第3話:王妃の眼光
【1】
『エレノア、動く』
細く折り畳まれた紙片を、ジュリアンは二本の指で摘まんでいた。
王宮北棟の私室には、夜の帳が降り始めている。
窓の外に残っていた夕焼けはすでに紫へ変わり、磨き抜かれた硝子には燭台の炎と、第二王子の整った横顔だけがぼんやり映っていた。
ジュリアンは報告書をもう一度読み返した。
エレノアの侍女が、王宮内の連絡路を使って外部へ文を運んだ。
行き先まではまだ判明していない。
だが――。
「婚約を破棄された直後に、か」
薄い唇が緩やかな弧を描いた。
普通ならば、公爵家への帰還準備を始める。
あるいは父である公爵へ使者を走らせ、王家から受けた屈辱を訴える。
少なくとも。
秘密裏に誰かへ書状を送る必要などない。
「兄上と話したあとで、エレノア嬢が動いた」
ジュリアンは紙片を燭台の炎へ差し出した。
端から黒く縮れた紙が、橙色の火に呑まれていく。
「やはり、何かある」
燃え残った灰を銀皿へ落とす。
その所作に乱れはなかった。
扉の脇に控えていた灰衣の男が、低く尋ねる。
「引き続き追跡いたしますか」
「いや」
「……よろしいので?」
「追えば気づかれる」
ジュリアンは銀皿の灰を細い棒で崩した。
「エレノア嬢は兄上とは違う。聡明な女性だ。あまり露骨に嗅ぎ回れば、こちらの存在を教えることになる」
「では」
「見るだけでいい」
ジュリアンは顔を上げた。
「誰と会うか。どこへ行くか。何を持ち出すか」
その瞳から、笑みだけが消える。
「そして――兄上が次に誰を頼るか」
白檀の煙が、細く天井へ昇っていった。
同じ頃。
王太子府の執務室では、アルベルトが例の紙片を再び開いていた。
『今夜、王妃陛下に近づかれぬ方がよろしい』
『昨夜の酒について知りたくば、なおさら』
燭台の光が文字の凹凸を照らす。
何度見ても、筆跡に特徴はない。
文字を崩し、癖を殺している。
紙も王宮内で広く使われている安物。
白檀の香りだけが、わずかな手掛かりだった。
「……罠ならば、あまりに露骨だ」
アルベルトは独りごちた。
王妃に近づくな。
そう書けば、逆に王妃へ向かわせる効果もある。
では送り主は、自分が王妃へ接触しようとしていることを知っているのか。
昼間、王妃を味方につける話をしたのはエレノアだけだ。
(エレノアが漏らすはずはない)
ならば。
誰かに見られていた。
あるいは聞かれていた。
「……もう始まっておるか」
アルベルトは紙片を畳み直し、上衣の内側へ収めた。
敵がいる。
まだ誰かは分からない。
だが、こちらが動けば相手も動く。
それならば。
止まっている方が危険だ。
「殿下」
扉の外から側侍の声がした。
「何だ」
「王妃陛下より、お使いの方がお見えでございます」
アルベルトの指が止まった。
「王妃から?」
「はい」
数秒の沈黙。
アルベルトは椅子から立ち上がった。
「通せ」
【2】
入ってきたのは、四十代ほどの女官だった。
濃紺のドレス。
飾り気のない銀の髪留め。
背筋は定規を当てたように伸びている。
アルベルトはその顔を知っていた。
「……クララか」
王妃ヴィクトリア付きの筆頭女官。
王妃がまだ王太子妃だった時代から仕えている古参だ。
クララの目が、わずかに動いた。
「アデル殿下」
深々と礼を取る。
「王妃陛下がお呼びでございます」
「今からか?」
「はい」
「用件は」
「伺っておりません」
クララの表情は変わらない。
だが、アルベルトには分かった。
この女は警戒している。
当然だ。
普段のアデルなら、母から呼び出されれば露骨に嫌な顔をする。
それどころか、理由をつけて逃げることすらあった。
ここで喜んで出向けば、それ自体が異常になる。
アルベルトは一瞬だけ考えた。
そして、わざと椅子の背へ身体を預ける。
「……母上は今さら何の用だ」
自分で口にしていて腹立たしいほど、アデルらしい言葉だった。
クララは眉一つ動かさない。
「私には分かりかねます」
「明日では駄目なのか?」
「『今夜中に』との仰せです」
やはり。
アルベルトは目を細めた。
ヴィクトリアも何かを察している。
「分かった」
面倒そうに息を吐いてみせる。
「行く」
クララが再び礼を取った。
その視線が一瞬、机へ向かう。
