第2話:暴君の宣戦布告と蠢く影
【1】
「な……何だとぉッ!?」
アルベルトの怒号が、離宮の応接室を震わせた。
窓辺に吊られた薄絹のカーテンが微かに揺れ、卓上の銀製ティースプーンが白磁の受け皿の縁で、かちり、と乾いた音を立てる。
その余韻が消えるより早く、アルベルトは一歩を踏み出していた。
だが――二歩目が続かなかった。
胸の奥がひどく軋んだ。
怒りに任せて声を張っただけだというのに、アデルの細い身体はそれだけで息を乱している。
喉の奥には鉄臭い味が滲み、青白い指先が微かに震えた。
(……くそっ。この身体……見た目以上に鈍っておる)
精神は五十年を生きた王であっても、肉体は酒と放蕩で弱り切った若者のものだ。
それでもアルベルトは肩を落とさなかった。
乱れた呼吸を鼻からゆっくり吸い込み、背筋だけは真っ直ぐに伸ばす。
その眼前。
本来ならば自分が纏っているはずの濃紺の王衣を、アデルはひどくだらしなく着崩していた。
金糸で王家の紋章を刺繍した襟元は半ば開き、肩から垂れる深紅のマントは左右の長さすら揃っていない。
腰には歴代国王が受け継いできた儀礼剣。
だが、その柄に置かれた手は王のそれではない。
指先で宝石を弄び、身体を左右に揺らす落ち着きのない仕草は、どう見ても酒場で退屈している放蕩息子そのものだった。
その腕に絡みついたマリアが、香水の甘ったるい匂いを撒き散らしながら胸を張る。
「まあ、陛下。アデル様ったら、そんな怖いお顔をなさって」
赤く塗られた唇が愉快そうに歪んだ。
「ご自分でずっとおっしゃっていたではありませんか。『エレノアみたいな堅物と結婚するくらいなら修道院に入る』って」
アルベルトのこめかみに太い血管が浮いた。
(あの馬鹿……そこまで言っておったのか)
横を見る。
エレノアは立ったまま動いていなかった。
ただ、その右手だけが、ドレスの裾を強く握っている。
淡い青の布地に細い皺が寄り、白い指の関節がわずかに浮き出ていた。
それでも顔には怒りも悲しみも出さない。
顎をわずかに引き、背筋を伸ばしたまま、国王の姿をしたアデルを静かに見つめている。
その姿が、かえってアルベルトの胸を刺した。
自分の息子が。
この娘に、これほどの屈辱を味わわせてきたのだ。
「父上」
アルベルトは低く呼んだ。
いま、この場で「アデル」と呼ぶわけにはいかない。
近衛兵がいる。
マリアもいる。
ここで入れ替わりを知られれば、どこから情報が漏れるかわからない。
「婚姻は王家だけの問題ではございません。公爵家との盟約でもあります。まして王太子妃の選定を、このような――」
アルベルトの視線がマリアへ向いた。
一瞬、言葉が止まる。
「――失礼。このような突然の形で変更なさるなど、国政上の混乱を招きます」
「はぁ?」
アデルは露骨に眉を寄せた。
王の顔でその表情をされると、アルベルト自身が鏡の中で品のない顔をしているように見え、胃の奥がむかついた。
「お前、何言ってんだ?」
アデルは首を傾げる。
「エレノアを嫌ってたのはお前だろ?」
「……」
「それにさぁ」
アデルはマリアの腰を抱き寄せた。
五十歳の王の手が、若い女の腰を無遠慮に撫でる。
近衛兵の何人かが、わずかに目を伏せた。
「俺は王だぞ?」
アデルは笑った。
「王が決めたことに、誰が文句を言うんだよ」
その瞬間。
アルベルトの怒りが、すっと冷えた。
先ほどまで腹の底を焼いていた炎が、氷の刃へと変わっていく。
――俺は王だ。
その言葉を、アルベルト自身は即位して以来、一度として口にしたことがなかった。
王とは、好き勝手をする者ではない。
国で最も多くの義務を背負い、最後に眠り、最初に責任を取る者だ。
その玉座を。
