第4話:秘蔵酒の足跡
【1】
夜が明けるより、少し前。
王宮の地下には、地上より一足早く朝の気配が入り込んでいた。
厨房では竈に火が入り、乾いた薪の爆ぜる音が石壁に反響している。
焼き始めたパンの香ばしい匂い。
煮出した茶葉の渋い香り。
井戸から汲み上げた水を大鍋へ注ぐ音。
一日の始まりを告げる雑多な気配が、眠りの残る王宮の底でゆっくりと動き始めていた。
その喧騒から一本外れた、小さな配膳室。
エレノアは、昨夜の晩餐記録を卓上へ広げていた。
「国王陛下のお席がこちら」
白い手袋を嵌めた指が、紙面を滑る。
「そして王太子殿下が、その正面」
向かいには王妃付き筆頭女官クララ。
その隣には、昨夜ヴィクトリアから事情を聞かれた給仕係が立っていた。
若い女の肩は、先ほどからずっと強張っている。
「間違いありません」
「酒が運ばれたのは?」
「主菜が下げられたあとでございます」
「誰が運んだのです?」
「……わたくしです」
エレノアが顔を上げた。
「どこから受け取ったのですか」
「酒蔵から」
給仕係の指が、エプロンの端を摘まむ。
「酒蔵番のバルトが、わたくしに」
「その瓶を最初に見た時のことを、できるだけ詳しく話してください」
女は困ったように眉を寄せた。
「詳しく……と申されましても」
「些細なことで構いません。瓶の色。栓。封蝋。箱。匂い。バルトの様子。普段と違ったことがあれば、何でも」
エレノアの声音は穏やかだった。
責める調子はない。
そのためか、女の肩から少しだけ力が抜けた。
「瓶は……黒に近い色でした」
「葡萄酒では珍しくありませんね」
「はい」
「他には?」
「王家の酒蔵にあるものとは違う瓶でした」
エレノアの指が止まった。
「どう違ったのです?」
「細かったのです。首のところが」
女は両手で形を作る。
「それに、ラベルもありませんでした」
クララが口を開いた。
「封蝋は?」
「……ありませんでした」
エレノアとクララの視線が交わる。
「開封済みだった?」
「はい」
「王族へ出す酒を?」
エレノアの声が、ほんの少し低くなった。
給仕係は青ざめる。
「わ、わたくしも変だと思ったのです。ですがバルトが――」
「何と言ったのです?」
「『王太子殿下ご自身がお持ちになった秘蔵酒だから問題ない』と」
沈黙。
厨房の向こうで。
包丁がまな板を叩く音が聞こえる。
一定の調子だったその音だけが、妙に遠く感じられた。
「王太子殿下が」
エレノアが呟く。
「はい」
それ自体は、アルベルトから聞いている話と一致する。
あの夜。
アデルは珍しい酒があると言って、父アルベルトの晩餐へ持ち込んだ。
二人で飲み。
翌朝。
身体が入れ替わった。
問題は――。
「バルトは、その酒をどこから受け取ったと言っていました?」
「それは……」
給仕係は首を横へ振った。
「聞いておりません」
「では、あなた自身はアデル殿下が酒蔵へ持ってきたところを見たのですか?」
「いいえ」
「誰かが持ち込んだところは?」
「見ておりません」
エレノアは目を伏せた。
つまり。
確実に分かっていることは少ない。
アデルは秘蔵酒を手に入れた。
晩餐で父へ飲ませた。
だが。
その酒がどこからアデルの手へ渡ったのか。
そこだけが。
綺麗に抜け落ちている。
「最後に一つ」
エレノアが尋ねる。
「その酒を飲んだのは、お二人だけですね?」
「はい」
「毒見役は?」
「通しておりません」
「なぜ」
女の顔がさらに青ざめる。
「バルトが……必要ないと」
クララの眉が動いた。
「酒蔵番に、その判断をする権限はありません」
「存じております!」
給仕係は思わず声を上げた。
すぐに口元を押さえる。