そこには整理された書類。
優先順位ごとに積み直された陳情書。
インクの乾ききっていない書き込み。
クララの瞳が、ほんの少し細くなった。
アルベルトは見逃さなかった。
「何だ」
「いえ」
クララはすぐに視線を戻した。
「失礼いたしました」
(さすがヴィクトリアの女官だ)
アルベルトは内心で苦笑する。
主人だけでなく、仕える者まで目ざとい。
「案内せよ」
「こちらへ」
クララが先に立つ。
アルベルトは燭台の火を消し、そのあとへ続いた。
王宮の夜は、昼とは別の顔を持つ。
長い石造りの廊下には一定間隔で燭台が置かれ、炎の届かない場所には濃い影が溜まっている。
壁に掛けられた歴代国王の肖像画が、通り過ぎる者を無言で見下ろしていた。
二人分の足音が響く。
クララの靴音は一定だった。
アルベルトも歩調を合わせる。
だが。
三つ目の回廊へ入った頃から、アデルの身体が悲鳴を上げ始めた。
胸が重い。
ふくらはぎに鈍い痛みが走る。
ほんの少し早足で歩いただけなのに、呼吸が浅くなっていく。
(……この程度で)
アルベルトは奥歯を噛んだ。
五十歳だった本来の身体にも、膝や腰の痛みはあった。
だが、それは長年使い込んだ身体の痛みだ。
今のこれは違う。
使っていない身体。
鍛えていない身体。
若さを持て余し、酒と夜更かしで内側から腐らせた肉体。
「殿下」
前を歩いていたクララが止まった。
「……何だ」
「少し、お休みになりますか」
「必要ない」
即答する。
しかし額には汗が浮いていた。
クララは何も言わなかった。
ただ、次に歩き始めた時。
先ほどよりほんの少しだけ、歩調が遅くなっていた。
アルベルトはそれにも気づいた。
(相変わらずだな)
ヴィクトリアが信頼するだけのことはある。
やがて二人は、王宮西棟へ入った。
王妃の居住区。
ここから先は空気が違う。
騒がしい若い貴族も、酒臭い官吏もいない。
淡い蜜蝋の香り。
磨き上げられた床。
季節の白百合が壁際の花器に活けられている。
そして。
突き当たりにある、白木と金細工の扉。
クララがその前で止まった。
「王妃陛下」
扉越しに呼びかける。
「アデル殿下がお見えでございます」
少しの間。
中から静かな声がした。
「お通しして」
アルベルトの背筋が伸びた。
三十年近く聞き続けた声だった。
【3】
扉が開く。
王妃ヴィクトリアは、窓辺に座っていた。
昼間の正式な王妃衣装ではない。
深い緑の夜会用ドレスに薄い肩掛けを纏い、長い栗色の髪を後ろで緩くまとめている。
年齢を重ねてもなお美しい。
だが、若い頃の華やかさより先に目に入るのは、姿勢だった。
椅子へ座っているだけなのに、背骨が一本の剣のように真っ直ぐ伸びている。
右手には閉じた扇。
左手は膝の上。
動かない。
王宮のどんな重臣よりも静かで。
どんな将軍よりも隙がない。
「母上」
アルベルトは呼んだ。
ヴィクトリアは答えなかった。
ただ、目だけを上げる。
その視線が。
頭の先から靴の先まで、アルベルトをゆっくり撫でた。
「クララ」
「はい」
「下がって」
「かしこまりました」
クララが退室する。
扉が閉じる。
かちり。
鍵が掛かった。
アルベルトの眉がわずかに動く。
ヴィクトリアは立ち上がらない。
「そこへ」
向かいの椅子を扇で示す。
「座りなさい」
「……はい」
アルベルトは椅子へ腰を下ろした。
向かい合う。
卓上には茶器が二組。
だが、茶は注がれていない。
ヴィクトリアは扇を膝へ置いた。
「アデル」
「はい」
「今日は、何をしていたの」
尋問だ。
アルベルトは即座に理解した。
「午前は王太子府におりました。午後はエレノア嬢のもとへ」
「そう」
「それから――」
「もういいわ」
言葉を切られる。
ヴィクトリアの瞳が細くなる。
「あなた、誰?」
アルベルトの呼吸が止まった。
あまりにも。
あまりにも早かった。
「……母上?」
「その呼び方を続けるつもり?」
扇の先端が、卓を一度叩いた。
乾いた音が響く。
「私の息子は、私に『はい』とは答えない」
アルベルトは黙った。
「私の息子は、私の部屋に入ればまず酒がないか探す」
扇がもう一度鳴る。
「私の息子は、私が座れと言えば『説教なら帰る』と言う」
三度目。
「そして何より」
