第1話:目覚めれば愚息、玉座には暴君
【1】
鼻腔を突いたのは、胸がむかつくほど濃厚で安っぽいジャスミンの香水の匂いだった 。
続いて、後頭部を鈍器で殴られたかのような重い頭痛が波のように押し寄せ、アルベルトの意識を覚醒させた 。
ゆっくりと重い瞼を持ち上げると、薄暗い部屋の天井が視界に入る 。
そこには、深紅のベルベット地に金の刺繍が施された豪奢な天蓋が広がっていたが、あちこちにほつれがあり、手入れが行き届いていない 。
アルベルトは眉間に深い皺を寄せ、かすれた吐息を漏らした 。
「……む……?」
口から出た音に、アルベルト自身が真っ先に違和感を覚えた 。
長年、全軍を指揮し、国政の場でおごそかに響かせてきた重厚な低音ではない 。
張りや深みが欠落した、どこか上擦った甲高い若い男の声だった 。
本来のアルベルトであれば、東の空が白むと同時に目を覚まし、整えられた天蓋から出て、侍従長が恭しく差し出す一歩先の銀盆から温かい白濁茶を受け取っているはずだった 。
だが、この空間には規則正しい靴音も、吟味された最高級の茶葉の香りもない 。
漂っているのは、腐汁を思わせる酸っぱい飲み残しの酒の匂いと、雑然と散らかされた衣服の擦れ合う気配だけだった 。
視線を滑らせると、足元には磨き上げられていない乗馬ブーツが倒れ、絨毯の上には空の緑色ガラス瓶がゴロゴロと転がっていた 。
「……何だ、この不潔極まりない惨状は。侍従長は何をしている。わしの寝所にこのような汚れを持ち込むとは……」
アルベルトは不快感を露わにし、敷布に手をついて身を起こそうとした 。
その瞬間、右腕の筋肉に妙な重みとぬくもりを感じて動きを止める 。
視線を下に向けると、乱れた金髪を枕に散らした若い女性が、彼の腕にすがったまま無防備な寝息を立てていた 。
肩口が大きくはだけた薄桃色の絹ドレスからは、白皙の肌が露骨に覗いている 。
見覚えのない、どこか軽薄さを残した顔立ちの女だった 。
「おい、失礼だぞ。何者だそちは。国王の寝所に無断で忍び込むとは……!」
アルベルトは腕を振り払い、女をベッドの端へ押しやった 。
勢いよく足をついて立ち上がった直後、全身の骨格を激しい違和感が襲う 。
視線が低い 。
部屋の調度品の見上げ方が、普段と明らかに異なっていた 。
そして何より、毎朝アルベルトを苛んでいた膝の軋むような関節痛と、腰を締め付ける重い鈍痛が綺麗さっぱり消え去っている 。
今年で五十歳を迎えたアルベルトの身体は、長年の遠征と長時間の執務によって傷み抜いていたはずだった 。
しかし今の身体は、跳ね起きても軸がぶれず、関節が恐ろしいほど柔らかく滑らかに動く 。
胸元に目を落とすと、着古された白シャツの袖口から覗く手の甲には、長年ペンと剣を握り続けて刻まれたタコも、深く刻まれた皺も見当たらない 。
そこにあるのは、血色の薄い、青白く細い手の平だった 。
アルベルトは額に冷や汗をにじませながら、息を荒らげて部屋の隅に据えられた大型の全身鏡へと駆け寄った 。
鏡面に映し出された己の姿を凝視した瞬間、アルベルトの息が止まった 。
そこにあったのは—— 。
整ってはいるものの、酒と夜更かしによって目元に不健康なクマがこびりついた青年の顔だった 。
手入れもされず軽薄に伸ばされた金の髪と、だらしなく半開きになった薄い唇 。
「あ……アデル……!? なぜ、わしが……息子の姿に!?」
鏡の中で、自分と同じ動きで目を見開いているのは、我が国の第一王子であり、王太子であるアデルその人の姿だった 。
「う、ううん……アデル様ぁ、朝からそんなに大声をださないでぇ……。もっとあたくしを可愛がってくださるとおっしゃったじゃないのぉ……」
ベッドの上で女が細い眉をひそめ、薄目を開けながら甘ったるい声を上げて体をすり寄せてきた 。
アルベルトは瞬時に理解した 。
この女が、噂に聞こえていた王太子の新しい愛妾であり、貴族街の社交場で放蕩を繰り返すマリアという女か 。
「黙れ! 国王の前であるぞ、非礼なり!」
「きゃっ!? な、なにをするのよアデル様! 痛いわ!」
アルベルトは鋭い眼光で女を射抜き、床に落ちていた上衣をひっつかむと乱暴に肩へ羽織った 。
身体が入れ替わった 。
おとぎ話の奇談すら凌駕する現実だが、手のひらを握り締めたときの皮ふの感触と鏡の中の顔が、紛れもない真実だと告げていた 。
アルベルトは激しく上下する胸を押さえ、昨夜の記憶を必死に手繰り寄せた 。
昨夜の晩餐の席で、アデルが「父上への日頃の感謝の品です」と笑いながら捧げてきた、琥珀色の怪しげな古酒 。
アルベルトが杯を干し、アデルもまた調子よく杯を重ねた直後、頭を締め付ける強烈な眩暈に襲われたのだ 。
(まあのアホ息子……! どこでそのような呪わしい薬ものを手に入れてきおったのだ!)