この愚息は、巨大な玩具としか考えていない。
「……なるほど」
アルベルトは静かに呟いた。
アデルの笑みが止まる。
「何だよ?」
「いえ」
アルベルトは頭を下げた。
深く。
恭しく。
その動作に、今度はエレノアの瞳がわずかに動いた。
「国王陛下のご決定とあらば、王太子たる私が公の場で異を唱えるべきではございません」
「……え?」
アデルが間の抜けた声を出した。
マリアも目を瞬く。
「ちょ、ちょっと待てよ。お前、さっきまで怒鳴ってただろ」
「突然のことで驚いただけでございます」
アルベルトは顔を上げた。
口元には、ごく薄い笑みを置く。
だが、目は笑わせなかった。
「陛下のお考え、しかと承りました」
その声音に、アデルがほんのわずかに身を引いた。
本人にも理由はわからなかっただろう。
だが、幼い頃から何度となく叱責されてきた父の気配が、その瞬間だけ確かに目の前の「自分の身体」から滲み出していた。
「そ、そうか」
アデルは咳払いした。
「分かればいいんだよ。分かれば」
マリアがその横で得意げに鼻を鳴らす。
「ではエレノア嬢」
アデルは彼女へ向き直った。
「そういうことだ。お前はもうアデルの婚約者じゃない。公爵家にも正式な書状を送っておく」
エレノアは数秒、答えなかった。
窓から差し込む午後の光が、その横顔を白く照らしている。
やがて彼女は、握っていたドレスの裾から指を離した。
皺になった布地を指先で静かに伸ばす。
そして。
完璧な公爵令嬢の礼を取った。
「謹んで、国王陛下のご意向を承ります」
「うむ!」
アデルが満足げに頷く。
だが。
頭を下げたままのエレノアの瞳だけが、アルベルトへ向いていた。
ほんの一瞬。
二人の視線が交わる。
――従うふりをする。
それだけで十分だった。
アルベルトも、ごくわずかに顎を引いた。
二人だけの同盟が、最初の一手を打った瞬間だった。
【2】
「それから、もう一つある」
踵を返しかけたアデルが、不意に足を止めた。
アルベルトの眉が動く。
嫌な予感がした。
アデルは近衛兵の一人へ手を差し出した。
「おい。あれ」
「はっ」
兵士が抱えていた革張りの筒を差し出す。
アデルはそれを受け取ると、中から一枚の羊皮紙を抜いた。
紙面の下部には、まだ乾ききっていない赤い封蝋。
その紋章を見た瞬間、アルベルトの喉が強張った。
グラナダ王国へ向けた国書に用いる、王家の印章だった。
「父上」
アルベルトの声が一段低くなる。
「それは何でしょう」
「ん?」
アデルは羊皮紙をひらひら振った。
「グラナダへの返事だよ」
「返事……?」
エレノアの顔からも、わずかに血の気が引いた。
アデルは楽しそうに紙面へ目を落とす。
「『我が国の決定に不服があるならば、兵をもって国境まで来るがよい』」
アルベルトの指先が止まった。
「『貴国程度の軍勢、我が王国の精鋭をもってすれば三日で踏み潰せよう』」
部屋から音が消えた。
近衛兵すら、息を潜めている。
「『なお、抗議のため派遣された大使については、本日中に国外へ退去せよ。従わぬ場合は敵国の間諜として拘束する』」
アデルが顔を上げる。
「どうだ? 格好いいだろ?」
アルベルトは、すぐには答えられなかった。
窓の外から聞こえる鳥の声が、ひどく遠く感じられた。
(こやつ……)
怒鳴りつけたい。
その紙を奪い取って破り捨てたい。
だが、ここで動けばどうなる。
目の前にいるのは、法の上では国王だ。
そして自分は、臣下からの信用を失った王太子。
力ずくで国書を奪えば、王命への反逆として拘束される。
それでは終わりだ。
アルベルトはゆっくり息を吐いた。
「……すでに、送られたのでしょうか」
「これからだ。夕刻の早馬で出す」
まだ間に合う。
