第47話:立派な王妃への約束
窓辺に立ったまま、アルベルトは指折り数えていた懸案を、いったん頭の隅へ押しやった。灯し始めたばかりの燭台の炎が、机上の書状の束にゆらゆらと影を落としている。蝋の焦げる匂いに混じって、冷え始めた夜気が、開け放たれたままの窓からかすかに忍び込んでいた。
王都の甍の連なりに、灯りがぽつぽつと増えていく。継承の儀に向けて片付けねばならぬことの多さを、指折り数えるだけでは、いつまで経っても終わりが見えなかった。
控えめな音を立てて、扉が叩かれた。
「殿下。エレノア様がお見えです」
侍女の声に、アルベルトは書状を置いた。
「通せ」
入ってきたエレノアは、手にした帳面を胸に抱えていた。装いはすでに旅装ではなく、宮廷での日常のものに戻っている。
「夜分に申し訳ございません。来季の種苗の見積もりが、ようやくまとまりましたので」
「急ぐ話か」
「いいえ。ただ、殿下がまだお仕事中だろうと思い、足を運びました」
エレノアは帳面を机上に広げ、指先で数字の並びをなぞってみせた。羊皮紙の隅には、細かな走り書きがびっしりと連なっている。
「周辺の五つの村に配る分と、王都近郊の指導役の宿代まで、すべて含めた見積もりです」
「思ったより、抑えられているな」
「ランバート様に、費目の削れる部分を細かく教えていただきました。此度ばかりは、私一人の手柄ではございません」
アルベルトは帳面に目を通しながら、小さく頷いた。羊皮紙の端が、指先の動きに合わせてかさりと乾いた音を立てる。
「指導役の人選は、目処が立っているか」
「近隣の村で長年畑仕事をしてきた者を、五人ほど選びました。若い者だけでは、村の年寄りたちの信を得るまでに時がかかりますので」
エレノアは、帳面の余白に書き添えた名を、指先でそっと示してみせた。
「抜かりないな」
「殿下に教わったことです。急いては、事を仕損じると」
エレノアがそう言って小さく笑うと、部屋の空気がわずかに和んだ。窓の外では、王都の灯りが一つ、また一つと灯り始めている。
そこへ、再び扉が叩かれた。顔を覗かせた侍女が、遠慮がちに告げる。
「エレノア様。恐れ入りますが、ヴィクトリア様が、お二人だけで少しお話ししたいと仰せです」
エレノアは軽く目を瞬かせ、アルベルトへ視線を向けた。
「私に、でしょうか」
「心当たりはない。だが、断る理由もあるまい」
アルベルトがそう答えると、エレノアは帳面を閉じ、居住まいを正した。
「畏まりました。伺って参ります」
一礼して部屋を出ていくエレノアの背を、アルベルトはしばらく見送っていた。何を話すつもりなのか、見当はつかない。ただ、胸の奥に小さな緊張が生まれるのを、押し隠すことはできなかった。
一方のエレノアも、渡り廊下を歩きながら、幾度も心当たりを巡らせていた。政務の相談であれば、こうして二人だけで、という前置きはつくまい。込み上げる不安を押し殺しながら、案内の者の後についていく。
ヴィクトリアの居室は、寝所とは別に設けられた小さな居間だった。壁際の燭台に炎が揺れ、刺繍途中の布が籠の中に丸めて置かれている。乾いた薔薇の香りが、閉め切った窓の内側にほのかに漂っていた。
案内されて入ってきたエレノアを、ヴィクトリアは長椅子から立ち上がって迎えた。
「急に呼び立てて、すみません。座ってください」
勧められるまま、エレノアは向かいの椅子に腰を下ろした。ヴィクトリアは自らも座り直し、しばらく黙って手元の茶器を見つめていた後、静かに口を開いた。
「単刀直入に言います。あなたと王太子は今も婚約者のままとなっています。あなたの気持ちを聞きたいと思っております。」
エレノアは束の間言葉を探した。それから、居住まいを正して答えた。