ヴィクトリアの目が、真っ直ぐアルベルトの瞳を射抜いた。
「私の息子は、そんな目で人を見ない」
沈黙が落ちた。
アルベルトは、もはや誤魔化す意味がないと悟った。
「……いつから気づいていた」
声を変える。
アデルを演じる声音ではない。
王として長年使ってきた、低く静かな話し方。
ヴィクトリアの指が止まった。
その瞳が初めて揺れる。
「今朝から」
「やはりか」
「陛下が……」
ヴィクトリアは言葉を詰まらせた。
「夫が、目覚めて最初に私へ言ったの」
アルベルトは嫌な予感がした。
「何と」
王妃の美しい眉間に、深い皺が刻まれる。
「『母上、朝から説教はやめてくれよ』」
「…………」
アルベルトは両手で顔を覆った。
「馬鹿者が……」
腹の底から出た声だった。
ヴィクトリアの瞳がさらに大きくなる。
その反応。
その言葉。
その頭を抱える癖。
彼女は何十年も見てきた。
「まさか」
ヴィクトリアが立ち上がった。
椅子の脚が絨毯を擦る。
「まさか……本当に」
アルベルトは顔から手を離した。
「ヴィクトリア」
その名を呼ぶ。
王妃でも。
母上でもない。
三十年近く連れ添った妻の名を。
「わしだ」
ヴィクトリアの唇が震えた。
「アルベルトだ」
それでも。
王妃は駆け寄ってこなかった。
さすがだった。
感情より先に、理性が働く。
ヴィクトリアは数歩の距離を保ったまま、扇を強く握った。
「証明して」
「……ああ」
「エレノアには何を話したのか知らない。でも、私には私だけの証拠が必要です」
「当然だ」
アルベルトは頷いた。
そして。
少し考えた。
国家機密では駄目だ。
重臣が知っている可能性がある。
子供たちの話でも駄目。
侍女が耳にしているかもしれない。
ならば。
夫婦しか知らないこと。
やがてアルベルトは、ひどく言いにくそうに口を開いた。
「……二十二年前」
ヴィクトリアの眉が動く。
「アデルが生まれる前。北方遠征から帰還した夜だ」
「……」
「わしは勝利の宴で酔い潰れた」
「覚えています」
「翌朝、そなたは口を利いてくれなかった」
「当然でしょう。妊娠中の妻を放って、朝まで酔っていたのですから」
「違う」
アルベルトは首を振る。
「そなたが怒っていた本当の理由は、それではない」
ヴィクトリアの顔が変わった。
アルベルトは続ける。
「わしは酔ったまま寝室へ戻り――」
一度、咳払いする。
「そなたが大切にしていた、母君の形見の陶器の小鳥を尻で潰した」
ヴィクトリアの目が見開かれた。
「……」
「しかも翌朝、割れた破片を見て『敵襲か』と言った」
王妃の扇が、ぽとりと床へ落ちた。
「それは……」
声が震える。
「あの時、寝室には私とあなたしか……」
「ああ」
「侍女にも、言っていない」
「知っている」
アルベルトは苦笑した。
「そなたが『国王が陶器に敗北したなど後世に残せない』と言って、口止めしたからな」
数秒。
ヴィクトリアは動かなかった。
そして突然。
つかつかと歩み寄ってきた。
アルベルトが口を開くより早く。
ぱんっ。
乾いた音が部屋に響いた。
頬が熱い。
「……痛いぞ」
「当然です!」
ヴィクトリアの瞳には涙が浮かんでいた。
「あなたという人は!」
もう一度手が上がる。
アルベルトは思わず肩を竦めた。
だが。
二度目の平手は来なかった。
代わりに。
ヴィクトリアの両腕が、アデルの細い身体を強く抱き締めた。
「……生きていた」
耳元で、掠れた声がした。
「あなた……ちゃんと、そこにいるのですね」
アルベルトの目がゆっくり閉じる。
「……ああ」
自分の息子の身体で。
妻に抱き締められる。
あまりにも奇妙な感覚だった。
だが。
腕の震えだけは、紛れもなくヴィクトリアのものだった。
アルベルトはためらったあと、その背へそっと手を回した。
「心配をかけた」
「本当です」
「すまぬ」
「本当に」
「……すまぬ」
しばらく。
二人はそうしていた。
【4】
「つまり」
落ち着きを取り戻したヴィクトリアは、再び椅子へ座っていた。
目元にはわずかな赤みが残っている。
だが、表情はすでに王妃のものへ戻っていた。
「あなたとアデルは、昨夜の晩餐を境に入れ替わった」
「ああ」
「原因として最も疑わしいのが、アデルが持ち込んだ秘蔵酒」