その一言が、頭の中で鋭く響いた。
「なるほど」
アルベルトは表情を変えなかった。
「実に……陛下らしいご決断でございます」
「だろ?」
アデルが満面の笑みを浮かべた。
エレノアがわずかに目を見開く。
だが、アルベルトは彼女を見なかった。
「ただ」
アルベルトは続ける。
「これほど重要な国書です。王家の威信を示すためにも、通常の伝令ではなく、正式な外交使節を立てるべきかと」
「外交使節?」
「はい。先方が恐れ入るほど盛大な一行を仕立てれば、陛下の御威光をより強く示せましょう」
アデルの目が輝いた。
「おお、それいいな!」
アルベルトは内心で息を吐く。
食いついた。
「準備には、最低でも一日は必要でしょう。外務官僚に命じ、馬車と護衛、贈答品を整えさせるのがよろしいかと」
「よし、それでいこう!」
アデルは国書を兵士へ投げ渡した。
「聞いたな! 派手にしろよ! グラナダの連中が腰抜かすくらいにな!」
「は……はっ」
兵士が慌てて国書を受け取る。
「じゃあな、アデル。俺はこれからマリアに王宮を案内してやるんだ」
「陛下ぁ、宝物庫も見せてくださるのでしょう?」
「もちろんだ! 王の物は俺の物だからな!」
笑い声を残し、二人は近衛兵を引き連れて部屋を出ていった。
扉が閉まる。
靴音が遠ざかる。
さらに数秒待ってから。
エレノアが弾かれたようにアルベルトへ向き直った。
「陛下!」
「声を落とせ」
アルベルトは扉を睨んだまま、片手を上げた。
「まだ近くに兵がおる」
エレノアは口元を押さえ、息を整える。
やがて廊下の気配が完全に消えると、アルベルトは一気に肩から力を抜いた。
その途端、身体がぐらりと揺れた。
「陛下!」
エレノアが駆け寄り、アルベルトの肘を支える。
「……大丈夫だ」
「大丈夫ではございません。お顔が真っ青です」
「この身体が軟弱すぎるだけだ」
アルベルトは悔しげに吐き捨てた。
額には薄い汗が滲んでいた。
わずか数分の緊張で、心臓が異様な速さで脈打っている。
「それより、時間を一日稼いだ」
アルベルトは身体を起こす。
「国書を止めますか?」
「ああ」
「しかし、王印が押された正式な国書です。勝手に破棄すれば――」
「分かっておる」
アルベルトは応接室の中央に置かれた卓へ歩み寄った。
卓上には冷めた紅茶と、誰も口をつけていない焼き菓子が残されている。
その横にあった紙とペンを引き寄せた。
「だから破棄はせん」
エレノアが眉を寄せる。
アルベルトはペン先をインク壺へ沈めた。
「送らせぬのだ」
紙の上を、ペンが走り始めた。
【3】
「まず外務局だ」
アルベルトは紙面に短く文字を書きつけながら言った。
「外交使節の選定、馬車、護衛、贈答品。すべてについて王太子府の確認を要すると伝えよ」
「ですが、国王陛下が直接お命じになれば?」
「拒めとは言わん。手続きを増やせ」
アルベルトは一枚目の紙を横へ滑らせる。
「贈答品の目録に不備があった。護衛人数が足りぬ。馬車の紋章が古い。何でもよい。一刻ずつ、一刻ずつ遅らせる」
二枚目。
「次にグラナダの大使だ」
エレノアの表情が引き締まる。
「追放命令が出ております」
「だからこそ、まだ王都にいる」
アルベルトは顔を上げた。
「接触できるか?」
エレノアは一瞬だけ考え、顎に指を添えた。
「公爵家は代々、グラナダ側の有力貴族と交易上の付き合いがあります。大使館付きの書記官ならば、私の侍女を介して連絡を取れるかもしれません」
「よし」
アルベルトは即座に頷く。
「ただし、今は和平条件を提示するな」
「なぜです?」
「こちらの権限が足りん」
アルベルトはペンを置いた。
