第6話:暗雲漂う宮廷
鐘の音が、まだ王宮の屋根の上で余韻を残していた。
ジュリアンは自室の窓辺に立ったまま、その音が完全に消えるのを待った。
夕闇が中庭の芝を紫色に染めていく。
騎士たちの隊列が、松明を掲げて巡回を始めるのが見えた。
「面白くなってきました」
誰にも聞こえないほど小さな声で、もう一度呟く。
口元の笑みは崩れない。
だが、瞳の奥だけが、氷を敷き詰めたように冷たかった。
先ほど見た、財務卿の落ち着き払った顔が、瞼の裏に焼きついている。
以前ならば、あの男は王命一つで泡を食っていたはずだ。
それが今は、何かに守られているかのように動じない。
(兄上。あなたが手を回したのですね)
法典の条文まで持ち出す知恵など、兄アデルにあるはずがなかった。
以前の兄ならば。
(誰かに教えられたのか。それとも)
考えかけて、ジュリアンは首を振った。
答えの出ない問いに時間を費やすほど、暇ではない。
彼は窓辺を離れ、机へ戻った。
引き出しを開ける。
奥に置かれた黒い革袋へ、指先が触れる。
いつもは撫でるだけで終わる。
今夜は違った。
袋を摘み上げ、上着の内側へ静かに収める。
重みはわずかだった。
だが、その重みが、腹の底へじわりと沈んでいく感覚があった。
「殿下」
声もなく現れたのは、灰衣の男だった。
「エレノア嬢と王妃陛下の動きは」
「相変わらず、頻繁に文書局へ出入りされております」
「財務卿は」
「今宵も陛下の執務室にてお叱りを受けたのち、王太子府へ向かわれました」
ジュリアンの指先が、机の縁を軽く叩いた。
「バルトの件は」
「進展はございません。王妃様付きの女官が、今も口止めを続けている様子です」
「そうか」
ジュリアンは小さく頷いた。
「支度を」
「馬でございますか」
「馬を」
「供は一人でいい」
「殿下御自ら……」
「今夜だけは」
ジュリアンは微笑んだ。
「私が出向かねば、意味がない」
夜半。
王都を出て一刻。
街道を外れ、獣道のような細い道を馬で進む。
木々の枝が頭上を覆い、月明かりさえ届かない闇が続いた。
馬の鼻息が白く揺れる。
供の男が掲げる灯りだけが、足元の落ち葉を照らしていた。
梟の声が、遠くでひとつ響く。
ジュリアンは手綱を握る指先に力を込めた。
冷えた革の感触が、掌に食い込む。
やがて森の奥へ分け入った先に、古びた狩猟小屋が現れた。
かつて先王が使っていたという建物は、今では屋根の一部が崩れ、蔦に覆われている。
馬をつなぐ音。
革の軋み。
湿った土と朽ちた木の匂いが、鼻の奥にまとわりつく。
軒先に吊るされた古い鈴が、風に揺れて小さく鳴った。
扉を押し開けると、煙たい空気が顔を撫でた。
小屋の中では、囲炉裏の炎が四つの人影を赤く照らしていた。
「殿下」
先に口を開いたのは、恰幅の良い初老の男だった。
ガーディナー侯爵。
北部に広大な領地を持つ、宮廷でも指折りの古参貴族である。
その傍らには、瘦せぎすで神経質な目つきのフィッツ子爵。
卓の向こうでは、まだ若いロウレンス伯爵が苛立たしげに脚を揺すっている。
さらに奥、影に半ば隠れるようにしてオズボーン伯爵が黙って座っていた。
「よくぞ、この場所まで」
「侯爵こそ、寒い中お待たせした」
ジュリアンは外套を脱ぎ、傍らの椅子へかけた。
炎の熱が、冷えた頬にじわりと染みる。
卓の上には、粗末な木の杯と、安酒の瓶が並んでいた。
宮廷の晩餐とは似ても似つかない、質素な酒精の匂い。
「して」
ロウレンス伯爵が身を乗り出した。
若いが、気の短さで知られている。
「陛下は」
言いかけて、慌てて言い直す。
「国王陛下は、本当に増税を強行なさるおつもりか」
「今のところは」
ジュリアンは静かに答えた。
「法に阻まれておりますが」
「法……」
伯爵の指が、卓上の酒杯を強く握った。
「そのような悠長な話をしている場合ですか。北部はすでに冷害で音を上げている。これ以上の課税など、民が耐えられるはずがない」
