第50話(最終話):君臨すれど
満月の夜が近づくまでの一月、ランバートは王都の隅々にまで見張りを張り巡らせた。姿を消したトマスは、国境近くの町で見つかり、雇い主の名を洗いざらい白状した。ケルシュタットの残党に金で雇われただけの、ただの小悪党だったという。灰衣の男もまた、長い沈黙の末についに口を割り、オルグレン家の残党から流れ着いた最後の一人に過ぎなかったことが判明した。この国を脅かしていた影は、こうして一つ残らず取り除かれた。
式の前夜、アルベルトは執務室にエレノアを呼んだ。燭台の炎が、机上に積まれた書類の影を壁に長く伸ばしている。窓の外には、明日を控えた王都が、いつもより静かに沈んでいた。
「夜分に、すまぬ」
入ってきたエレノアに、アルベルトは椅子を勧めた。彼女が腰を下ろすのを待ってから、机を挟んで向かい合う。
「明日のことだが」
アルベルトは、指先で机の縁をなぞりながら、言葉を選ぶように続けた。
「継承の儀の場で、そなたを王妃に迎えると発表する。だが、これは重臣たちの取り決めでも、ヴィクトリアの意向でもない。わし自身の望みとして、改めて問いたい」
エレノアは、束の間、息を呑んだ。膝の上で重ねた両手に、わずかに力がこもる。燭台の炎が、彼女の白い頬にゆらゆらと影を落としていた。
アルベルトは椅子から立ち上がると、机を回り込み、彼女の前に片膝をついた。明日にはこの国の頂に立つ者が、こうして誰かの前に膝を折る。その姿を見て、エレノアは思わず腰を浮かしかけたが、アルベルトの手が、それを静かに制した。
しばしの沈黙が落ちる。窓の外を、夜風が低く鳴って過ぎていった。
「この身が永遠にここへ留まると分かってから、この日々を積み重ねる中で、わしの心はしだいに定まっていった。ヴィクトリアも、それを認めてくれている。だからこそ、今日、そなたに問いたい」
エレノアは、そっと目を伏せた。
「殿下……」
エレノアが何か言いかけたが、続く言葉は出てこなかった。
「この身は、若い王太子の姿のままだ。老いた魂を宿す、この奇妙な身を、それでも隣で支えてくれるか。生涯、ずっと」
飾り気のない、いつもの言い切りの調子だった。だが、その一言に、これまでの日々のすべてが込められているのが、エレノアにも伝わった。何度も足を運んだ試作地でのやり取りも、財政再建で夜を徹した日々も、幾度も交わした言葉の一つ一つが、確かにここに繋がっているのだと。
エレノアの目に、みるみる光るものが滲んだ。それでも彼女は、背筋を伸ばしたまま、はっきりと答えた。
「謹んで、お受けいたします」
声は、わずかに震えていた。アルベルトが立ち上がると、エレノアは震える指先で、そっと目元を拭った。しばらくの間、二人とも言葉を発さず、ただ互いの息遣いだけが、静かな部屋に満ちていた。
「今さらだが、政略でも義理でもなく、そなた自身に問いたかった」
「存じております。だからこそ、これほど嬉しいのです」
エレノアは、深く息を吸い込み、いつもの凛とした表情に戻った。
「殿下と初めてお会いした日のことを、今でもよく覚えています。婚約者として引き合わされただけの、他人行儀な間柄でした。それが、こうして生涯を誓い合う日が来るとは、あの頃は思いもよりませんでした」
「あの頃のそなたも、随分と気の強い令嬢だったな」
「殿下こそ、いつも人を食ったようなお顔をなさっていました」
二人は、束の間、小さく笑い合った。窓の外で、夜警の交代を告げる鐘の音が、遠く低く響いてくる。
「明日は、堂々とした姿でお応えいたします」
「楽しみにしている」
夜が更けるまで、二人はしばし、これまでの日々を振り返りながら、明日への支度について静かに言葉を交わし続けた。
当日の朝、アルベルトは着慣れぬ礼装に袖を通しながら、鏡に映る己の姿を見つめていた。若い顔立ち、細い肩。だが、その奥に宿るものは、この国を長く支えてきた王の魂だった。
「殿下。お支度は、そろそろよろしいでしょうか」
控えの間に入ってきたランバートが、礼服姿で深く一礼した。普段の武人らしい装いとは違う、儀礼用の正装に身を包んだその姿は、どこかぎこちなく映る。
「そなたのその格好を見るのは、初めてだな」
「柄にもございませんので、どうかお笑いにならないでください」
ランバートが照れたように咳払いすると、アルベルトはわずかに口の端を緩めた。
「今日まで、よく支えてくれた」
「勿体なきお言葉です。ですが、礼を申し上げるのは、こちらの方でございます」
ランバートは、まっすぐにアルベルトを見た。
「崩れかけたこの国を、ここまで立て直されたのは、殿下おひとりの御力です」
アルベルトは、それには答えず、静かに窓の外へ目をやった。大聖堂へと続く道には、すでに大勢の民が詰めかけ、祝いの旗が風にはためいている。