「王太子と公爵令嬢が勝手に国王の勅令を覆そうとしていると知られれば、グラナダ側も信用せぬ。まず必要なのは、あちらに『王国内部に開戦を望まぬ勢力がいる』と知らせることだ」
「時間を稼ぐための布石……」
「そうだ」
エレノアは静かに頷いた。
先ほどまで婚約を一方的に破棄された令嬢とは思えぬほど、瞳はすでに次の策へ向いている。
「では、私が動きます」
「待て」
立ち上がろうとしたエレノアを、アルベルトが止めた。
「もう一つある」
「はい」
「王妃だ」
エレノアの瞳が細くなる。
「ヴィクトリア様……」
「あれを味方につける」
アルベルトは窓へ視線を向けた。
午後の太陽は傾き始め、離宮の庭園には長い影が伸びていた。
「王妃には、王宮内で独自に動かせる侍女と人脈がある。何より、国王の最も近くに自然に居られるのは妻だけだ」
「ですが……」
エレノアは言葉を選ぶように唇を結ぶ。
「私ですら、陛下のお言葉を信じるまでには証拠が必要でした。王妃様に、身体が入れ替わったなどとお伝えして――」
「信じさせる」
アルベルトは短く言った。
その声には迷いがなかった。
「三十年近く連れ添った妻だ。わしとアデルの違いを、誰より知っておる」
そして一瞬だけ、アルベルトの表情に苦いものが滲んだ。
「……もっとも、今ごろはすでに気づいておるかもしれんがな」
エレノアが小さく息を吐く。
「では、私はグラナダ側への接触を」
「ああ。わしは王妃への道を作る」
「承知いたしました」
エレノアは立ち上がった。
数歩進んだところで、足を止める。
振り返らないまま、その背中がほんのわずかに上下した。
「……陛下」
「何だ」
「先ほどの婚約破棄の件ですが」
アルベルトは黙った。
エレノアはゆっくり振り返る。
その顔には、先ほどアデルの前では決して見せなかった疲れが浮かんでいた。
「私は、構いません」
「……」
「もとよりアデル殿下との婚姻は、王家と公爵家のためのもの。私個人の感情で結ばれたものではございませんから」
そう言って微笑んだ。
だが、その笑みはひどく薄かった。
アルベルトは椅子から立ち上がる。
「エレノア」
彼女の前まで歩み寄り、頭を下げた。
今度は国王としてではない。
一人の父親として。
「すまなかった」
エレノアの目が見開かれる。
「陛下……」
「王命による婚約破棄のことだけではない。あやつがお前にしてきたことすべてだ」
アルベルトは頭を上げなかった。
「わしは国を見ることにかまけて、息子を見ることを怠った」
静かな部屋に、時計の針が進む音だけが響く。
「王太子としての教育を与えれば、人は王になれると思っていた。書物を与え、教師をつけ、叱責すれば、いずれ責任を理解すると……」
拳が震えた。
「わしの誤りだ」
しばらくして。
エレノアの細い指が、アルベルトの肩にそっと触れた。
「お顔をお上げください」
アルベルトはゆっくり顔を上げる。
エレノアは真っ直ぐ彼を見ていた。
「謝罪は、国を救ってからお受けいたします」
「……何?」
「今は陛下も私も、それどころではございませんでしょう?」
ほんの少しだけ。
彼女の口元に、本物の笑みが浮かんだ。
「三日後には戦争が始まるかもしれないのですから」
アルベルトは目を瞬いた。
そして。
「……ふっ」
小さく笑った。
「まったくだ」
「それに」
エレノアは一歩下がり、再び美しい礼を取った。
「婚約が破棄されたのなら、私はもう『アデル殿下の婚約者だから』という理由で動きを制限されません」
アルベルトの眉が上がる。
「なるほど」
「公爵令嬢エレノアとして、好きに動かせていただきます」
「頼もしいな」
「陛下ほどではございません」
二人の間に、ごく短い笑みが交わされた。
しかし、それはすぐに消える。
アルベルトが右手を差し出した。