「申し訳……ございません」
「構いません」
エレノアは女を見つめる。
「あなたを責めるために呼んだのではありません」
「……はい」
「ただし」
わずかに身を乗り出す。
「今日ここで話したことは、誰にも話さないでください」
給仕係が息を呑む。
「ご家族にも。親しい同僚にも」
「……承知いたしました」
「下がって結構です」
深く礼をして。
女は足早に部屋を出ていった。
扉が閉じる。
エレノアはしばらく動かなかった。
やがて。
「クララ様」
「はい」
「バルトという酒蔵番に会いましょう」
「王妃陛下も同じご指示を」
クララは答えた。
そして。
ほんのわずかに眉を寄せる。
「ですが、一つ問題がございます」
「何でしょう」
「先ほど使いを出したのですが」
一拍。
「バルトが見当たりません」
エレノアの目が細くなった。
【2】
王太子府。
朝。
アルベルトは机に向かっていた。
窓から差し込む朝日が、積み上がった書類の角を白く照らしている。
右手には羽根ペン。
左手には地方から届いた穀物備蓄の報告書。
その姿だけを見れば。
放蕩王太子アデルとは、とても思えない。
もっとも。
身体の方は。
それほど殊勝ではなかった。
「……痛い」
アルベルトはペンを置いた。
右肩を回す。
ごきり。
小さな音。
「二十枚程度で、なぜ肩が凝る」
返事はない。
当然だった。
部屋には一人しかいない。
若い身体だ。
病気でもない。
手足も問題なく動く。
だというのに。
長時間同じ姿勢を取っているだけで背中が重くなり、指先が疲れてくる。
(どれほど怠けた生活を送れば、二十代でここまで鈍るのだ)
思い返せば。
アデルが朝の鍛錬場に現れた姿など、数えるほどしか見たことがない。
剣術教師をつけても逃げる。
馬術の稽古は雨が降ったと言って休む。
雨が降らなければ暑いと言って休む。
秋には寒いと言った。
「……あやつ」
アルベルトの眉間に皺が寄る。
「身体を返したら、まず鍛錬場へ放り込んでやる」
その時。
扉が叩かれた。
「入れ」
エレノアが入ってきた。
アルベルトは一目で察した。
「何かあったな」
「どうして分かるのです?」
「そなたは考え事をしている時、右手の親指で人差し指の第二関節を撫でる」
エレノアが自分の手を見る。
実際に。
そうしていた。
すぐに指を離す。
「……よくご覧になっていますね」
「人を見るのが王の仕事だ」
アルベルトは椅子へ深く座り直した。
「それで」
「酒蔵番が見つかりません」
アルベルトの目から、先ほどまでの呆れが消えた。
「いつからだ」
「昨夜までは勤務していたそうです。今朝になって部屋へ行ったところ、姿がないと」
「城外へ出た記録は?」
「現在、王妃陛下が調べています」
「そうか」
アルベルトは顎へ手を添えた。
エレノアは向かいの椅子へ座る。
「もう一つ」
「何だ」
「例の酒は、毒見を通していませんでした」
「何?」
アルベルトの声が低くなる。
「酒蔵番が『王太子殿下ご自身の秘蔵酒だから必要ない』と給仕へ伝えたそうです」
「わし――いや、アデルが毒見を不要と命じたのか」
「そこまでは分かりません」
エレノアは首を振る。
「給仕係は、バルトからそう聞いただけです」
「……なるほど」
アルベルトの指が机を一度叩く。
「その言葉が本当にアデルから出たものかも分からんということか」
「はい」
「では、あやつに聞けばよい」
エレノアが瞬きをした。
「直接?」
「入手先くらいは覚えておるだろう」
「覚えているでしょうか」
「……」
「……」
二人の間に沈黙が落ちた。
アルベルトは目を逸らした。
「期待はせん」
「それがよろしいかと」
「だが確認はする」