「不躾に聞こえるかもしれませんが、正直にお答えいたします。私は殿下をお慕いしています。あの方が常にご自身よりも民や国を先に考えるお人だからです。厳しいお言葉の裏に、いつも不器用な優しさが透けて見えます。それは、私が試作地に何度も足を運んでいた頃から、変わらずにあるものです」
ヴィクトリアは頷きも否定もせず、しばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言葉を継いだ。
「正直に申しますと、今でも時折、分からなくなります。あの方はたしかに夫の魂を宿しておられる。ですが、その体は、私が産み、育てきれなかった息子のものです」
エレノアは、静かに耳を傾けていた。
「その体を通して、あなたが夫を見ているのか、それとも息子の面影を重ねているのか……時折、境目が分からなくなるのだと、正直に打ち明けます」
「……お気持ちは、想像することしかできません」
エレノアは、そう応じるのが精一杯だった。ヴィクトリアは、そこで初めて表情を緩めた。
「ですが、この半年余り、あなたが殿下に向けてきた振る舞いを、私はずっと見て参りました。困難な場面ほど前に出て、殿下を支えようとするその姿は、亡くなった息子への憐れみでも、夫への未練でもありません。今、目の前にいるあの方お一人へ向けられたものだと、ようやく得心がいきました」
「ヴィクトリア様……」
「もう一つ、伺わせてください。あなたは、王妃という座がどれほど重いか、分かっていますか」
ヴィクトリアの声には、詰問めいた響きはなかった。ただ、静かに事実を確かめるだけの色があった。
「王妃は、民の暮らしを担う立場であると同時に、常に人の目に晒され、時に心無い噂の的にもなる立場です。かつて私自身、ジュリアン殿下の起こした一件で、母としての育て方を陰で謗られ、長らく肩身の狭い思いをして参りました」
「存じております。それでも、逃げるつもりはございません」
エレノアは、背筋を伸ばしたまま答えた。
「試作地に何度も足を運んでいた頃、貴族のお嬢様の道楽だと陰口を叩かれたこともございます。ですが、結果さえ出せば、いずれ人の目は変わる。それを、この身で学んで参りました」
「……頼もしい答えです」
ヴィクトリアは、そこでようやく口元をほころばせた。
「エレノア嬢。一つ、約束してほしいことがあります」
「何なりと」
「殿下の隣に立つならば、想いを交わすだけでは足りません。この国を背負う王妃として、民の暮らしを守り、時に殿下を諫める強さを持ってほしいのです。あなたなら、それができると信じています」
エレノアは、両手を膝の上できつく重ねた。
「お約束いたします。麦の穂を実らせたように、この国の行く末も、諦めずに育てて参ります」
ヴィクトリアは満足げに頷くと、傍らの小箱を手に取り、蓋を開けた。中には、麦穂を象った銀細工の髪飾りが収められている。
「これは、代々の王妃に受け継がれてきた品です。私の代では、出番のないままだと思っておりました」
差し出された髪飾りへ、エレノアはそっと手を伸ばした。
「……身に余る品です」
「いいえ。麦の穂を選んだ意匠は、豊かな実りを国にもたらす王妃であれ、という願いが込められているのだそうです。今のあなたに、これほど相応しい品はないでしょう」
エレノアは、髪飾りをきつく握りしめ、深く頭を下げた。
「大切にいたします」
髪飾りを両手で包み込むように持つエレノアの姿に、ヴィクトリアは目を細めた。かつて自分がこの品を初めて手にした日のことを、遠く思い返しているようだった。
「ただし」
ヴィクトリアは、少し声の調子を改めた。
「継承の儀を挙げるまでは、これはあくまで私の中の得心に過ぎません。表立って口にすることは控えてください」
「心得ております」
