第5話:愚王の乱政
夕刻。
国王執務室を飛び出した財務卿エドワード・グランヴィルは、乱れた呼吸のまま廊下を早足で進んでいた。
磨き上げられた大理石の床へ革靴が乾いた音を響かせる。
額には汗が浮き、胸元まできっちり留められた深緑の官服も、肩のあたりだけわずかに乱れていた。
彼は二十年以上、この国の財務を預かってきた。
冷害。
洪水。
疫病。
そのたびに歳入と歳出を組み替え、王国を支えてきた自負がある。
だが――。
「正気ではない……」
思わず漏れた独り言が、長い回廊へ吸い込まれていった。
商人税を倍額。
農地税を一律二割増。
さらに王都へ入る荷馬車一台ごとに新たな通行税。
理由は。
『王家の威光を示す盛大な祝宴を開く』
ただ、それだけだった。
「そんなものが通るはずが……」
エドワードは唇を噛む。
税制改正は王が命じれば終わる話ではない。
税率の算定。
各州への通達。
徴税官の再配置。
地方貴族との調整。
帳簿の改訂。
印章。
法令文。
数え切れない手続きを経て、ようやく施行される。
それを。
「あのお方は……」
拳が震えた。
「紙一枚で終わるとでも思っておられるのか」
その時だった。
「財務卿」
落ち着いた声が廊下へ響く。
エドワードが顔を上げる。
王太子アデル。
いや。
中身はアルベルトだった。
若い身体へ濃紺の上着をまとい、両手を背中で組んで静かに立っている。
夕日が窓から差し込み、その横顔だけを黄金色に染めていた。
「殿下」
エドワードは深く礼をした。
アルベルトは周囲を一瞥する。
廊下に人影はない。
「少し歩こう」
「……承知いたしました」
二人は並んで歩き始めた。
窓の外では、王都へ帰る鳥の群れが赤く染まった空を横切っていく。
しばらく無言だった。
先に口を開いたのはアルベルトだった。
「国王陛下から、新税について命じられたな」
エドワードの足がわずかに止まる。
「……どこまで」
「内容は聞いた」
アルベルトは表情を変えない。
「施行できるか」
財務卿は苦い笑みを浮かべた。
「不可能です」
即答だった。
「理由は」
「理由が多すぎます」
エドワードは息を吐く。
「まず今年は北部が冷害です。」
「うむ」
「収穫量が例年より一割以上落ちる見込みです。」
「把握している」
「そこへ商人税まで上げれば、穀物価格はさらに跳ね上がります。」
アルベルトは静かに頷いた。
予想どおりだった。
「さらに」
財務卿は続ける。
「グラナダとの関係悪化により、国境交易も不安定です。」
「そうだ」
「物流が止まれば税収そのものが減ります。」
「その通りだ」
エドワードは立ち止まった。
「殿下」
「何だ」
「陛下は、本当に……」
言葉が詰まる。
「ご理解なさっておられるのでしょうか」
アルベルトは答えなかった。
答えられなかった。
理解していない。
それを一番知っているのは、自分だった。
「財務卿」
代わりに静かな声で言う。
「法に従え」
「……はい?」
「すべて正式な手続きを踏め」
エドワードは目を瞬かせた。
「税制改正には何が必要だ」
「法務局の審査。」
「うむ」
「各州徴税官への通達。」
「うむ」
「大蔵省での試算。」
「他には」
「……諮問会議。」
アルベルトが頷く。
「それを一つも省くな」
夕風が廊下を吹き抜ける。
若い身体の前髪がわずかに揺れた。
「急げとも言わぬ。」
「止めろとも言わぬ。」
「ただ」
アルベルトの目が細くなる。
「法を守れ。」
エドワードは、その意味を理解した。
無理に逆らえば王命違反。
しかし。
法律どおり進めれば。
最低でも数週間。
内容次第では数か月。
時間を稼げる。
「殿下……」
「私は何も命じておらぬ」
アルベルトは穏やかに微笑んだ。
「王命を、法に従って執行せよと言っただけだ」
財務卿の胸の奥に、張り詰めていたものが少しだけ緩む。
「……承知いたしました」
深く頭を下げる。
その姿を見届けると、アルベルトは再び歩き始めた。
若い身体は健康だ。
だが。
鍛えていない脚は、長い回廊を歩くだけでじわじわと重くなってくる。
肩も少し張る。
王だった頃の身体なら、この程度で疲れることはなかった。
(本当に鍛えておらん)
内心でため息をつく。
身体能力は年齢では決まらない。
積み重ねで決まる。
アデルは、その積み重ねを何一つ持っていなかった。
その時だった。
「陛下」
柱の陰からエレノアが現れた。
淡い青のドレスに身を包み、片手には数冊の帳簿を抱えている。