アルベルトは立ち上がった。
椅子を離れ。
上衣を取る。
「陛下」
「何だ」
「どちらへ?」
「決まっておろう」
袖を通す。
「わしの身体を着て遊び回っている馬鹿のところだ」
「お一人で?」
「その方がよい」
エレノアの眉が寄る。
「危険では」
「アデル相手に何が危険だ」
「陛下の精神に」
アルベルトはエレノアを見る。
「……そなた、最近遠慮がなくなってきたな」
「同盟相手ですので」
「便利な言葉だ」
そう言いながら。
アルベルトの口元には、ごくわずかな笑みがあった。
【3】
「秘蔵酒?」
昼前。
国王の私室。
本来アルベルトのために作られた重厚な部屋は。
わずか二日で見る影もなくなっていた。
床には脱ぎ捨てられた上着。
卓上には食べかけの果物。
長椅子の横には空の酒瓶が三本。
窓は昼近くだというのに半分閉ざされ、室内には酒と甘い香水の匂いが澱んでいる。
そして。
アルベルトの身体を使うアデルは。
寝台の上で腹を掻いていた。
「何だよ、朝っぱらから」
「もう昼だ」
「俺にとっちゃ朝だ」
「……」
アルベルトは一度。
ゆっくり目を閉じた。
怒るな。
目的を忘れるな。
これは尋問ではない。
情報収集だ。
「一昨日の晩餐で飲んだ酒を覚えているか」
「一昨日?」
アデルが欠伸をする。
「父上と飲んだものだ」
「ああ」
ようやく。
アデルの目が少し開いた。
「あれか」
「どこで手に入れた」
「……どこだっけ」
アルベルトの額に青筋が浮いた。
「思い出せ」
「そんな怖い顔すんなよ」
「思い出せ」
「分かったよ!」
アデルは身体を起こす。
その動きだけは。
元のアルベルトの身体だけあって、妙に安定している。
背筋。
肩幅。
太い腕。
長年、最低限とはいえ剣術と乗馬を続けてきた王の肉体。
それを使って。
本人は寝台の上で胡座をかいていた。
(わしの身体でその座り方をするな)
喉まで出かかった言葉を呑み込む。
「誰かにもらったんだよ」
「誰だ」
「だから……」
アデルが頭を掻く。
「宴だったかな」
「いつの」
「覚えてねぇ」
「誰の宴だ」
「だから覚えてないって!」
アルベルトの拳が震えた。
「貴様……」
「でも」
アデルがふと天井を見る。
「誰かが言ったんだよ」
「何と」
「『陛下がお好きそうな酒です』とか」
アルベルトの目が細くなる。
「わしが?」
「そうそう」
アデルは指を鳴らす。
「親父に飲ませたら驚くぞ、みたいなことも言ってた気がする」
「誰が言った」
「んー……」
アデルは目を閉じる。
「男」
「それでは何も分からん!」
「しょうがねぇだろ!」
アデルも声を上げた。
「酒飲んでたんだから!」
「威張るな!」
怒号が部屋を震わせる。
廊下の近衛兵が。
扉越しにびくりとした気配が伝わった。
アルベルトは荒くなりかけた呼吸を抑える。
この身体は健康だ。
だが。
怒鳴り続けるだけの鍛え方すらされていない。
腹筋が弱いせいか。
声を張ると妙に腹の奥が疲れる。
それがまた腹立たしい。
「……その男の顔は」
「覚えてない」
「服装」
「覚えてない」
「声」
「普通」
「年齢」
「知らね」
「どこで受け取った」
「たぶん宴」
「たぶんでは困る!」
「じゃあ聞くなよ!」
アルベルトは。
本気で頭を抱えた。
王として。
幾度も難解な外交交渉をまとめてきた。
敵対する貴族を懐柔したこともある。
軍閥同士の争いを一晩で収めたこともある。
だが。
「覚えていない人間から情報を引き出す」という仕事だけは。
どうにもならない。
「もうよい」
「何だよ」
「最後に一つだけ」
アルベルトは顔を上げる。
「その酒をもらったことを、誰かに話したか」
アデルは少し考えた。