アルベルトは歯を食いしばり、指の関節が白くなるほど強く上衣の裾を握りしめた 。
(待て……ということは、いま『わしの身体』はどうなっている……!?)
背筋を氷の針で刺されたような寒気が駆け抜ける 。
もし、本物の自分の身体に、あのアデルの魂が入っているのだとすれば—— 。
「おい! 侍従! 誰かおらぬか!」
アルベルトは木製の重厚な扉を勢いよく開け放ち、石造りの廊下に向かって怒号を叩きつけた 。
足音を荒らげて走ってきたのは、顔を真っ青に引きつらせた王太子の側侍だった 。
「あ、アデル殿下! 如何されましたか! そのような乱れたお姿で……!」
「良いから答えよ! 国王陛下はどこにおわす! 朝の謁見の儀はつつがなく始まっているのか!?」
アルベルトが相手の襟首を掴まんばかりの勢いで一歩踏み出すと、侍従は恐怖に腰を引かせながら後退りした 。
「は、はい……! 国王陛下は、今朝方お目覚めになられてすぐ……『本日の執務はすべて中止だ! これより国庫から一万金貨を拠出し、王都で三日三晩の大祝宴を開く!』とお触れを出されまして……」
「何だと……!?」
「さ、さらに……『これまでの老害重臣どもは頭が固くてイライラする。全員解任して俺の息の合った若い者に入れ替える』と……大広間で大臣たちを集めて大声を張り上げておられます……!」
アルベルトの視界が一瞬、暗転しかけた 。
あのバカ息子めが——!!
わしの身体と絶大な権力を手に入れた途端、タガが外れたように好き勝手を始めているのだ!!
【2】
アルベルトはすぐさま王の執務室へ向かおうと廊下を疾走したが、曲がり角で長槍を交差させた重武装の近衛兵たちに制止された 。
「これより先は、国王陛下の固いお命じにより、アデル殿下であっても立ち入り禁止でございます」
「なん……わしだ! アルベルトだ! 門を開けい! 国家の一大事である!」
「殿下、お戯れを……。朝からお酒が残っておられるのでは? 陛下は今、大変ご機嫌がお悪く、近付く者は容赦なく処罰するとお仰せです」
近衛兵たちの瞳には、隠しきれない呆れと軽蔑のの色が浮いていた 。
アルベルトは唇を噛み締め、悔しさに震える拳を太ももに打ち付けた 。
そうだ、今の自分は「遊び人の愚鈍な王太子」なのだ 。
普段からろくに執務もせず放蕩三昧を繰り返してきた男が「わしは国王だ」などと叫んだところで、誰が信じるというのか 。
「くっ……一度、王太子の執務室へ引くぞ」
アルベルトは翻すように向きを変え、荒い息を吐きながらアデルの部屋へと戻った 。
部屋に戻ると、ベッドにいたマリアという女は不機嫌そうにドレスの裾を叩きながら姿を消していた 。
静まり返った室内で、アルベルトの視線はアデルの執務デスクにとまった 。
「……これは、何だ?」
木製のデスクの上に乱雑に積み上げられた書類は、どれも分厚いホコリをかぶり、封蝋すら解かれていないものばかりだった 。
アルベルトは震える指先でそれらをめくった 。
『地方における冷害と、非常用備蓄米の放出申請について』
『隣国グラナダ王国との国境関税交渉に関する最終案』
『王太子妃エレノア様との次期婚礼スケジュールの確認』
どれも国家の根幹に関わる、一刻の猶予も許されない重要書類だった 。
それが、すべて放置されている 。
書類の余白に目をやると、あろうことかアデルの手による不格好な「女の似顔絵」や「今夜の酒会の参加者リスト」が殴り書きされていた 。
アルベルトは喉の奥が乾き切るのを感じた 。
自分は、息子を甘やかしていたつもりはなかった 。
厳しく育ててきたつもりだった 。
だが、息子の実態は——自分の想像を遥かに超えた、救いようのない「愚か者」だったのだ 。
「兄上〜? いらっしゃいますかぁ?」
その時、ノックもなく扉が滑らかに開かれ、一人の青年が室内へ入ってきた 。
第二王子のジュリアンだった 。
隙のない仕立ての良い上着を纏い、顔には穏やかな笑みを浮かべている 。
アデルとは対照的に、常に優等生として名高い腹違いの弟だった 。
「……ジュリアンか」
アルベルトが抑え込んだ声で応えると、ジュリアンは室内をぐるりと見回し、すっと目を細めて小さな鼻鳴らしを漏らした 。
