第44話:グラナダとの真の同盟
三日後、王太子府の謁見の間に、グラナダの使節団が通された。
高窓から差し込む昼の光が、磨き上げられた石床に長い筋を落としている。壁際に居並ぶ近衛たちの甲冑が、その光を受けて鈍く輝いていた。壇上に垂らされた緋色の垂れ幕が、開け放たれた扉から吹き込む風にわずかに揺れ、乾いた布地の擦れる音を響かせている。
控えの間で待つ間、エレノアが手元の書付に目を落としながら口を開いた。
「先方の求めが技術の提供のみで済むとは、私も思っておりません。何かしら、こちらに条件を出してくるはずです」
「構わぬ。呑めぬ話なら、突っぱねるまでのことだ」
アルベルトは、椅子の背にもたれたまま短く答えた。窓の外から、使節団を乗せた馬車の車輪が石畳を鳴らす音が響いてくる。
ランバートは扉の脇に立ち、油断なく一団の顔ぶれを検めていた。革靴の踵が石床を叩く音が、規則正しく近づいてくる。
先頭を歩む男の顔に、アルベルトは見覚えがあった。
「ディエゴ殿。まさか、貴殿自らお越しになるとはな」
「王太子殿下におかれましては、ご壮健そうで何より」
ディエゴは、恭しく一礼した。口髭を撫でるその手つきも、目つきの鋭さも、以前と変わらぬままだった。旅塵に汚れた外套の裾からは、長い道中を思わせる乾いた土の匂いがかすかに漂っていた。
「此度は、正式な使節団の一員として参りました。本国よりの信任状も携えております」
ディエゴは、そこで一度、深く頭を垂れた。
「まずは、陛下の御崩御に、謹んでお悔やみを申し上げます。本国にも報せが届いた折には、宮廷中が驚きに包まれました」
「かたじけない」
アルベルトは、静かに答えた。
「喪の最中に足を運ばせたこと、心苦しく思う」
「いいえ。むしろ、こうした折だからこそ、両国の結びを確かなものにしておくべきだと、本国は考えております」
ディエゴは、顔を上げて続けた。
「唯一の継承者であられる殿下と、直にお話しできる機会を、無駄にはいたしません」
ディエゴの後ろに控える一団を、アルベルトは注意深く見渡した。商人風の服を纏った者たちに混じり、二人ばかり、姿勢の異様に良い男たちがいる。腰のあたりの布地が、不自然に膨らんでいた。
「後ろの二人は」
「私の護衛です」
ディエゴは、あっさりと答えた。
「此度の道中、物騒な噂も耳にしましたもので。お許しいただければ」
「隠す気もないなら、構わぬ」
アルベルトは、ランバートへ短く目配せした。ランバートは小さく頷き、警戒の度合いを緩めた。
エレノアが、一歩前へ進み出た。
「ディエゴ殿。此度のお申し出、麦の栽培法についてと伺っております」
「左様。国境を越えて届いた話ゆえ、多少は誇張もあろうかと思いましたが」
ディエゴは、懐から一枚の書状を取り出した。羊皮紙の端には、見慣れぬ紋章の封蝋が押されている。
「本国の農務官も、放ってはおけぬと申しております。土壌に合わせた輪作の組み方、水はけの改善……これらを分けていただけるなら、相応の対価をお支払いする用意がございます」
「対価とは、いかほどをお考えか」
アルベルトが問うと、ディエゴは一拍置いてから答えた。
「関税のさらなる引き下げ、それに」
ディエゴは、そこで言葉を切り、部屋の中をぐるりと見回した。
「万一、貴国が他国との間に事を構える折には、後方の物資供給において、本国が優先的に応じる、との一文を条約に加えたく存じます」
その場に、静かなどよめきが走った。控えていた文官の一人が、ペン先を止めて顔を上げる。
アルベルトは、しばらく黙って書状を見つめていた。
「以前の調印とは、ずいぶん様子が違うな」
「以前は、あくまで戦を避けるための取り決めでございました」
ディエゴは、まっすぐにアルベルトを見た。
「此度は、それとは異なります。此度の麦の話を耳にした本国の重臣たちは、口を揃えて申しました。あの国の王太子は、机上の理屈だけで動く御方ではない、と」
「買いかぶりが過ぎよう」
「買いかぶりではございませぬ」
ディエゴは、静かに首を振った。
「先の調印式の折、殿下は御自ら、陛下のお言葉の裏で、すべてを操っておられた。当時から、そう見抜いておりました」
その言葉に、アルベルトは束の間、口を噤んだ。窓の外から差し込む光の筋が、わずかに動いている。
「見抜いていて、何故黙っていた」
「申し上げる場でもございませんでしたし、殿下のなさりようを、無粋に暴く道理もございませんでした」
ディエゴは、口髭の下でわずかに笑った。
「それに、あの日、給仕に扮した曲者を止めたのも、殿下方であったと聞き及んでおります。本国としても、恩義は忘れておりません」
エレノアが、アルベルトの隣でそっと口を開いた。
「殿下。この申し出、受けるだけの価値があるかと存じます」
「わしも、そう見ておる」
アルベルトは、ようやく頷いた。
「だが、後方支援の一文には、こちらからも条件をつけたい」
「伺いましょう」
「双方の国境沿いに、共同の見張り台を設ける。片方だけが得をする取り決めにはせぬ」
ディエゴは、しばし考え込んだ。それから、深く頭を下げる。
「その条件、本国へ持ち帰り、必ずや良い返答を持って参ります」