「マリアには言ったかな」
「他は」
「知らね」
「……そうか」
アルベルトは踵を返した。
「おい」
背後から声。
振り返る。
アデルが。
少しだけ不思議そうな顔をしていた。
「何でそんなこと調べてんだ?」
一瞬。
アルベルトは黙った。
「美味かったからだ」
「は?」
「もう一度飲みたい」
アデルの顔が。
ぱっと明るくなった。
「だろ!?」
「……」
「めちゃくちゃ美味かったよな、あれ!」
「……ああ」
アルベルトは扉を開ける。
「見つけたら教えてやる」
「絶対だぞ!」
扉を閉める。
廊下へ出る。
三歩。
四歩。
角を曲がる。
そこで。
アルベルトは壁へ片手をついた。
「……疲れた」
身体ではない。
精神が。
【4】
その日の午後。
エレノアは王宮地下の酒蔵にいた。
壁一面。
葡萄酒の瓶。
樽。
酒精の強い蒸留酒。
古い年代物には埃が積もり、燭台の炎を受けて瓶の肩だけが鈍く光っている。
空気はひんやりしていた。
石壁には湿気が滲み。
床の隅には薄い苔まで生えている。
「こちらです」
副酒蔵番が帳簿を運んできた。
五十代ほどの痩せた男。
額には汗。
地下の冷気には不釣り合いだった。
エレノアはそれを見逃さない。
「一昨日の記録を」
「はい」
帳簿が開かれる。
葡萄酒十二本。
白葡萄酒六本。
料理用酒二瓶。
王妃用の果実酒一本。
エレノアは指で追う。
「秘蔵酒は?」
「記録にはございません」
「なぜです?」
「王太子殿下の私物であれば、王宮酒蔵の入庫記録には載せませんので」
筋は通っている。
「では、バルトはどこで受け取ったのでしょう」
「それは……」
男の視線が下がる。
「存じません」
「本当に?」
「はい」
エレノアは黙った。
沈黙。
人は。
問い詰められるより。
黙って見られる方が耐えられないことがある。
十秒。
二十秒。
男の喉が動く。
「……ただ」
出た。
エレノアは表情を変えない。
「何でしょう」
「一昨日の夕方」
副酒蔵番が声を潜める。
「バルトが、妙な箱を持っていたのは見ました」
「妙な箱?」
「細長い木箱です。酒瓶一本を入れるような」
「どこから持ってきたのです」
「分かりません」
「誰かと一緒でしたか」
「いいえ」
「その時、何か言っていました?」
男は眉を寄せる。
記憶を探る。
「『殿下からだ』と」
エレノアの目が止まる。
「殿下?」
「はい」
「アデル殿下?」
「……分かりません」
「なぜ」
「バルトは、ただ『殿下から預かった』としか」
王宮にいる「殿下」は。
一人ではない。
エレノアの背筋を。
冷たいものが走った。
「その箱は今どこに」
「見当たりません」
「箱を捨てる場所は?」
「空き箱なら裏の薪置き場へ」
エレノアはすぐに立ち上がった。
薪置き場は。
酒蔵から二つの扉を隔てた場所にあった。
割った薪。
壊れた木箱。
樽の蓋。
藁。
エレノアは裾を片手で持ち上げ。
その中へ踏み込む。
「エレノア様」
同行していたクララが眉を寄せる。
「私が」
「構いません」
「ドレスが汚れます」
「洗えば済みます」
「公爵令嬢のお言葉とは思えません」
「国が滅びるより安いでしょう」
クララが。
ほんの少しだけ笑った。
二人で。
木片を一つずつ確認する。
しばらくして。
「これは?」
クララが一本の板を拾った。
細長い。
上質な木。
一般の酒箱とは違う。
エレノアが受け取る。
鼻へ近づける。
葡萄酒の香り。
その奥に。
微かな。
甘い香り。
「……これ」
「何か?」
エレノアは。
もう一度嗅ぐ。
昨夜。
王宮の廊下。
アルベルトと別れた後。
一度だけ。
すれ違った人物から漂っていた。
香り。
「白檀……?」
クララの顔が変わった。