「相変わらず酷い匂いですね、兄上。……朝から父上の執務室に怒鳴り込まれたとか? 門番たちが困っていましたよ」
ジュリアンは無駄のない洗練された所作で歩み寄り、デスクの端に置かれた未開封の書類に一瞬だけ視線を落とした 。
「ジュリアン、お前は……国王陛下の今朝のご様子を見たか?」
アルベルトが相手の瞳を鋭く見つめて問うと、ジュリアンの眉がわずかに跳ね上がった 。
その瞳の奥に一瞬だけ冷たい光が宿り、すぐにいつもの柔和な仮面の下へと隠される 。
「ええ。父上は……どうやら急に『ご乱心』されたようですね。長年の政務でお疲れが出たのでしょうか。今朝の勅令には、重鎮の大臣たちも青ざめておりますよ」
「乱心などではない! あれは……いや、何でもない」
アルベルトは咄嗟に吐き出しそうになった言葉を呑み込んだ 。
「自分が王で、王が自分だ」などと言ったところで、正気を失った狂人として地下牢へ叩き込まれるのが関の山だ 。
「兄上。父上があのようなお状態です。……もし仮に、父上が王としての威信を完全にお失いになれば、次の王位はどうなるとお考えですか?」
ジュリアンは声のトーンを落とし、冷徹な意図を込めて静かに囁いた 。
「何……?」
「兄上がこのような放蕩を続け、父上がご乱心となれば……臣下たちが誰を次の王として担ぎ出すか、火を見るより明らかではありませんか。……どうぞ、ご自愛くださいね、兄上」
ジュリアンはそれだけ言い残すと、美しく恭しい一礼を捧げ、音もなく部屋を立ち去った 。
「あの足取り……まさかジュリアンは、何か勘づいているのか? いや、それ以上に……」
アルベルトは額から流れる冷や汗を拭った 。
宮廷内には、すでに不穏な暗雲が渦巻いている 。
王の暴走と、王太子の愚行 。
この二つが重なれば、我が国は外敵の手を借りるまでもなく、内部から容易く崩壊する 。
【3】
その日の午後 。
アルベルトは、王太子としての信頼をわずかでも取り戻し、この絶体絶命の局目を打開するための協力者を探すべく動き出した 。
真っ先に頭に浮かんだのは、王太子の婚約者である公爵令嬢、エレノアだった 。
エレノアは凛とした気品と卓越した知性を兼ね備えた令嬢であり、アルベルト自身も「我が国最高の王妃になる」と深く信頼を寄せていた人物だ 。
しかし、当のアデルは彼女の真面目さを嫌い、「気位ばかり高くて可愛げがない」と遠ざけ、マリアのような媚びを売る女に走っていたのだった 。
アルベルトは背筋を伸ばし、エレノアの滞在する離宮の応接室へと足を運んだ 。
「アデル殿下……? 一体どのようなご用件でしょうか」
重厚な扉が開き、現れたエレノアは、氷のように冷ややかな瞳でアルベルトを見つめていた 。
背筋をピンと伸ばした美しい立ち姿だが、その瞳の奥には隠しきれない失望と疲弊が沈んでいる 。
「エレノア……突然の訪問を許してくれ」
アルベルトが深く、静かに頭を下げた 。
その動作を見た瞬間、エレノアの息が詰まり、見開かれた瞳が揺れた 。
「あ、頭をお下げにならないでください! 一体どうされたのですか……? いつもなら『地味で可愛げのない女だ』『マリアの方がずっと愛くるしい』と私を蔑むばかりでしたのに……」
「……これまでの無礼を、心から謝罪したい」
アルベルトは真正面から彼女の目を見据えて言った 。
息子の不始末は、育てた親の責任でもある 。
このような気高く聡明な令嬢を、あのアホ息子はどれほど傷つけてきたというのか 。
「エレノア。単刀直入に尋ねる。今の国王陛下……父上のご様子がおかしいことに気づいているか?」
エレノアは美しく整った眉をひそめ、部屋の周囲に人影がないことを確認すると、声を一段低く落とした 。
「……はい。今朝出された『隣国グラナダ王国からの大使に対する即時追放と、関税の三倍引き上げ』の勅令……正気の沙汰とは思えません。グラナダ国は今、我が国との国境付近に軍を集結させております。この時期に大使を追放するなど、自ら戦争を挑んでいるも同然です」
「何だと……!? 開戦の危機がそこまで迫っているのか!?」
アルベルトは絶句した 。
関税の引き上げなど、アデルが平素から「隣国のワインが高いから関税をなくせ」だの「俺を軽視したから懲らしめてやる」だのとうわ言のように言っていたくだらない嫌がらせではないか!