「ああ」
「そして今、私の夫の身体に入ったあの子が、国王の権力を使って国を壊しかけている」
「……ああ」
ヴィクトリアは扇を開いた。
口元を隠す。
「産んだのは私ですが」
扇の向こうから低い声がした。
「一発殴ってよろしいでしょうか」
「わしの身体だぞ」
「では二発」
「増えておるではないか」
アルベルトは額を押さえた。
ヴィクトリアが扇を閉じる。
「冗談です」
「目が本気だったぞ」
「半分は本気です」
「半分か……」
久方ぶりに交わした夫婦のやり取りだった。
だが、笑っていられる時間はない。
アルベルトは表情を引き締める。
「ヴィクトリア」
「はい」
「状況は、思っている以上に悪い」
エレノアから聞いたグラナダ国境の状況。
大使追放。
関税三倍。
そして、アデルが作らせた挑発的な国書。
一つずつ説明する。
ヴィクトリアの顔から、徐々に表情が消えていった。
「……あの子は」
最後まで聞き終えると、王妃はゆっくり扇を閉じた。
「戦争が何なのか、分かっているのでしょうか」
「分かっておらん」
アルベルトは即答した。
「だから止める」
「国書は?」
「一日だけ時間を稼いだ。外交使節を仕立てるよう提案した」
ヴィクトリアが目を細める。
「アデルが喜びそうな形にしたのですね」
「あやつは中身より見栄えに食いつく」
「……親だからこそ分かる弱点というのも、悲しいものですね」
「言うな」
アルベルトは苦々しく息を吐いた。
「エレノアはグラナダ側への接触を始めておる」
「彼女にも正体を?」
「ああ」
「信じたのですか」
「証拠を示した」
ヴィクトリアが少しだけ目を伏せる。
「そう」
その声には、どこか安堵があった。
「では、あの子は一人ではないのですね」
「あの子?」
「エレノアです」
王妃の眼光が鋭くなる。
「あなたではありません」
「……そうか」
「婚約を一方的に破棄され、その場に愛妾まで連れて来られたのでしょう」
「……」
「あとでアデルは三発にします」
「だからわしの身体だ」
「戻ってから殴ります」
「それなら構わん」
即答したアルベルトに、ヴィクトリアが一瞬だけ目を丸くした。
そして小さく笑った。
すぐに、その笑みを消す。
「私に何をさせるおつもりです?」
アルベルトは妻を見つめた。
「王を監視してほしい」
「アデルを?」
「ああ。わしの身体を使っている以上、常に近くへ行ける者は限られる」
「妻である私なら、不自然ではない」
「そうだ」
ヴィクトリアは数秒考える。
「侍女たちも使えます」
「信用できる者だけにしろ」
「もちろんです」
「そして、もう一つ」
アルベルトは上衣の内側へ手を入れた。
例の紙片を取り出す。
卓上へ置いた。
ヴィクトリアが読む。
その顔から、わずかに血の気が引いた。
「これは」
「夕刻、わしの部屋へ届いた」
「誰から?」
「分からん」
「白檀……」
王妃の鼻先がわずかに動く。
「気づいたか」
「ええ」
ヴィクトリアは紙片を灯りへ透かした。
「ただ、この香だけで人を特定することはできません」
「分かっておる」
「宮廷で白檀を使う者は珍しくありません」
「だからこそ、警告として受け取るだけだ」
アルベルトは紙片を回収した。
「誰かがこちらを見ている」
ヴィクトリアの視線が鋭くなる。
「入れ替わりを知っている?」
「そこまでは分からん。ただ、少なくとも昨夜の酒を知る者がいる」
沈黙。
王妃はゆっくり立ち上がった。
「では、調べましょう」
「何?」
「昨夜の晩餐です」
ヴィクトリアは部屋の奥へ歩く。
「酒がどこから来たのか。誰が運んだのか。誰が瓶を開け、誰が杯へ注いだのか」
振り返る。
その瞳は、先ほど夫の無事に涙した女のものではなかった。
宮廷で三十年を生き抜いた王妃の目だった。
「厨房。酒蔵。給仕。侍従。すべて辿れば、どこかに痕跡が残っているはずです」
アルベルトは目を細めた。
「できるか」
「誰にお尋ねです?」
ヴィクトリアの口元に、薄い笑みが浮かぶ。
「私は王妃ですよ」
アルベルトは。
ほんの少しだけ笑った。
「そうだったな」
【5】
深夜。
王宮は静まり返っていた。
アルベルトが王妃の居室を出たのは、夜半を過ぎてからだった。