エレノアが、地図を広げながら続けた。
「栽培法は、文書だけではお伝えしきれない部分もございます。よろしければ、本国の農務官を数名、こちらへお寄越しください。試作地に直に立ち会っていただければ、より確かに技を持ち帰れるはずです」
「なるほど、それは良い」
ディエゴは、目を細めて頷いた。
「文書だけでは、机上の空論に終わりかねませぬからな。人を送りましょう。ただし」
ディエゴは、そこで声を落とした。
「送り込む者は、こちらで厳しく検めます。二国の間を行き来する以上、身元の定かでない者を通すわけには参りませぬ」
「それでよい」
アルベルトは、頷いた。
「双方が、互いの懐に踏み込む話だ。信を置ける者しか、通すわけにはいかぬ」
エレノアが、書状の余白に目を落としながら付け加えた。
「見張り台の維持には、両国からの人と費えが要ります。此度の栽培法の対価に、その分を上乗せいただければ、我が国の懐も痛みませぬ」
「抜け目のないことだ」
ディエゴは、苦笑しながらも頷いた。
「よろしゅうございます。その旨も、あわせて持ち帰りましょう」
国庫が底を突きかけている今、この一文がどれほどの重みを持つか、アルベルトにはよく分かっていた。財務会議の場で示された数字が、脳裏をよぎる。祝宴を切り詰め、種苗の手配に回した金がようやく実を結び始めたばかりだというのに、次々と入り用は重なっていく。
それでも、この同盟が真に成れば、国庫にとってこれ以上ない支えになるはずだった。
使節団が退出した後、謁見の間には、アルベルトとエレノア、それにランバートだけが残った。窓の外、傾き始めた日差しが、石床の模様をゆっくりと動かしている。垂れ幕を揺らしていた風も、いつしか凪いでいた。
「殿下、私は警備の解除を手配して参ります」
ランバートは一礼し、足早に部屋を出ていった。
残された二人の間に、しばしの静寂が流れる。エレノアが、そっと口を開いた。
「同盟の話は、まとまりそうですね」
「ああ」
アルベルトは、窓の外へ視線を移した。
「先の調印は、脅しと駆け引きの末に得た、危うい和平だった。だが此度のものは、違う」
「あの時は、陛下に勝ったと思い込んでいただいて、ようやく成り立った和平でした。今日のディエゴ殿は、初めから正面より頭を下げてこられました」
エレノアは、そう言って、机上の書状にそっと指を添えた。
「同じ相手との取り決めでも、これほど手触りが違うものかと、正直、驚いております」
「化かし合いで得た和平と、互いの信で結んだ同盟だ。重みが違って当然だろう」
アルベルトは、机上に広げたままの地図へ、ふと目を落とした。
「麦の一件が、こうして国の外まで実を結ぶとは、思いもよりませんでした」
「そなたの働きだ。誇るがいい」
エレノアは、わずかに頬を染めたが、すぐに表情を引き締めた。
「ですが、この同盟が本物になればなるほど、それを厭う者も現れましょう。油断はできません」
「わしも、同じことを考えていた」
アルベルトは、机上に置かれたままの書状へ目を落とした。羊皮紙に記された条文の文字が、傾いた光の中でわずかに霞んで見える。
その夜、アルベルトはヴィクトリアの居室を訪ねた。燭台の灯りが壁際の書棚を照らし、羊皮紙特有の乾いた匂いが部屋にこもっている。
「グラナダとの一件、まとまりそうですか」
ヴィクトリアは、刺繍の手を止めずに問うた。
「概ねはな。だが、後方支援の一文が加わる。もし他国と事を構えれば、物資の融通を受けられるという取り決めだ」
「見返りに、こちらは何を差し出すのですか」
「関税の引き下げと、麦の栽培法だ。それに、国境沿いの見張り台の費えを、双方で分け合うことになろう」
ヴィクトリアは、手を止めて顔を上げた。
「悪くない話ですね。祝宴を削って浮かせた金子が、ようやく別の形で戻ってくる」
「そなたにも、後で正式な数字を見せる。財務会議にかける前に、目を通しておいてほしい」
「承知しました」
ヴィクトリアは、針を動かす手を止めぬまま、小さく息をついた。
「油断だけは、なさいませぬように」
「肝に銘じておく」
燭台の炎が、わずかに揺れる。窓の外、月の光に照らされた王都の屋根並みが、静かに広がっていた。
翌朝、執務室に戻ったアルベルトのもとへ、ランバートが報告に訪れた。
「殿下、お耳に入れておきたきことが」
「申せ」
「オルグレン家をはじめ、先の一件で温情により罪を減じられた者たちの間で、近頃、妙な動きがあるとの報せが届いております」
「妙な動きとは」
「まだ確たる証はございません。ですが、夜間に人目を避けて集まっている、との噂が方々から上がっております」
アルベルトは、しばし目を閉じた。まだ、確かなことは何一つ分からない。だが、心の奥底で、小さな棘のような違和感が疼いていた。
「引き続き、見張っておけ」
「心得ました」
ランバートが一礼して下がった後、アルベルトはしばらく一人、机上の書状を見つめ続けていた。国境の向こうから伸びてきた細い糸は、確かな絆へと形を変えつつあった。だが同時に、その糸を断ち切ろうとする者の気配もまた、確かにこの王都のどこかに潜んでいる。
(第45話へ続く)