それを、王の権力を使って実行してしまったのだ!
「はい。このままでは、あと三日で隣国との戦争が勃発します。……ですが、アデル殿下。なぜあなたがそのようなことを気になさるのですか? 以前は『戦争になれば僕の騎士団の格好いいところを見せられる』と笑っておいででしたのに」
エレノアの絞り出すような言葉に、アルベルトの胸は引き裂かれる思いだった 。
我が息子は、そこまで無知で愚かだったのか 。
「エレノア。信じられないかもしれないが……よく聞いてほしい」
アルベルトは覚悟を決め、彼女の瞳を直視した 。
「わしは……アデルではない。国王アルベルトだ。あのアホ息子と、身体が入れ替わってしまったのだ」
「……は?」
エレノアの動きが固まり、まるで狂人を見るかのような哀れみの色がその瞳に差した 。
「殿下……ついに頭までおかしくなられたのですか? 戯言も大概にしてください」
「戯言ではない! 証拠を出す! そちが十三歳の時、王宮の庭園で転んで泥だらけになった際、わしが自らハンカチを出して『立派な王妃になれ』と励ましたのを覚えているか! そのハンカチの刺繍は、我が国の国花であるルピナスだった! あれはわしとそちしか知らん秘密のはずだ!」
「え……!?」
エレノアの頬からすっと血の気が引いていく 。
「さらに! 先月、そちが提出した『農政改革案』の裏面に、わしが直筆で『素晴らしい着眼点だ、アデルに見習わせたい』と赤ペンで称賛のメモを残した! あれを見たのはそちだけのはずだ!」
「あ……あのメモ……! 陛下しか、知り得ない……!」
エレノアの指先がかすかに震え始めた 。
彼女は目の前に立つ青白い青年の姿を、穴が開くほど凝視した 。
立ち姿の軸のブレなさ、眼光の鋭さ、溢れ出る重厚な気迫 。
中身がいつもの軽薄なアデルとは完全に異なっていることを、彼女の聡明な頭脳が瞬時に理解し始めていた 。
「本当に……アルベルト陛下……なのですか……?」
「そうだ、エレノア。わしだ。……我が息子の愚行のせいで、この国は今、重大な存亡の危機に瀕している。わしに力を貸してくれまいか!」
アルベルトは息子の身体で、再び固く頭を下げる 。
エレノアは固まったまま数秒間息を止めていたが、やがて深く息を吐き出すと、凛とした強い光を瞳に取り戻した 。
「……承知いたしました、陛下。状況は理解いたしました。……我が国を、あの愚息殿の権力ごっこで滅ぼさせるわけにはまいりません!」
「おお……! 感謝する!」
「まずは、暴走する『王の体の息子』を抑え込み、グラナダ王国との開戦を阻止せねばなりません。……ですが陛下、どうやって元に戻るおつもりですか?」
エレノアの問いに、アルベルトは口元を固く結んだ 。
「入れ替わりの原因は、昨夜アデルが持ってきたあの『秘蔵酒』に間違いない。あの酒の入手元を突き止め、解毒か解除の手段を探す必要がある。……そして、王妃にも協力を仰ぐ」
「王妃様にも、ですか?」
「ああ。あいつなら、夫の身体に入った愚息の違和感にすでに気づいているはずだ」
二人が対策を練り始めたその時——離宮の重厚な扉が、乱暴な音を立てて激しく開け放たれた 。
「ハハハ! ここにいたか、アデル!」
豪奢な王の正装に身を包んだ男——「身体はアルベルト、中身はアデル」が、大勢の近衛兵を引き連れて踏み込んできたのだ 。
その腕には、勝ち誇ったような笑みを浮かべる愛妾マリアがすがりついていた 。
「父上……いや、『アデル』……!」
アルベルトは背筋を伸ばし、鋭い眼光で相手を迎え撃つ 。
王の身体を手に入れた愚息は、下品に口元を歪めながら言い放った 。
「良い知らせだぞ、アデル! お前がいつも煙たがっていたこのエレノアとの婚約は、本日をもって破棄と決めた! 新しい王太子妃には、このマリアを迎えることにする! 感謝しろよ、お前の望みを叶えてやったんだからな!」
「な……何だとぉッ!?」
アルベルトの腹の底からの怒号が、静かな離宮の応接室にどこまでも激しく響き渡った 。
(第2話へ続く)
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