第49話:滅びたはずの家名
窓の外が白み始めても、アルベルトは椅子から動かずにいた。机上の封蝋の欠片は、燭台の炎が尽きた今も、鈍い光を放っている。一晩かけて睨み続けた図案は、目に焼き付いて離れなかった。
控えめな音を立てて扉が叩かれた。
「殿下、まさか一睡もされていないのですか」
入ってきたランバートの声に、アルベルトは目を上げた。無精髭の伸びた顎、赤く充血した目元が、彼もまた一睡もしていないことを物語っている。
「一睡もしておらぬのは、そなたも同じと見える」
「宮廷図書室の記録係を叩き起こしましてね。おかげで、こちらが判明いたしました」
ランバートは、古びた紋章帖を机の上に広げた。黄ばんだ頁の隅に、見覚えのある図案が描かれている。剣を咥えた双頭の鷲、その下に細かな銘が刻まれていた。
「ケルシュタット公爵家。先々代の御世に、王位簒奪を企てて取り潰された家系だそうです」
アルベルトは、紋章帖の頁を指先でなぞった。羊皮紙は乾いて脆く、触れるだけで端がわずかに欠ける。
「取り潰されたはずの家名が、なぜ今になって出てくる」
「記録では、当主とその嫡子は処刑、傍系の者たちは国外追放とあります。ですが、追放された傍系の一人が、隣国で名を変え、密かに血筋を残していたという噂が、当時から絶えなかったそうです」
アルベルトは、椅子の背にゆっくりと体を預けた。徹夜明けの重い頭を、指先で軽く押さえる。
「牢の男は、口を割ったか」
「いいえ。夜通し問い詰めましたが、名も、雇い主も、一切」
ランバートは首を振り、懐から折り畳んだ紙片を取り出した。
「ただ、書状のほうは、暗号方に解読させました。要点だけ、お伝えいたします」
差し出された紙片を、アルベルトは受け取った。走り書きの文字が、几帳面に並んでいる。
「『戴冠の日、王宮の内より事を成す。手筈通り、旧礼拝堂にて刻を待て』……とあるだけか」
「はい。旧礼拝堂と申しますと、西の外れの、とうに使われなくなった礼拝堂かと」
「王宮の内より、とある。つまり」
「はい。手引きする者が、すでに内側にいる、ということです」
言葉にされた途端、部屋の空気が一段と重くなった気がした。アルベルトは紙片を机上に置き、じっと見つめた。誰であれ、この宮廷に仕える者の中に、裏切りの芽が潜んでいるという疑いは、容易には拭えない。
そこへ、慌ただしい足音とともに、扉が再び叩かれた。入ってきたのは、夜番を務めていた衛兵の一人だった。
「殿下、ご報告が。厨房付きの下働き、トマスという男が、昨夜の点呼より姿を見せておりません。雇われてまだ日の浅い者で、身元の確認が甘かったと、厨房頭が己を責めております」
アルベルトとランバートは、顔を見合わせた。
「その者が、内通者か」
「今のところ、そう見るのが最も筋が通ります。厨房から裏庭へ抜ける通用口は、夜間の見張りが手薄でしたので」
衛兵が下がると、アルベルトは紙片を握りしめた。
「旧礼拝堂だな」
「殿下、まさか」
「戴冠の日を待って迎え撃つより、刻限を悟られる前に、こちらから叩く」
ランバートは、束の間言葉に詰まった後、深く頭を下げた。
「かしこまりました。すぐに人数を整えます」
半刻の後、アルベルトはランバートと屈強な兵たちを伴い、西の外れへと馬車を走らせた。旧礼拝堂は、蔦に覆われた石壁だけを残し、屋根の半ばが崩れ落ちていた。近づくにつれ、かすかな話し声と、燭台の淡い灯りが、割れた窓の隙間から漏れているのが見て取れた。
ランバートが、声を潜めて指示を飛ばす。
「正面と裏手、双方から取り囲め。合図まで動くな」
兵たちが音もなく散っていく。アルベルトは、崩れかけた柱の陰から中の様子を窺った。祭壇の前に、粗末な外套を纏った数人の男たちが集まっている。その中央に、白髪の交じった痩身の老爺が立っていた。
合図とともに、兵たちが一斉に踏み込んだ。男たちは剣を抜く間もなく取り押さえられ、抵抗らしい抵抗もないまま、次々と縄をかけられていく。ただ一人、老爺だけが、悠然とその場に立ち尽くしていた。
アルベルトは、灯りの下へと進み出た。
「そなたが、ケルシュタットの生き残りか」
老爺は、皺の刻まれた顔にかすかな笑みを浮かべた。
「いかにも。血筋を絶やさぬために、この歳まで生き延びてきた甲斐が、ようやくあったというものだ」
「戴冠の日を狙ったところで、何が変わる」
「変わりはせぬ。だが、王家に一矢報いずして、先祖の無念は晴れぬ。それだけのことよ」
老爺の声には、恨みよりも、乾いた諦めが色濃く滲んでいた。アルベルトは、しばしその顔を見つめた。
「己の代で終わる恨みを、次代にまで背負わせずに済んだことを、せめて良しとせよ」
老爺は答えず、ただ静かに目を伏せた。兵たちに引き立てられていくその背を、アルベルトはしばらく見送っていた。
帰路、馬車の中でランバートが口を開いた。
「殿下。此度の一件、いかがなさいますか。公にすれば、また宮廷が騒然といたしましょう」
「大げさにする必要はない。オルグレン家の残党狩りの延長として、内々に処理せよ。厨房の男の行方は、引き続き追え」
「畏まりました」
執務室に戻ると、報せを聞きつけたエレノアが、すでに待っていた。
「ご無事で、何よりです」
「案ずるほどのことはなかった」
アルベルトは、椅子に深く腰を下ろした。窓の外では、王都の朝がいつも通りに動き出している。市場に向かう荷馬車の音、鐘楼の鳴らす刻の音、変わらぬ喧騒が遠くから響いてきた。
「滅びたはずの家名まで、この身を狙って蠢いていた。だが、それも今日で終いだ」
エレノアは、静かに頷いた。
「継承の儀のことでしょうか」
「これ以上、先延ばしにする理由はない。灰衣の男も、ケルシュタットの残党も、片が付いた。わし一人の迷いを理由に、いつまでも玉座を空けておくわけにはいかぬ」
アルベルトは、机上の紋章帖と封蝋の欠片を、引き出しの奥へとしまい込んだ。
「ランバート、重臣たちに触れを出せ。継承の儀を、来月の満月の夜に執り行う」
ランバートは、驚いたように目を見開いた後、深く一礼した。
「……承知いたしました。すぐに手配いたします」
エレノアもまた、居住まいを正して頭を下げた。
「その日を、心よりお待ちしております」
アルベルトは、紋章帖をしまい込んだ引き出しに、しばし目をやった。滅びたはずの家名も、名も知れぬ内通者も、この身が玉座に着くまでの、最後の関門に過ぎない。残された時は、もうそう長くない。
(第50話へ続く)