大聖堂の広間には、国中の重臣、貴族、諸国からの使者が居並んでいた。グラナダの使節ディエゴの姿も、その中にある。祭壇の奥には、代々の王が戴いてきた王冠が、厳かな光を放って安置されていた。
議長役を務める老臣が、朗々と声を張り上げる。
「唯一の継承者たる王太子アデル殿下、御前へ」
アルベルトは、ゆっくりと祭壇への道を歩んだ。左右に居並ぶ人々の視線が、一斉にこちらへ注がれる。かつて放蕩を尽くし、民の信を失っていたはずのこの身に、今は疑いの色を浮かべる者は、誰一人いなかった。
老臣が、王冠を捧げ持って進み出た。
「アデル王太子殿下。汝、この国と民を導く王たる責務を、生涯を賭して全うすると誓うか」
アルベルトは、静かに頭を垂れた。
「誓う」
その一言に、万感がこもっていた。誓いの相手は、目の前の老臣だけではない。この身に最期まで宿っていた、あの愚息にも、失われた多くの命にも、彼は誓っていた。
王冠が、アルベルトの頭上に戴かれる。大聖堂に、割れんばかりの歓声が響き渡った。
「国王アデル陛下、万歳」
その声を浴びながら、アルベルトはふと、かつての自分自身の亡骸が横たわっていたこの同じ聖堂を思い出していた。あの日、彼はすべてを失ったと思っていた。だが今、この場所は、新たな始まりの舞台となっている。
式は、なおも続いた。老臣が、今度は別の書状を掲げる。
「陛下におかれましては、この良き日をもって、エレノア・ハリントン公爵令嬢を王妃として迎えられる」
傍らに控えていたエレノアが、静かに進み出た。純白の衣に身を包んだ姿は、いつもの凛とした佇まいそのままに、けれど確かな緊張を纏っている。
アルベルトは、彼女の髪に挿された、麦穂を象った銀細工の髪飾りに目を留めた。ヴィクトリアから託されたそれは、朝日を受けて静かに輝いていた。
「エレノア」
「はい」
「そなたと共に、この国を担っていく」
エレノアは、まっすぐにアルベルトを見つめ返した。
「その隣に立てることを、生涯の誇りといたします」
誓いの言葉が交わされ、二人の指に、揃いの指輪が嵌められる。大聖堂は、先ほどにも増して大きな歓声に包まれた。
式典が終わり、王宮のバルコニーに二人が姿を現すと、詰めかけた民衆から地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「国王陛下、万歳」「王妃様、万歳」
手を振る民の中には、かつて収穫祭で言葉を交わした農夫や、幼い娘に麦の穂を渡された母親の姿もあった。エレノアが小さく手を振り返すと、歓声はいっそう高まった。
バルコニーの片隅には、ヴィクトリアが静かに佇んでいた。豪奢な祝いの装いに身を包みながらも、その表情には、喜びだけでは括れない複雑な色が滲んでいる。
式典の合間、控えの間で二人きりになった時、アルベルトはヴィクトリアに声をかけた。
「辛くはないか」
ヴィクトリアは、束の間黙り込んだ後、静かに首を振った。
「辛くない、と言えば嘘になります。ですが」
彼女は、窓の外に広がる祝いの光景へ目を向けた。
「あの子の顔で、あの子の名で、これほど多くの民に慕われる姿を見られたことを、今は誇りに思っています」
「……礼を言う」
「礼など、要りません。母として、当然のことをしたまでです」
ヴィクトリアは、そう言って柔らかく微笑んだ。その微笑みには、夫を送り出す妻の顔と、息子を見守る母の顔が、静かに重なっているようだった。
夜も更けた頃、宴を抜け出したアルベルトは、エレノアと共に、人気のない回廊に立っていた。眼下には、灯りの絶えることのない王都が広がっている。
「長い道のりだった」
アルベルトは、独り言のように呟いた。
「崩壊寸前と囁かれたこの国も、こうして立ち直った。だが、失ったものの重さは、決して消えぬ」
アデルという名の、もう一つの命。ジュリアンという、道を違えた息子。数えきれぬほどの、取り返しのつかない代償。それらを抱えたまま、彼はこれからも王として立ち続けなければならない。
エレノアは、そっとアルベルトの隣に立った。
「その重さを、これからは共に背負わせてください」
アルベルトは、彼女の横顔を見つめた。若い王太子の姿を借りたこの身に、老いた魂が宿っていることを、彼女はとうに知っている。それでもなお、隣にいたいと願ってくれる人がいる。それだけで、この身に課せられた重責も、いくらかは軽くなる気がした。
「うむ。共に、この国を背負っていこう。それが、ヴィクトリアの献身に報いることにもなるはずだ」
王都の灯りが、二人を静かに照らしていた。かつて崩壊寸前と囁かれたこの国は、幾多の喪失を乗り越え、今ここに新たな一頁を開いた。若き姿の王と、その隣に立つ王妃。そして、複雑な想いを抱えながらも二人を見守る王妃の母。それぞれの喪失と再生を胸に抱きながら、彼らはこれからも、この国と共に生きていく。
(完)
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