「終わりましたか」
「ああ」
「財務卿は」
「察しがいい」
エレノアが小さく息をつく。
「それは助かります」
「他の者は」
「法務卿と文書局長が待っています」
アルベルトは足を止めた。
「もう集めたのか」
「時間がありませんから」
エレノアの瞳は真っ直ぐだった。
「増税が公布される前に、合法的に止められる手続きはすべて洗い出します」
アルベルトは静かに笑う。
「頼もしい」
「陛下が教えてくださったことです」
「何を」
「政治とは、感情ではなく制度で動くものだと」
アルベルトは一瞬だけ目を細めた。
その言葉は。
かつてまだ婚約者だったエレノアへ、自分が語った言葉だった。
彼女は覚えていた。
「行こう」
「はい」
二人は並んで歩き出す。
目指す先は王太子府。
これから始まるのは。
剣でも。
戦争でもない。
紙。
印章。
法令。
そして官僚機構を武器にした。
王国を守るための静かな戦いだった。
王太子府。
執務室へ戻ると、すでに四人の文官が集まっていた。
法務卿セルジュ。
文書局長ロイド。
大蔵省次官ヘンリー。
そして王宮書記長アルフォンス。
誰もが重苦しい表情を浮かべ、卓上へ広げられた資料を見つめている。
部屋の窓は大きく開かれていた。
夕暮れの風が白いカーテンを揺らし、乾ききらないインクの匂いを部屋中へ運んでいる。
アルベルトは席へ着かなかった。
卓の端へ立ち、全員の顔をゆっくり見渡す。
誰も口を開かない。
それだけで十分だった。
皆、この命令の異常さを理解している。
「まず確認する」
静かな声が部屋へ響く。
「国王陛下は、新税を公布すると命じられた」
四人が頷く。
「ならば我らは従う」
その言葉に、法務卿セルジュが思わず顔を上げた。
「殿下……?」
アルベルトは続ける。
「ただし」
卓上へ置かれた法典を指先で軽く叩く。
「この国の法に従って、だ」
セルジュの目が見開かれる。
アルフォンスも息を呑んだ。
「法務卿」
「は、はい」
「税制改正には、何条が適用される」
セルジュはすぐに答えた。
「王国税制法、第十二条でございます。」
「読め」
法務卿は分厚い法典を開く。
紙をめくる乾いた音だけが静かな部屋へ響いた。
「第十二条――新たな税を設ける場合、財務省による歳入歳出試算、法務局による適法審査、各州代表への通知期間二十日以上を要する」
アルベルトは頷いた。
「通知期間は」
「最低二十日」
「短縮できるか」
「戦時特例のみでございます」
「今は戦時か」
「……いいえ」
「では」
アルベルトは淡々と言った。
「二十日だ」
セルジュの肩から力が抜けた。
「文書局長」
「はい」
「公布文は」
「正式書式へ改める必要がございます」
「どれほどかかる」
「早くても三日」
「急ぐ必要はない」
「承知いたしました」
「大蔵省次官」
「はっ」
「税収予測を作れ」
「どの程度詳細に」
「いつも通りだ」
アルベルトは答える。
「嘘を書くな。」
「数字を飾るな。」
「国王が気に入る数字も要らぬ。」
「現実だけを書け。」
次官ヘンリーが深く頭を下げる。
「承知いたしました」
アルベルトは四人を見渡した。
「覚えておけ」
その眼差しは若い身体に似合わぬほど重かった。
「余は増税を止めろとは言っておらぬ」
誰も動かない。
「王命を、法に従って執行しろと言っている」
四人は同時に礼を取った。
「御意」
その返事には、先ほどまでの動揺はなかった。
王命と法律。
その両方を守る道筋が見えたからだ。
文官たちが退出すると、部屋にはアルベルトとエレノアだけが残った。
窓の外では夕日が沈み始め、王都の屋根が赤く染まっている。
エレノアは書類を一枚ずつ整えながら、小さく息を吐いた。
「ひとまず時間は稼げますね」
「ああ」
アルベルトは椅子へ腰を下ろした。
その瞬間、背中へ鈍い疲労が走る。
長時間立ち続けていただけだ。
若い身体とは思えないほど、腰回りの筋肉が頼りない。
無意識に肩を回す。
「お疲れですか」
「身体がな」
アルベルトは苦笑した。
「病ではない。」
「ただ鍛えておらん。」
「半日歩き回っただけで、脚が重い」
エレノアが少しだけ笑う。
「ご自身で仰ると、不思議な会話ですね」
「まったくだ」
「元に戻られたら、まず何をなさいます?」
アルベルトは迷わず答えた。
「毎朝、あやつを鍛錬場へ放り込む」
「逃げたら?」
「捕まえる」
「その頃には陛下の身体ですから、逃げ切れそうですが」
「近衛騎士団総出で捕まえる」