「エレノア」
「はい」
「改めて頼む」
王の身体ではない。
放蕩王太子の細く、青白い手だ。
それでも、その手を差し出す男の瞳には、長年一国を背負ってきた王の光が宿っていた。
「この国を救うため、わしと共に戦ってくれ」
エレノアはその手を見つめた。
そして迷わず、自らの手を重ねた。
「どこまでも」
細い指が、強く握り返す。
「陛下がこの国の王である限り」
破滅阻止のための同盟が、ここに正式に結ばれた。
【4】
同じ頃。
王宮の北棟。
陽光のほとんど届かない一室に、一人の男が立っていた。
第二王子ジュリアンである。
室内は兄アデルの部屋とは正反対だった。
机の上には塵ひとつなく、書類は寸分違わず揃えられ、羽根ペンは銀のペン立てに角度まで整えて収められている。
窓辺には香の煙が細く立ち昇り、白檀の乾いた匂いが漂っていた。
ジュリアンは窓を背にして、封書を読んでいた。
口元にはいつもの穏やかな笑み。
だが。
瞳だけが笑っていない。
「……面白い」
紙を持つ指先が、わずかに動いた。
その前には、灰色の衣服を纏った男が片膝をついている。
「間違いないのだな?」
「はい、殿下」
男は顔を上げない。
「アデル殿下は、離宮にてエレノア公爵令嬢と長時間お話しになっておりました」
「内容は?」
「扉の外に侍女がおり、すべては聞き取れませんでした。ただ……」
男が一瞬、言葉を切る。
「アデル殿下が、国王陛下のグラナダへの国書について進言されたようです」
ジュリアンの指が止まった。
「兄上が?」
「はい」
「外交について?」
「そのようでございます」
沈黙。
やがてジュリアンは、ふ、と鼻から息を抜いた。
「それは……実に奇妙だ」
窓辺へ歩み寄る。
磨き上げられた革靴が、石床をほとんど音もなく踏んでいく。
「昨日までの兄上なら、グラナダと聞いて思い浮かべるのは葡萄酒の銘柄くらいだったはずだ」
窓の下には王宮の中庭が広がっている。
騎士たちが隊列を組み、侍従たちが忙しなく行き交う。
ジュリアンはその小さな人影を見下ろした。
「それが今朝は父上の執務室へ押しかけ……午後には公爵令嬢と密談し……そして外交使節の話まで始めた」
口元の笑みが、少しだけ深くなる。
「人間というものは、一晩でこれほど変わるものなのかな」
「殿下」
灰衣の男が顔を上げた。
「監視を続けますか?」
「もちろんだ」
ジュリアンは即答した。
「兄上だけではない。エレノア嬢もだ」
「御意」
「それから――」
ジュリアンが振り返る。
「王妃の周囲も見ておけ」
男の眉がわずかに動いた。
「王妃陛下も、でございますか?」
「念のためだよ」
ジュリアンは柔らかく微笑んだ。
「母上は聡明な方だ。父上のご乱心を見て、何も考えないはずがない」
「承知いたしました」
男が一礼し、立ち去ろうとする。
「待て」
ジュリアンが呼び止めた。
「もう一つ」
机へ戻り、引き出しを開ける。
中には数通の封書が並んでいた。
その奥。
小さな黒い革袋が置かれている。
ジュリアンの指先が、その袋の口をゆっくり撫でた。
「昨夜の晩餐について調べろ」
「晩餐……でございますか?」
「ああ」
「何をお調べすれば?」
ジュリアンは一拍置いた。
「父上と兄上が、何を口にしたかだ」
灰衣の男は理由を尋ねなかった。
「御意」
今度こそ、男は音もなく部屋を去った。
扉が閉まる。
一人になったジュリアンは、黒い革袋を見下ろしたまま動かなかった。
やがて。
「兄上」
静かな声が漏れる。
「あなたは一体――」
指先が革袋から離れる。
「何者になったのです?」
穏やかな笑みの奥で。
冷たい瞳だけが、鋭く細められた。
【5】
夕刻。
アルベルトは王太子府へ戻っていた。
