忘れてはならぬものがある」
アルベルトが地図の北を指す。
グラナダの国境線が、赤い糸で縁取られていた。
「あちらは、まだ動いていない。だが謝罪も済んでおらぬ」
「国書への返答は、いまだ握り潰されたままです」
エレノアが眉を寄せた。
「陛下がお認めにならぬ限り、正式な使者は立てられません」
「あの馬鹿げた男が、素直に頭を下げるとでも」
アルベルトは吐き捨てるように言った。
「思っておりません」
エレノアは静かに答えた。
「ですから、表向きの国書とは別に、大使館付きの書記官への糸は、すでに繋いであります」
「侍女を介した、あれか」
「はい」
「返事は」
「まだ。ですが、途絶れてもおりません」
エレノアの声に、わずかな安堵が滲んだ。
「向こうも、簡単に戦を望んではいないということでしょう」
「その糸を、絶やすな」
アルベルトが低く言った。
「戦にはせぬ、という意思だけでも伝われば、時間は稼げる」
「うむ。それでよい」
「フィッツ子爵には」
ヴィクトリアが引き取る。
「近づきます。ただし、慎重に。私の名を出さぬ経路で」
「勝算は」
アルベルトが問う。
「フィッツ子爵は、元々ガーディナー侯爵に頭が上がらぬ性分だと聞きます」
ヴィクトリアは扇の先で、地図の東部を軽く叩いた。
「侯爵の目の届かぬところで、逃げ道を示してやれば、揺らぐはずです」
「逃げ道とは」
「今のうちに手を引けば、罪には問わぬという一筆」
「甘くはないか」
「甘い餌でなければ、誰も食いつきません」
ヴィクトリアは静かに笑った。
宮廷を三十年生き抜いた者だけが持つ、乾いた笑みだった。
「時間が要ります」
エレノアが続けた。
「その間に、こちらは足場を固めなければ」
「足場とは」
「軍です」
エレノアの瞳が、真っ直ぐアルベルトを見た。
「もし本当に摂政が立てられれば、次に動くのは近衛と各州の軍勢です。その時、どちらに槍を向けるかを決めるのは」
「将たちの忠義、というわけか」
「はい」
アルベルトは腕を組んだ。
「わしに忠実な将は、まだ何人か残っている」
「グレイソン将軍」
ヴィクトリアが名を挙げた。
「北方守備の要ですね」
「あの男は、三年前の国境紛争で、わしの下でよく戦った」
アルベルトの目が細くなる。
「あやつが寝返らぬ限り、軍全体は動かせぬ」
「では」
「密書を出そう」
アルベルトは即答した。
「今すぐにではない。だが、いつでも出せるよう、文面だけは整えておく」
「もう一つ」
エレノアが声を落とした。
部屋の空気が、わずかに変わる。
「入れ替わりを、元へ戻す道です」
アルベルトの表情から、皮肉の色が消えた。
「秘蔵酒の出所は、まだ分からぬままか」
「バルトが目覚めない限り、これ以上は」
エレノアは唇を噛んだ。
「ただ、王宮薬師のもとへ、それとなく探りを入れています。あの酒に使われていた白檀の香りと、木片に残った成分について」
「危険ではないか」
「表向きは、別の毒物調査ということにしています」
「用心深いことだ」
「陛下に教わりましたので」
エレノアが、ほんの少しだけ口の端を上げた。
アルベルトも、同じだけ笑った。
だが、その笑みはすぐに消える。
「元に戻る目処は」
「立っておりません」
正直な答えだった。
「それでも、続けます」
「うむ」
アルベルトは天井を仰いだ。
窓の帳の隙間から、朝の光が一筋差し込んでいる。
塵が、その光の中でゆっくり舞っていた。
「戦を止め、入れ替わりを解き、あの馬鹿から国を守る」
指折り数える。
「三つとも、一人では成せぬ仕事だ」
「だからこそ、三人です」
ヴィクトリアが静かに言った。
その声には、迷いがなかった。
エレノアが小さく息を吐く。
張り詰めていた肩から、わずかに力が抜けた。
「では、手筈通りに」
「うむ」
窓の外で、鳥が一声鳴いた。
穏やかな朝が、確かにそこにあった。
その静けさが、あとどれほど続くのか。
誰も、まだ知らなかった。
扉が叩かれたのは、ちょうどその時だった。
三人の視線が同時に扉へ向く。
「王妃陛下」
外から、押し殺した声がした。
ヴィクトリア付きの侍女だった。
「何事です」
ヴィクトリアが閂を外す。
侍女は室内へ滑り込み、深く頭を下げた。
その顔は、蒼白だった。
「王宮より、火急の報せが」
「申しなさい」
「国王陛下が、先ほど」
侍女の声が震える。
「グレイソン将軍をはじめとする北方守備の将、三名の解任をお命じになりました」
部屋の空気が、凍りついた。
アルベルトが立ち上がる。
椅子が、後ろへ乱暴に倒れた。
「理由は」
「『気に入らぬ顔だ』と」
沈黙。
エレノアの指先から、血の気が引いていく。
「後任は」
アルベルトの声は、低く、そして硬かった。
「まだ、決まっていないと」
「まだ、というのは」
「本日の午後、ジュリアン殿下が国王陛下へ、後任の将を推挙されるとのことです」
窓の外を、風が強く吹き抜けた。
天鵞絨の帳が、大きく揺れる。
エレノアが息を呑む。
「偶然、でしょうか」
「偶然のはずがない」
アルベルトは吐き捨てた。
「昨夜のうちに種を蒔き、今朝方には刈り取りにきたということだ」
ヴィクトリアの顔から、血の気がさらに引いた。
「ならば、後任にはジュリアンの息がかかった将が」
「間違いなくな」
アルベルトは、握りしめた拳を見下ろした。
指の関節が、白く浮き出ている。
もし北方の守備を、ジュリアン側の将が握れば。
軍という最後の砦さえ、失うことになる。
「間に合わぬ」
低い呟きが、部屋に落ちた。
密書を整える時間さえ、もう残されていなかった。
先ほどまでの眠気は、跡形もなく消えている。
代わりに、鍛えていない若い身体の芯から、冷たい汗が滲み出していた。
エレノアが立ち上がり、卓上の地図を素早く畳み始める。
「離宮を出ましょう。今すぐに」
「ああ」
ヴィクトリアは、すでに帳の隙間から外の様子を窺っていた。
「私は王宮へ戻り、グレイソン将軍の身の安全を確保します」
「わしは」
アルベルトは短く考え、顔を上げた。
「王太子府へ戻る。ジュリアンより先に、動かねばならぬ」
三人は、それぞれの扉へ向かって歩き出した。
朝の光は、もう完全に部屋を満たしている。
だが、その明るさが、誰の心も晴らしはしなかった。
(第8話「忠臣への密書」へ続く)
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