「少しだけ同情いたします」
二人は顔を見合わせた。
ほんの短い笑み。
だが、その空気はすぐに張り詰める。
クララが扉を叩いた。
「失礼いたします」
「入りなさい」
クララは一枚の報告書を持っていた。
「王妃陛下からでございます」
アルベルトが受け取る。
短い内容だった。
『酒蔵番バルト、依然として意識戻らず。
襲撃現場から新たな手掛かりなし。
王宮内では口止めを継続中』
アルベルトは報告書を畳んだ。
「進展はないか」
「はい」
クララは静かに頷く。
「ただ、一つだけ」
「何だ」
「本日、国王陛下のもとへ第二王子ジュリアン殿下がお見えになりました」
エレノアの瞳が動く。
「また?」
「はい」
「時間は」
「一刻ほど」
アルベルトは考え込む。
昨日も会っている。
そして今日も。
偶然にしては頻度が高い。
だが。
(証拠はない)
推測だけで動けば足元をすくわれる。
「内容は分かったか」
「近衛兵も退室させられたため、不明です」
「そうか」
クララはさらに続けた。
「退出された際、ジュリアン殿下はいつも通り穏やかなご様子でした」
「国王は」
「大変ご機嫌だったと」
アルベルトは目を閉じる。
機嫌が良い。
それ自体は珍しくない。
アデルは酒でも女でも褒め言葉でも、すぐ機嫌が良くなる。
問題は。
誰が、その機嫌を利用しているかだ。
「監視は続けてください」
エレノアが言う。
「ええ」
クララは深く礼をした。
「王妃陛下も同じご判断でございます」
その頃。
国王執務室では。
「何でまだ出てねぇんだ!」
怒声が部屋中へ響いていた。
アデルが机を叩く。
豪奢な机の上で、硯が跳ね、書類が床へ散らばる。
向かいに立つ財務卿エドワードは微動だにしない。
「申し訳ございません、陛下」
「謝ってる暇があったら出せ!」
「法に定められた手続きがございます」
「知らねぇよ!」
「法務局の審査が終わっておりません」
「飛ばせ!」
「できません」
「俺が王だぞ!」
アデルが椅子から立ち上がる。
アルベルトの身体は鍛えられている。
怒鳴る声にも迫力があった。
しかし。
エドワードは視線を逸らさない。
「王であらせられるからこそ」
静かに答えた。
「法をお守りいただかねばなりません」
アデルの顔が引きつる。
「誰がそんなこと決めた」
「陛下ご自身でございます」
「は?」
「三年前、税制法改正へ署名されたのは陛下でございます」
「……」
アデルは黙った。
当然だ。
署名した本人はアルベルトだった。
エドワードは淡々と続ける。
「その法律に従い、最短で進めております」
「最短?」
「はい」
「二十日もかかるじゃねぇか!」
「法律でございますので」
アデルは言葉を失った。
数秒後。
椅子へ乱暴に座り直す。
「……つまんねぇ国」
ぼそりと呟く。
その一言を聞いたエドワードの胸が、わずかに痛んだ。
この国を築くために。
どれほど多くの者が命を懸けてきたのか。
今、その言葉を吐いた男は。
それを何一つ知らない。
「下がれ!」
「失礼いたします」
財務卿は一礼し、静かに部屋を出た。
扉が閉まる。
その直後。
部屋の奥から笑い声が聞こえた。
「まぁまぁ、父上」
ジュリアンだった。
いつの間にか奥の応接間で茶を飲んでいたらしい。
「そんなに焦る必要はありませんよ」
アデルが顔を向ける。
「何でだ?」
ジュリアンは柔らかな笑みを浮かべたまま答えた。
「急げば、人は反発します」
ティーカップを静かに受け皿へ戻す。
「ですが、少し待てば」
その瞳だけが冷たく細められる。
「反発する相手も、選びやすくなりますから」
アデルは意味が分からないまま頷いた。
「難しい話は任せる」
「承知しました」
ジュリアンは微笑む。
しかし。
窓へ目を向けた瞬間だけ。
その笑みは完全に消えた。
(・・・・・)
心の中で呟く。
(あなたが動いたのでしょう)
増税が止まった理由。
文官たちの妙な落ち着き。
すべてが一本の線で繋がる。
証拠はない。
だが。
「面白くなってきました」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。
夕暮れの王宮へ、再び鐘の音が鳴り響く。
その音は。
王国の未来を告げる鐘なのか。
それとも。
破滅への時を刻む鐘なのか。
まだ、誰にも分からなかった。
(第6話「暗雲漂う宮廷」へ続く)
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