窓の外では夕日が王都の屋根を赤く染め、遠くの鐘楼から六つの鐘が響いている。
机の上には、昼間まで埃を被っていた書類が山のように積まれていた。
冷害。
備蓄米。
国境関税。
軍の配置。
地方領主からの陳情。
どれも、本来なら王太子であるアデルが目を通すべきだったものだ。
アルベルトは一枚ずつ内容を確認し、優先順位をつけて横へ積み直していた。
「……これほどとは」
掠れた声が漏れる。
右手が痛い。
まだ十数枚しか目を通していないというのに、指が痺れ始めていた。
アデルの手には、長時間ペンを握るための筋肉すらない。
「情けない身体だ」
アルベルトは右手を開閉した。
だが、休む気はなかった。
次の書類へ手を伸ばす。
その時。
扉が控えめに叩かれた。
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、昼間の側侍だった。
朝にはアルベルトを恐れ、戸惑っていた青年である。
両手に銀盆を持ち、その上に一通の封書を載せていた。
「殿下。こちらを」
「何だ」
「差出人がございません。先ほど、王太子府の扉の下に置かれていたと」
アルベルトの目が細くなる。
「誰が持ってきた」
「分かりません」
アルベルトは封書を取った。
封蝋はない。
安価な紙だ。
表にはただ一言。
『王太子殿下へ』
とだけ記されている。
「下がれ」
「はっ」
側侍が退出する。
扉が閉まったのを確認してから、アルベルトは封を切った。
中には小さな紙片が一枚。
文字は意図的に崩されていた。
『今夜、王妃陛下に近づかれぬ方がよろしい』
アルベルトの表情が固まる。
その下。
もう一行。
『昨夜の酒について知りたくば、なおさら』
椅子が大きな音を立てた。
アルベルトが立ち上がったのだ。
「何……?」
紙片を持つ指に力が入る。
昨夜の酒。
その存在を知る者がいる。
アデル。
自分。
晩餐に立ち会った者たち。
そして――酒を用意した何者か。
アルベルトは紙を灯火へ近づけた。
紙面から、微かな香りが立つ。
甘い香水ではない。
乾いた木を焚いたような、静かな香り。
どこかで嗅いだ。
つい最近。
「……白檀」
アルベルトの目が細くなる。
だが、それだけでは誰のものとも断定できない。
宮廷で白檀の香を使う者など、いくらでもいる。
(誘いか。警告か。それとも……こちらの動きを見ておる者がいるのか)
窓の外。
日はほとんど沈みかけていた。
王宮の回廊に、一つ、また一つと灯火がともされていく。
その暗がりのどこかで。
誰かが自分を見ている。
アルベルトは紙片を二つ折りにし、上衣の内側へ差し込んだ。
「面白い」
低い声が、静かな執務室に落ちた。
口元に浮かんだのは笑みではない。
戦場で敵軍の布陣を見たときの、王の顔だった。
「わしが誰であろうと構わん」
窓の向こうにそびえる王宮本殿を見据える。
そのさらに奥には、王妃ヴィクトリアの居室がある。
「この国を壊そうというのなら――」
青白い青年の指が、窓枠を強く掴んだ。
「相手になってやろう」
その頃。
王宮の別の場所では。
一人の侍女が、誰にも見られぬよう細い廊下を急いでいた。
胸元には、エレノアから託された小さな封書。
宛先は――グラナダ王国大使館付き書記官。
そして。
その侍女が角を曲がったあと。
壁際の暗がりから、一人の男が静かに姿を現した。
男は遠ざかる背中を見送る。
やがて懐から紙を取り出し、短く記した。
『エレノア、動く』
紙を折る。
向かう先は、王宮北棟。
第二王子ジュリアンの私室だった。
第2話 了
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