第46話:立派な王太子へ
オルグレン家の一件から、半月が過ぎた。執務室の窓からは、色づき始めた庭木の梢が見える。積み上げられていた書類の山も、いつしか目に見えて低くなっていた。朝の空気には、夏の名残の湿り気に代わって、乾いた涼しさが混じり始めている。
ランバートが、めずらしく穏やかな顔で報告に訪れた。
「オルグレン家の残党狩りは、ひとまず片が付きました。灰衣の男の行方は、いまだ知れませんが」
「根までは絶てずとも、当面の牙は抜いた。それで十分だ」
「引き続き、旧市街を中心に探らせております。手がかりが見つかり次第、すぐさまご報告いたします」
「頼む。奴らは、思っている以上に執念深い」
アルベルトは、机上の帳簿へ目を落としたまま答えた。数字の並びは、以前よりもいくらか穏やかなものに変わっている。
「財務のほうも、落ち着いてきたようですね」
「エレノアの麦とグラナダとの取り決めが、思った以上に早く実を結んでいる。それだけの話だ」
ランバートは、報告書の束をめくりながら続けた。
「加えて、国境沿いの見張り台の普請も、順調に進んでおります。グラナダ側の農務官も、来月には到着する見込みとか」
「双方の懐にとって、悪い話ではない」
昼過ぎ、国境の関所から早馬が到着したとの報せが届いた。ランバートが、見慣れぬ封蝋の押された書状を携えて、再び執務室へ戻ってくる。
「グラナダより、正式な返答にございます」
アルベルトは、封を切り、目を通した。文面を追う指先が、一行ごとに止まる。
「後方支援の一文、見張り台の費えの分担、いずれも先方が受け入れたようだ。文句のつけようもない」
「これで、名実ともに、確かな同盟となりましたな」
「ディエゴ殿の人となりを、信じた甲斐があった」
アルベルトは、書状を丁寧に畳み直した。国境の向こうから伸びてきた細い糸は、いつしか、たしかな絆へと形を変えている。
そこへ、扉が控えめに叩かれた。入ってきたのはヴィクトリアだった。手にした書状の束を、机の端にそっと置く。
「重臣会議での評判を、まとめて参りました。ご覧になりますか」
「読んでくれ」
ヴィクトリアは、書状に目を落としながら続けた。
「かつて祝宴の縮小に不満を漏らしていた者たちが、揃って手のひらを返しております。曰く、殿下の御手腕あってこそ、この国はここまで持ち直した、と」
「掌を返すのは、あの者たちの得意技だ」
アルベルトが皮肉げに応じると、ヴィクトリアはわずかに口元を緩めた。
「ですが、悪い風向きではありません。継承の儀の日取りについても、そろそろ具体的に詰めるべきかと、重臣たちの間でも声が上がっております」
「まだ早い」
アルベルトは、即座に答えた。
「灰衣の男が野放しのままだ。式典の最中に付け入る隙を、みすみす与えるわけにはいかぬ」
「慎重なことですね。……そういうところが、危なっかしくもあります」
アルベルトは、わずかに眉を上げたが、それ以上は何も問わなかった。ヴィクトリアは、書状を置いたまま、静かに一礼して部屋を後にする。
ランバートが、その後ろ姿を見送ってから、小声で言った。
「王妃様も、日ごとにお顔の色が良くなっておられるようです」
「そう見えるか」
「はい。此度の一件で、少しずつ肩の荷が下りてきたのやもしれません」
アルベルトは、それには答えず、窓の外へ目をやった。
三日後、重臣会議の場に、アルベルトは久方ぶりに姿を見せた。円卓を囲む重臣たちの顔ぶれは、以前と変わらない。だが、そこに漂う空気は、明らかに違っていた。
「殿下」
真っ先に口を開いたのは、かつて祝宴の縮小に不満を漏らしていた老貴族だった。
「此度のグラナダとの一件、そして麦の栽培法の広まり、いずれも殿下の御差配あってのことと、皆、承知しております」
「差配したのは、わし一人の功ではない。エレノアの働き、ランバートの働き、皆の支えがあってのことだ」
「殿下は、そうしてご自身の功を、常に他へお譲りになる。それもまた、信を得る所以かと」
別の重臣が、深く頷きながら言葉を継いだ。
「率直に申し上げます。かつては、王太子殿下の御力量を、いささか侮っておりました。此度の一連の御働きぶりを目の当たりにし、その見立てが誤りであったと、心より思い知らされております」
円卓を囲む面々から、次々と同意の声が上がった。
「継承の儀の日取りにつきましては、いかがなさいますか」
議長役を務める老臣が問うと、アルベルトは静かに答えた。
「灰衣の男の一件が片付くまでは、性急に事を進めるべきではない。今しばし、時を待ちたい」
「承知いたしました。殿下のご判断に、異を唱える者はおりますまい」
その一言に、重臣たちは、揃って深く頭を垂れた。
会議を終えて執務室へ戻る道すがら、ランバートが小声で言った。
「あの老貴族が、あそこまで素直に頭を下げるとは、正直、意外でございました」
「意外か」
「かつては、宴の縮小一つで、あれほど食ってかかっていた御方ですので」
「損得に敏いだけの男だ。今は、わしに与するほうが得だと踏んでいるにすぎん」
そう言いながらも、アルベルトの声音に、以前ほどの棘はなかった。
その日の午後、アルベルトは供を最小限に絞り、市中へ足を運んだ。エレノアが企画した収穫祭が、下町の広場で催されているという。
「殿下御自ら、こうした場にお出ましになるとは」
同行したエレノアが、感慨深げに呟いた。
「そなたが育てた麦の実りを、この目で見ておきたかっただけだ」