廊下にはクララが待っている。
「殿下」
「遅くなった」
「王妃陛下とのお話はお済みですか」
「ああ」
クララはそれ以上尋ねない。
ただ。
歩き始めたアルベルトの背中を、数秒見つめていた。
その視線には、来た時とは明らかに違うものがあった。
疑念。
そして。
ほんのわずかな敬意。
王太子府へ戻る道すがら、アルベルトは窓の外を見た。
王都の灯りが遠くに点々と瞬いている。
あの一つ一つに。
民がいる。
商人がいる。
職人がいる。
子供がいる。
戦争になれば、その灯りのいくつが消えるのか。
「……させん」
呟く。
「絶対に」
その時。
遠くの廊下から靴音がした。
アルベルトは足を止める。
曲がり角。
暗がりから一人の青年が姿を現した。
整えられた銀灰色の上着。
乱れのない髪。
柔らかな微笑。
「兄上?」
第二王子ジュリアンだった。
アルベルトの瞳が細くなる。
ジュリアンも足を止めた。
二人の間には、およそ十歩の距離。
燭台の炎が揺れ、互いの影を石壁へ長く伸ばす。
「こんな夜更けに、どちらへ?」
ジュリアンが穏やかに尋ねる。
「母上に呼ばれていた」
アルベルトは平然と答えた。
「母上に?」
「ああ」
「珍しいですね」
ジュリアンの笑みは崩れない。
「兄上は、母上のお説教が何より苦手だったはずですが」
「たまには親孝行をしようと思ってな」
「兄上が?」
「おかしいか」
「いえ」
ジュリアンは微笑んだ。
「良いことだと思いますよ」
二人は見つめ合う。
数秒。
ジュリアンが道を譲った。
「お休みなさいませ、兄上」
「ああ」
アルベルトは歩き出す。
横を通り過ぎる。
その瞬間。
白檀の香りがした。
足が止まりかけた。
だが。
止めなかった。
そのまま歩く。
一歩。
二歩。
三歩。
背後からジュリアンの声がした。
「兄上」
アルベルトが振り返る。
ジュリアンはまだ同じ場所に立っていた。
笑っている。
「最近――」
一拍。
「ずいぶん、目つきが変わりましたね」
「……そうか?」
「ええ」
ジュリアンは自分の目元を指で示す。
「以前の兄上は、人を見る時にもっとこう……何も見ていない目をしていました」
ずいぶんな言われようだ。
だが否定できない。
「今は違う」
ジュリアンの笑みが、ごくわずかに薄くなる。
「まるで――」
燭台の炎が揺れた。
「ずっと高い場所から、人を見下ろしてきた方のようだ」
アルベルトの背筋を、冷たいものが走った。
だが。
顔には出さない。
「褒め言葉として受け取っておこう」
「もちろん」
ジュリアンは恭しく頭を下げた。
「お休みなさいませ」
今度こそ、二人は反対方向へ歩き出した。
アルベルトは振り返らない。
(白檀)
胸元には、匿名の紙片。
鼻には、今すれ違った香りが残っている。
だが断定するな。
香りだけでは証拠にならない。
それよりも。
(あやつ……)
ジュリアンは見ている。
こちらの変化を。
王妃への接触を。
おそらくエレノアの動きも。
これまでの「優秀だが野心の薄い第二王子」という認識を、そのまま信じてよいのか。
アルベルトは拳を握った。
その背後。
十分に距離が離れてから。
ジュリアンもまた足を止めていた。
ゆっくり振り返る。
遠ざかる兄の背中を見る。
笑みが消えた。
「……王妃まで動いたか」
誰に聞かせるでもなく呟く。
そして。
自室へ戻ったジュリアンは、扉を閉めた。
机の引き出しを開く。
奥に置かれた黒い革袋には触れない。
その手前から、小さな鍵だけを取り出した。
壁際に置かれた書棚へ向かう。
下から三段目。
歴史書を二冊抜く。
その奥には、小さな鍵穴が隠されていた。
鍵を差し込む。
かちり。
書棚の一部がわずかに浮く。
その向こうから現れたのは、薄暗い隠し棚。
中には。
数通の手紙。
王都の地図。
複数の貴族家の名が書かれた紙。
そして――。
空の酒瓶を包んでいたと思しき、古びた布。
ジュリアンはそれを見つめた。
触れない。
ただ。
静かに笑った。
「もう少しだけ」
囁く。
「踊っていただきましょうか」
隠し棚が閉じる。
最後に残ったのは。
白檀の煙だけだった。
第3話 了
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