「落ち着け、ロウレンス」
侯爵が低く制した。
「殿下の御前だ」
伯爵は口を噤んだ。
だが、握った拳の震えは収まらない。
「侯爵」
ジュリアンが静かに問う。
「他の方々は」
「私と、ロウレンス。フィッツ子爵、オズボーン伯爵。それに東部の三家が、同じ思いでおります」
「思いとは」
「このままでは」
侯爵の声が低く沈んだ。
「国が保ちません」
フィッツ子爵が、初めて口を開いた。
「通達によれば、私の領地では、収穫祭のために蓄えていた資金まで、次の徴税で召し上げられることになりましょう。理由は同じく大祝宴のためと」
「私のところも同様です」
オズボーン伯爵が、低い声で続く。
「民の不満は、すでに領主である我らへ向けられ始めております」
「東部三家からは、すでに二件の陳情が私の手元に届いております」
ガーディナー侯爵が付け加える。
「このままでは、年を越す前に一揆が起きても不思議ではありません」
炎が爆ぜる音がした。
誰も、しばらく口を開かなかった。
「陛下は、三年前まで名君であられた」
侯爵が続ける。
「グラナダとの緊張を抑え、冷害の年も民を飢えさせなかった。それが」
言葉を切る。
「この一月ほどで、まるで別人のようになられた」
ジュリアンの指先が、わずかに動いた。
「別人、とは」
「失礼を承知で申し上げます」
侯爵は声を落とした。
「ご乱心ではないかと」
小屋の中の空気が、一段と冷えた気がした。
ジュリアンは何も答えない。
ただ、炎を見つめている。
「殿下」
ロウレンス伯爵が身を乗り出す。
「もし本当にご乱心ならば、摂政を立てるべきです。それができるのは」
「待て」
ジュリアンが手のひらを上げた。
「それは、父上を廃するという意味に聞こえるが」
「そこまでは……」
伯爵の勢いが、わずかに削がれる。
「ですが、殿下」
侯爵が代わりに言葉を継いだ。
「万一の際、王家の血を引く方が国を導かねば、混乱はさらに広がります」
「万一の際」
ジュリアンは繰り返した。
「その万一が、いつ来るとお思いか」
侯爵は答えなかった。
答える代わりに、深く頭を下げた。
「その時が来れば、我らは殿下にお仕えする所存です」
ジュリアンは微笑んだ。
「気の早いことだ」
だが、その言葉とは裏腹に、拒む響きはどこにもなかった。
「急いてはならぬ」
ジュリアンは杯を手に取った。
炎の色が、赤い酒の表面へ映り込む。
「急げば、人は反発する。だが」
一口含む。
「機が満ちれば、反発する相手も選べるようになる」
侯爵とロウレンス伯爵が、顔を見合わせた。
「殿下は、既に何か動いておられるのですか」
侯爵の問いに、ジュリアンは答えなかった。
ただ、杯を静かに卓へ戻した。
「それより」
話題を変えるように、静かに続ける。
「各領地で民の困窮を記した嘆願を集めてはどうか」
「嘆願、でございますか」
「正式な形で。日付と署名を添えて」
フィッツ子爵が目を細めた。
「陛下へ差し出すためのものと」
「あるいは」
ジュリアンは炎を見つめたまま答えた。
「別の使い道もあるかもしれぬ」
その言葉の意味を、誰も問い返さなかった。
「もう遅い」
ジュリアンは外套を羽織り直す。
「今夜はここまでにしよう」
三人が同時に立ち上がる。
「殿下」
侯爵が深く一礼した。
「良い返事を、お待ちしております」
ジュリアンは何も言わず、小屋を出た。
夜風が頬を打つ。
馬の背にまたがり、王都への道を戻りながら、ジュリアンは懐の革袋へ手を当てた。
(もう少しだけ)
囁くように、心の中で呟く。
(踊っていただこう。父上にも、兄上にも)
月明かりだけが、彼の横顔を照らしていた。
王太子府。
夜明け前。
エレノアはまだ灯りの点る執務室で、書類の山と向き合っていた。
蝋燭が三本、すでに短くなっている。
扉を叩く音がしたのは、鶏が鳴くよりも早い時刻だった。