エレノアも。
何も言わない。
白檀を使う人間など。
王宮には何人もいる。
証拠ではない。
だが。
偶然として。
切り捨てるには。
妙だった。
木片を裏返す。
そこには。
小さな焦げ跡があった。
焼き印。
半分ほど削られている。
見えるのは。
細い曲線。
そして。
鳥の羽根にも見える。
一本の線。
「紋章でしょうか」
クララが呟く。
「分かりません」
エレノアは答えた。
分からない。
だから。
決めつけてはいけない。
アルベルトなら。
そう言う。
「持ち帰りましょう」
木片を布で包む。
その時。
背後で。
何かが落ちた。
からん。
二人が振り返る。
副酒蔵番が。
入口に立っていた。
手から。
鍵束を落としている。
顔が。
真っ青だった。
「どうしました?」
エレノアが尋ねる。
「……いえ」
「この木箱に見覚えがありますか」
男の目が。
布から覗く木片へ向く。
一瞬。
ほんの一瞬。
怯え。
「ありません」
答えが早すぎた。
エレノアの瞳が細くなる。
「そうですか」
それ以上。
追及しなかった。
今は。
まだ。
【5】
夕刻。
王妃の私室。
アルベルト。
ヴィクトリア。
エレノア。
三人が同じ卓を囲んでいた。
扉の外にはクララ。
他の侍女はすべて遠ざけている。
卓上には。
細長い木片。
酒蔵の帳簿。
給仕係から聞き取った内容。
そして。
アデルから得た。
ほとんど役に立たない証言。
ヴィクトリアが。
最後の紙を読んだ。
「『男だったと思う。宴だったと思う。誰かは覚えていない』」
扇が。
ゆっくり閉じる。
「……あの子らしい証言ですね」
「わしは一刻近くかけた」
アルベルトが低く答える。
「慰めの言葉が見つかりません」
「探さなくてよい」
エレノアが。
わずかに口元を緩める。
すぐに表情を戻した。
「ただ、アデル殿下の記憶が曖昧だったことで、一つだけ分かりました」
「何だ」
「少なくとも、アデル殿下自身があの酒を探し出したわけではありません」
アルベルトが頷く。
「ああ」
「誰かが近づき」
ヴィクトリアが続ける。
「アルベルトが好みそうな酒だと吹き込み、アデルに持たせた」
「可能性は高い」
アルベルトの指が。
木片へ伸びる。
「そして酒蔵では、毒見の手順が飛ばされた」
エレノアが続ける。
「その処理をしたバルトが、今朝から姿を消しています」
「逃亡か」
ヴィクトリアが言う。
「あるいは」
エレノアは言葉を止めた。
消された。
その可能性。
誰も。
口にはしなかった。
アルベルトは木片を持ち上げる。
「これが入っていた箱だと断定できるか」
「できません」
エレノアは即答した。
「薪置き場にあっただけです」
「うむ」
「白檀の香りも、どこで付着したか分かりません」
「うむ」
「焼き印も欠けています」
「そうだ」
アルベルトは。
満足そうに頷いた。
エレノアが少し不思議そうな顔をする。
「何でしょう」
「いや」
アルベルトは木片を卓上へ戻した。
「よく冷静でいると思ってな」
「陛下に教わりましたので」
「何を」
「推測と事実を混ぜれば、敵に負ける」
アルベルトの口元が。
わずかに上がった。
「その通りだ」
ヴィクトリアが二人を見比べる。
「ずいぶん息が合うようになりましたね」
エレノアが少しだけ姿勢を正す。
アルベルトは咳払いした。
「話を戻すぞ」
「はいはい」
「ヴィクトリア」
「何でしょう」
「バルトは」
王妃の表情が変わる。
「城門記録を確認しました」
「出たのか」
「いいえ」
アルベルトの指が止まる。
「一昨日の晩餐以降、バルトが王宮を出た記録はありません」
エレノアが息を呑む。
「では」
「まだ王宮内にいる可能性があります」
