第48話:夜に追い詰めた影
外套の前を掻き合わせながら、アルベルトは階段を駆け下りた。叩き起こされたばかりの頭に、夜気が冷たく染み込んでくる。
中庭に出ると、松明を手にした兵たちが、すでに列をなして待ち構えていた。冷えた夜気が、頬を刺すように叩く。厩の方角から、落ち着かぬ馬の嘶きと、蹄が石を打つ音が響いてくる。
ランバートが、外套を羽織り直しながら駆け寄ってきた。
「殿下。旧市街の南門は、すでに閉ざしました。北門と西の裏木戸も、間もなく手配が済みます」
アルベルトは、灰衣の男の行方を尋ねた。
「灰衣の男の足取りは」
ランバートが、すぐに答えた。
「一度は見失いましたが、革なめし場の裏手で、再び人影を見たとの報せが入りました」
アルベルトは頷き、松明の炎に照らされた兵たちの顔を、一人一人見渡した。若い兵の頬に浮かぶ緊張、年配の兵の落ち着いた目つき、どれもが、この半年で見慣れたものだった。
アルベルトはそう思いながら、踵を返そうとした。
「わしも行く」
ランバートが、慌てて眉を寄せて立ちはだかった。
「殿下。危のうございます」
アルベルトは、ランバートを見据えて答えた。
「捕り物は、そなたたちに任せる。だが、事の次第は自らの目で見届けたい」
その言葉に、ランバートは束の間黙り込んだ後、深く息を吐いた。
「……せめて、後方にお控えください。それだけは、お約束いただきます」
アルベルトは、短く答えた。
「わかった」
一行は、松明の灯りを連ねながら、旧市街への坂道を下っていった。石畳は夜露に湿り、踏むたびに小さな音を立てる。両側に並ぶ空き家の壁は、月明かりの下で黒々とした影を伸ばし、時折、割れた鎧戸が風にきしんだ。
半刻ほど坂を下ったところで、アルベルトは次第に息を切らせていった。夕刻まで続いた政務の疲れが、今になって足に重くのしかかってくる。傍らを歩く兵が気づき、歩調をわずかに落とした。誰の口からも指摘は出なかったが、その気遣いだけで十分だった。
革なめし場に近づくにつれ、鼻を突くような獣脂の匂いが強くなった。積み重ねられた樽の間から、先行していた兵の一人が小さく手を上げ、前方を指し示す。
「あそこに」
声を潜めた指の先、崩れかけた塀の陰に、灰色の外套を纏った人影が、身を屈めて動いていた。気づかれたと察したのか、人影はすぐに身を翻し、狭い路地の奥へと駆け出していく。
ランバートが、鋭く声を張った。
「追え。決して逃すな」
その号令に、兵たちが一斉に路地へ飛び込んでいった。アルベルトは後方に控えたまま、松明の灯りが路地の奥で乱れ動くのを見つめていた。胸の奥に、鈍い拍動が速まるのを感じていた。
路地の先は、古い織物工房の跡地だった。崩れた屋根から月明かりが差し込み、埃を被った織機の残骸が、あちこちに骸のように転がっている。灰衣の男は、その残骸の間を縫うようにして奥へ奥へと逃げ込んだ。
だが、行き止まりの壁に突き当たると、ようやく動きを止めた。振り返った先には、剣を構えた兵たちが、じりじりと距離を詰めている。
追い詰められた灰衣の男に、兵の一人が声をかけた。
「もう逃げ場はない。抵抗するな」
灰衣の男は無言のまま、懐に手を差し入れた。抜き出されたのは、小刀ではなく、油紙にくるまれた小さな包みだった。男はそれを、崩れた壁の隙間へ投げ込もうとする。
ランバートが、鋭く命じた。
「捕らえよ」
その声が響くと同時に、二人の兵が左右から男の腕を押さえ込んだ。男は激しく身をよじり、押さえていた兵の一人が体勢を崩して織機の残骸に倒れ込む。乾いた木の折れる音が、静まった工房跡に響いた。
もう一人が、投げ捨てられかけた包みを、間一髪で拾い上げる。数の上ではどうにもならず、灰衣の男は、じきに縄をかけられ、地面に膝をつかされた。
アルベルトは、控えていた場所からゆっくりと歩を進めた。灯りの下に引き据えられた男の顔には、頭巾に加えて薄布が巻かれ、素顔は依然として窺えない。
アルベルトは、引き据えられた男に問うた。
「名を名乗れ」
男は俯いたまま、しばらく答えなかった。
やがて、男は薄布の奥から、乾いた声を漏らした。
「……名など、とうに捨てた」
アルベルトは、なおも問いを重ねた。
「誰に使われている」
男は、短く鼻を鳴らした。
「知ったところで、王太子殿下に得るものはない」
男はそれきり、口を閉ざした。ランバートが、拾い上げた包みの油紙を丁寧に解いていく。中から出てきたのは、一枚の書状と、見慣れぬ紋章の刻まれた小さな封蝋の欠片だった。
ランバートが、書状に目を落とし、思わず声を上げた。
「これは……オルグレン家の紋ではございません。もっと、遠方の家のもののようです」
アルベルトは、封蝋の欠片を受け取り、灯りの下でじっと見つめた。見覚えのない図案、しかし明らかに、由緒ある家門を示す作りだった。
「オルグレン家の残党狩りで、根は絶ったはずだ」
ランバートも、封蝋を覗き込みながら頷いた。
「私も、そう思っておりました。この男が最後まで隠し持っていたものだとすれば……」
ランバートは、そこで言葉を切った。二人の間に、しばしの沈黙が落ちる。工房跡に差し込む月明かりが、砕けた織機の影を、地面に細く長く伸ばしていた。
アルベルトは、静かに命じた。
「この男を牢へ。書状は、朝になったら精査する」
「承知いたしました」
兵たちに引き立てられていく男の背を、アルベルトは見送った。捕らえた安堵よりも、封蝋に刻まれた見知らぬ紋章への疑念のほうが、胸の奥に重く沈んでいく。
旧市街の空に、薄い雲が月をかすめて流れていった。松明の灯りが一つ、また一つと引き上げていく中、アルベルトはその場にしばし立ち尽くしていた。
帰路、坂を上るアルベルトの足取りは、来た時よりもいくらか重かった。
傍らを歩くランバートが、ふと口を開く。
「殿下。今宵の首尾を、ヴィクトリア様やエレノア様には、どうお伝えいたしましょう」
アルベルトは、少し考えてから答えた。
「灰衣の男を捕らえたことだけを、まず伝えよ。この封蝋の件は、精査が済むまで伏せておく」
「畏まりました」
ランバートは、そう答えると、それ以上は問わなかった。宮殿の灯りが、坂の上に見え始める。捕らえた男の口の重さが、かえってこの一件の根の深さを物語っているようで、アルベルトの胸中には、安堵よりも新たな警戒が募っていった。
執務室に戻ったアルベルトは、外套を脱ぐより先に、懐から封蝋の欠片を取り出した。灯した燭台の炎に翳し、刻まれた図案を改めて見つめる。継承の儀を控えたこの国に、まだ見えぬ根が残っているのだとすれば、油断はどこにもなかった。
夜明けまでには、まだしばらくの時がある。アルベルトは欠片を机上に置くと、椅子に深く座り直し、朝を待つことにした。
(第49話へ続く)