「エレノア様」
クララの声だった。
ただならぬ響きに、エレノアはすぐさま立ち上がる。
「お入りなさい」
扉が開く。
クララの後ろには、外套を纏ったままのヴィクトリアが立っていた。
裾には、夜露で湿った跡が残っている。
「王妃陛下」
エレノアが目を見開く。
「陛下は」
「まだお休みです」
ヴィクトリアは奥の寝所を一瞥した後、静かに部屋へ入った。
椅子には座らない。
指先で、抱えていた紙片をエレノアへ差し出す。
「私の目で、直接届けたかったのです」
エレノアは受け取り、素早く目を通した。
紙面を追う瞳が、少しずつ見開かれていく。
「これは……」
「昨夜、北の街道を、複数の貴族の馬車が通っております」
ヴィクトリアの声は低かった。
「行き先は、旧狩猟小屋。先王が使っておられた場所です」
「同乗していたのは」
「ガーディナー侯爵。ロウレンス伯爵。フィッツ子爵、オズボーン伯爵。ほかにも数名」
エレノアの指が、紙の端を強く握った。
「そして」
ヴィクトリアが、一拍置いて続ける。
「その中の一頭は、王宮の裏門から出ています」
エレノアの喉が、小さく鳴った。
「まさか」
「ジュリアン付きの馬でした」
沈黙が、部屋を満たした。
蝋燭の炎だけが、小さく揺れている。
奥の扉が開いたのは、その時だった。
「何の話だ」
寝間着の上に上着を羽織ったアルベルトが、戸口に立っていた。
若い顔に、まだ眠気は残っている。
だが、目の光だけは、すでに完全に覚めていた。
「陛下」
エレノアが紙片を差し出す。
アルベルトは受け取り、目を通した。
指先が、紙の上で止まる。
「反乱分子の貴族どもと、あやつが」
低く呟いた。
「密会したということか」
「おそらくは」
ヴィクトリアが頷く。
「目的までは分かりません。ですが」
「分かる」
アルベルトが遮った。
「国王を廃するための地ならしだ」
エレノアが息を呑んだ。
「もし国王陛下が乱心と断じられれば」
アルベルトの声が、部屋の温度を下げた。
「摂政が立てられる。そして摂政の座に最も近いのは」
「ジュリアン殿下」
ヴィクトリアが後を継いだ。
三人の間に、重い沈黙が落ちる。
「厄介なのは」
エレノアが口を開いた。
「表向き、彼らの言い分に間違いがないことです」
「うむ」
「増税は事実。冷害も事実。国王陛下のご様子が変わられたことも」
「事実だ」
アルベルトは苦い笑みを浮かべた。
「わしらが正しさで反論できる話ではない」
「ならば」
ヴィクトリアが扇を握る手に力を込めた。
「向こうより先に、動くしかありません」
「四人のうち、切り崩せる者はいるか」
アルベルトが問う。
「フィッツ子爵は」
ヴィクトリアがわずかに目を細めた。
「元来、慎重な性分です。ガーディナー侯爵ほど深くは踏み込んでいないかもしれません」
「探る価値はあるな」
「ただし」
エレノアが釘を刺す。
「下手に接触すれば、逆にこちらの動きをジュリアン殿下へ知らせることになります」
「承知の上だ」
アルベルトは紙片を見つめたまま、しばし黙り込んだ。
「慎重に、だが急いで運ぶ」
窓の外では、まだ夜が明けきっていなかった。
だが、東の空の端だけが、わずかに白みはじめている。
アルベルトは紙片を握りしめた。
指の関節が、白く浮き出るほど強く。
「グラナダとの一件も片付いておらぬというに」
その声には、王としての重みと。
若い身体特有の、隠しきれない疲労とが。
同時ににじんでいた。
「離宮に、皆を集めよう」
ヴィクトリアが静かに言った。
「これ以上、この場所で話すのは危険です」
アルベルトは頷いた。
窓の外。
白み始めた空を、一羽の鳥が横切っていく。
嵐の前の、静かな夜明けだった。
(第7話「離宮の秘密作戦会議」へ続く)
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