広場には、あちこちに露店が並び、焼いた麦の香ばしい匂いが漂っている。子供たちが、山と積まれた麦束の周りを駆け回り、その合間を縫うように、荷車を引いた行商人たちが忙しなく行き交っていた。
人だかりの中から、一人の老爺が声を上げた。
「あれは、王太子殿下じゃないか」
周囲がざわめき、次々と人が振り返る。以前ならば、白い目や陰口が返ってきたはずの視線だった。だが今は、どの顔にも、隠しきれない親しみが浮かんでいる。
「殿下のおかげで、今年の冬は越せると聞きました」
「税もいくらか軽くなったと、うちの村でも噂しております」
口々に上がる声に、アルベルトは軽く手を上げて応えた。飾らないその仕草に、周囲から小さな歓声が上がる。
人垣の中から、日に焼けた壮年の男が進み出てきた。誇らしげな声で言う。
「殿下、エレノア様。年貢が軽くなったおかげで、今年はこうして家族総出で祭りに来られました」
「大儀であった」
男は満面の笑みを浮かべ、深々と頭を下げて人混みの中へ戻っていった。
その傍らでは、幼い娘の手を引いた母親が、遠巻きにこちらを窺っていた。エレノアが気づいて声をかけると、母親は慌てて頭を下げる。
「差し出がましいこととは存じますが……殿下に感謝を申し上げます。この子に、パンを腹一杯食べさせてやれるようになったのは、殿下のおかげでございます」
娘が、はにかみながら小さな麦の穂を差し出した。アルベルトは片膝をつき、それを受け取る。
「そなたが摘んだのか」
娘は、こくりと頷いた。母親が、慌てて娘の肩を抱き寄せる。
「ご無礼を」
「よい。大切に持ち帰ろう」
アルベルトは、麦の穂を懐にしまいながら立ち上がった。
「以前は、こうはいきませんでしたね」
エレノアが、隣でそっと口を開いた。
「民の失望は、思っていた以上に深いものだった。だが」
アルベルトは、群衆を見渡しながら続けた。
「積み重ねさえすれば、失った信は、少しずつ戻ってくるものらしい」
広場の隅で、一人の商人が、連れの男に囁いているのが聞こえた。
「昔は、頼りない王太子だと専らの評判だったが……見る目がなかったのは、こっちのほうだったな」
その言葉に、エレノアが小さく微笑んだ。アルベルトは、聞こえないふりをして、視線を、積まれた麦束の方角へ向けた。
それから、アルベルトはエレノアへ向き直った。
「来季は、周辺の村にもこの栽培法を広めるつもりであったな」
「はい。種と苗の手配は、すでに整いつつあります。人手が足りない分は、王都からも指導役を募る所存です」
「入り用があれば、遠慮なく申せ」
「殿下のそのお言葉だけで、村の者たちは十分に励みになりましょう」
エレノアは、そこで少し声を落とした。
「正直に申し上げますと、こんなにも早く、周辺の村にまで話が広がるとは思っておりませんでした。一つの村の成功が、これほど多くの村を動かすとは」
「一つの実りが、次の実りを呼ぶ。そういうものなのだろう」
「殿下の御差配も、同じかと存じます。一つの信が、次の信を呼んでいるのでしょう」
アルベルトは、それには答えず、広場を吹き抜けていく風に目を細めた。
夕刻、執務室に戻ったアルベルトのもとへ、ランバートが再び訪れた。
「殿下。此度の収穫祭の様子は、瞬く間に王都中へ広まっております。重臣たちの間でも、殿下を推す声が、日を追うごとに強まっているとのことです」
「担ぎ上げられるのは、性に合わぬがな」
「ですが、担がれるだけの働きをなさったのも、また事実でしょう」
ランバートは、珍しく真っ向からそう言い切った。
「西門の暴徒を鎮めた日から、ここまで長うございました。今の殿下を見て、あの頃を疑う者は、もはや誰もおりますまい」
アルベルトは、しばし黙り込んだ。窓の外、傾いた陽が、机上に積まれた帳簿の山を赤く染めている。かつて山のようだったその高さは、今ではずいぶんと低くなっていた。
「わしが変わったわけではない。ただ、なすべきことをなしてきただけだ」
「それこそが、信を得るということかと存じます」
ランバートは、深く一礼して下がっていった。
一人になった執務室で、アルベルトは、ヴィクトリアの残した書状を改めて手に取った。継承の儀の日取り、重臣たちの評判、積み重なった数字の一つ一つ。どれもが、この半年余りの証だった。
王太子として、これほど確かな信を得られる日が来るとは、正直、思ってもいなかった。玉座に座っていた頃は、ただ恐れられることでしか、この身を保てなかった。今はまるで違う。恐れではなく、信によって支えられている。
だが、この身が纏っているのは、あの愚息の姿だ。信を得ているのは、果たしてわし自身なのか、それとも、この若い体そのものに向けられたものなのか。時折、その境目が分からなくなる。
「……考えたところで、詮無きことだ。もっとも、立て直しただけで満足するわけにもいかぬがな」
アルベルトは、独り言のようにそう呟いた。
窓の外に広がる王都の灯りが、一つ、また一つと灯り始める。かつて崩壊寸前と囁かれたこの国は、今、確かな足取りで立ち直りつつあった。
灰衣の男の影は、いまだこの王都のどこかに潜んでいる。積み上げてきたものを、根こそぎ覆されるわけにはいかない。
アルベルトは、書状を静かに置くと、窓辺に立った。暮れゆく街並みを見つめながら、継承の儀へ向けて、まだ片付けねばならぬことの多さを、指折り数え始めていた。
(第47話へ続く)
お読みいただきありがとうございました!
面白かったらぜひ【ブックマーク】とページ下の【★★★★★評価】で応援よろしくお願いします。