エレノアが辞去した後、ヴィクトリアはしばらく一人で椅子に座ったまま、閉じた小箱の蓋を指先でなぞっていた。それから静かに立ち上がり、その足でアルベルトの執務室へと向かった。
扉を叩く音に、アルベルトは顔を上げた。
「まだ起きていたか」
「少し、お話ししておきたいことがございまして」
ヴィクトリアはそう言って、向かいの椅子に腰を下ろした。窓の外はすっかり暮れ、遠くで犬の吠える声が一つ二つ響いていた。
「先ほど、エレノア嬢と話しました。あの子になら、殿下の隣を任せられると、腹を括りました」
アルベルトは、束の間、何も言えなかった。
「良いのか」
「良いも悪いも、もう迷う段階は過ぎました」
ヴィクトリアは膝の上で両手を重ね、静かに続けた。
「私は、あなたの妻として、あなたを送り出すべきなのか。それとも、息子を送り出す母として、あの子の隣にいる人を認めるべきなのか。この半年、ずっと分からずにおりました」
アルベルトは、黙って耳を傾けた。
「ですが、答えは、初めから一つしかなかったのですね。私はもう妻ではなく、母として、あなたと、あの子の行く末を見守ります」
アルベルトは深く息を吸い込んだ。込み上げてくるものを、言葉にする術が見つからなかった。
思えば、この身に宿ってからというもの、ヴィクトリアには詫びる機会すらろくに与えてこなかった。夫としても、父としても、満足に務めを果たせなかった負い目が、今さらのように重くのしかかる。
「……礼を言う。そなたにばかり、重いものを背負わせた」
「重いのは、殿下も同じでしょう」
ヴィクトリアは、そう言って小さく笑った。それから居住まいを正し、いつもの丁寧な口調に戻る。
「ただし、継承の儀を挙げるまでは、正式な話にはいたしません。あくまで、私の中で得心がついた、というだけのことです」
「承知した」
ヴィクトリアは、椅子から立ち上がりかけたところで、ふと動きを止めた。
「一つだけ、聞いてもよろしいですか」
「なんだ」
「あの子に王妃の座を託すと決めて、清々しいですか。それとも、どこかで寂しくもありますか」
アルベルトは、しばし答えに詰まった。窓辺に置かれた燭台の炎が、わずかに揺れて壁に影を這わせる。
「両方だ、というのが正直なところだ」
「ふふ。存外、正直な答えですね」
ヴィクトリアはそう言うと、静かに立ち上がり、扉へ向かって歩き出した。
そこへ、廊下を駆けてくる足音が近づいてきた。扉を叩く間も惜しむように、息を切らせたランバートが飛び込んでくる。
「殿下、火急の報せです」
その只ならぬ形相に、扉の前で足を止めていたヴィクトリアが振り返り、アルベルトも椅子を蹴るように立ち上がった。
「何事だ」
「旧市街の見張りより、たった今、灰衣の男らしき人影を、王都の外れで見たとの報せが。すでに二名を追わせておりますが、暗がりに紛れられ、いまだ取り逃したままとのことです」
アルベルトの喉の奥で、何かが強く締めつけられた。せっかく得た確かな約束の余韻が、一瞬にして張り詰めた緊張に塗り替えられていく。
「今度こそ、逃がすな。周辺の門はすべて閉ざし、旧市街への出入りを検めよ」
「はっ。すでに追跡の手配を進めております」
ランバートは一礼すると、踵を返して駆け去っていった。その足音が遠ざかるのを見送りながら、ヴィクトリアは静かな声で言った。
「油断は禁物です」
「わかっている」
窓の外、王都の灯りの向こうに、闇が一段と濃さを増していた。ようやく得た約束の重みを噛みしめる間もなく、また新たな影が、目の前に立ちはだかろうとしている。
机上には、先ほどまでヴィクトリアが座っていた椅子だけが、静かに取り残されていた。継承の儀への道のりは、まだ半ばにも達していない。アルベルトは外套を羽織ると、報告を受けるため、灯りを落とした執務室を後にした。
(第48話へ続く)