ヴィクトリアの声音が低くなる。
「あるいは、記録に残らない方法で外へ出た」
アルベルトは椅子へ背を預けた。
天井を見る。
「厄介だな」
「ええ」
「だが」
顔を戻す。
「これで確定したことが一つある」
二人を見る。
「あの酒は、ただの偶然ではない」
沈黙。
「誰かがアデルへ渡した」
アルベルトの声が。
部屋の空気を押す。
「毒見を外させ」
指が卓を叩く。
「わしとアデルの二人だけに飲ませた」
もう一度。
「そして今」
三度目。
「その経路を知る酒蔵番が消えた」
ヴィクトリアの瞳が鋭くなる。
エレノアも。
木片を見つめる。
「誰かが」
アルベルトは言った。
「わしら二人に、あの酒を飲ませることを望んだ」
それが。
何を起こす酒なのか知っていたのか。
ただの毒だと思っていたのか。
身体の入れ替わりまで。
計算していたのか。
まだ。
何も分からない。
だが。
一つだけ。
明白だった。
事故ではない。
「犯人を捜す」
アルベルトが言った。
「ただし、こちらが気づいたことは悟らせるな」
「承知しました」
エレノアが頷く。
「酒の捜査は私が続けます」
「王宮内の人間については私が」
ヴィクトリアが扇を取る。
「あなたは?」
アルベルトを見る。
「わしか」
アルベルトは。
山積みになった国政の現状を思い浮かべた。
グラナダ。
国書。
関税。
軍。
そして。
自分の身体を手に入れた愚息。
「わしには」
深いため息。
「国そのものを壊そうとしている馬鹿を止める仕事がある」
ヴィクトリアが。
遠い目をした。
「……息子の教育を間違えましたね、私たち」
「今それを言うな」
「現実です」
「分かっておる」
エレノアが。
小さく笑った。
ほんの一瞬。
張り詰めていた空気が緩む。
だが。
その時。
扉が叩かれた。
三人の顔が。
同時に変わる。
クララが入る。
「王妃陛下」
「何」
「バルトの件ではございません」
クララの手には。
一枚の書類があった。
「国王陛下が、先ほど財務卿をお呼びになりました」
アルベルトの眉が寄る。
「財務卿を?」
「はい」
嫌な予感がした。
「何のためだ」
クララは一瞬。
答えることを躊躇った。
「新たな税を設ける、と」
部屋の空気が。
凍った。
「……何?」
アルベルトが立ち上がる。
椅子が後ろへ滑った。
「何の税だ」
「まだ詳細は」
「誰に掛ける」
「商人と農民を中心に、と」
アルベルトの顔から。
すべての表情が消えた。
グラナダとの緊張。
冷害。
穀物価格の上昇。
国境交易の停滞。
そんな中で。
増税。
「理由は」
クララが。
今度こそ。
本当に言いづらそうに目を伏せた。
「……王宮で」
「言え」
「大祝宴を開く費用が必要だと」
沈黙。
エレノアが目を閉じた。
ヴィクトリアの扇が。
ぎしり。
音を立てた。
そして。
アルベルトは。
ゆっくり。
本当にゆっくりと。
両手を机についた。
「……あの」
低い声。
「愚息め」
その頃。
国王執務室。
アルベルトの身体を持つアデルは。
財務卿の差し出した試算書を。
一度も読まずに横へ放り投げていた。
「細けぇことはいいんだよ」
王の指が。
机の上に広げられた税率表の数字を指す。
「これ」
財務卿の顔が青ざめる。
「へ、陛下」
「今の倍にしろ」
「しかし――」
「王命だぞ?」
アデルが笑う。
アルベルトの顔で。
子供のように。
「金がないなら」
指先が。
農民への課税欄を叩いた。
「国民から取ればいいだろ?」
窓の外。
夕暮れの王都に。
鐘の音が響き始めた。
第4話 了
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