第42話:唯一の継承者
十日ほどが経つ頃には、机上に積まれていた出納簿の山も、わずかに低くなっていた。二重照合の仕組みが根付き始め、財務官たちの顔にも、張り詰めた恐れではなく、地道な疲労の色が戻りつつあった。
その朝、扉を叩いたのはランバートだった。甲冑を鳴らしながら入室すると、常より硬い顔つきで一礼する。
「殿下。折り入って、お耳に入れたきことが」
「申せ」
アルベルトは、羽根ペンを置いた。ランバートは一歩進み出ると、声を落とした。
「地方の有力貴族数名から、陛下への拝謁を求める書状が相次いでおります。反乱鎮圧からこの方、一度もお姿を見せられぬことに、不審を抱く向きが出てきているようです」
「名代で済ませてきた話だ。今に始まったことではあるまい」
「これまでは、それで通っておりました。ですが、鎮圧から幾月も経たぬうちに落ち着きを取り戻した今、いつまでも『ご静養中』では、押し通せませぬ。……宮廷の噂は、すでに穏やかならぬ方へ傾き始めております」
ランバートは、そこで一度言葉を切った。
「オルグレン家に連なる者たちの間では、陛下の御身に、何か重大な事態が起きているのではという憶測すら囁かれております」
アルベルトは、机上に広げられたままの書状の束へ目を落とした。指先で紙の端をなぞりながら、しばし黙り込む。
いつかは避けられぬ日が来ると、分かっていたはずだった。だが、いざその日が目前に迫ると、腹の底に重い石を呑んだような感覚がある。
「分かった。母上を呼べ」
「かしこまりました」
ランバートが下がってからほどなく、ヴィクトリアが姿を見せた。喪の色をまとった衣装のまま、静かな足取りで机の前に立つ。
「ランバートから、おおよそのことは聞きました」
「いつまでも隠しおおせるものではないと、分かってはいた」
アルベルトは、椅子から立ち上がった。窓辺へ歩み寄り、回廊の向こうに広がる王都の屋根並みを見渡す。
「だが、いざとなると、踏ん切りがつかぬ。……国王の死を公にするということは、あの子がもう戻らぬのだと、わし自身に思い知らせることでもある」
ヴィクトリアは、しばらく口を閉ざしたまま、窓の外へ視線を投げていた。やがて、静かに息を吐く。
「隠し続けることは無理な話です。ランバートの言う通り、疑いの目はすでに向けられ始めています。玉座の主が定かでないままでは、いずれ他国につけ入る隙を与えるだけです」
「グラナダか」
「あの国に限りません。どの国も、隣国の弱みには目ざといものです」
アルベルトは、窓枠に手をかけたまま、低く唸った。
「もっとも、正式に公にするなら、あの子の死に方も、然るべき形で語らねばならぬ。ジュリアンの謀反に殉じた、とだけ伝えるのでは、いずれ綻びが出よう」
「大聖堂での出来事を、詳らかに語る必要まではありません。……以前より病に冒されていたことを、ずっと隠しておいでだったのです。近頃の御様子が変わられたのも、その病のせいだったと、そういうことにいたしましょう」
ヴィクトリアは淡々とした調子で語ったが、扇の房を握る指先には、強い力がこもっていた。
「それに」
彼女は、視線をアルベルトへ戻した。
「陛下の死を公にすれば、次に問われるのは、王位を継ぐ者が誰かということです。ジュリアンはすでに継承権を剥奪され、幽閉の身。残るのは」
「王太子アデルのみ、か」
アルベルトは、自らの若い手のひらへ目を落とした。この体に宿る名は、今なお亡き息子のものだ。
「皮肉なものだ。あの愚息を案じ続けたわしが、今やあの子の名と姿を借りて、唯一の継承者を名乗る羽目になるとはな」
「皮肉ではありません」
ヴィクトリアは、きっぱりと言い切った。
「この国に残された、たった一つの正統な血筋です。あなたがその名を継ぐことに、恥じるところなど何一つありません」
アルベルトは、束の間、彼女の顔を見つめた。それから、小さく頷く。
「……そう言ってもらえると、幾分か気が楽になる」
扉の外から、控えめな足音が近づいてきた。姿を見せたのはエレノアだった。麦畑の試作地から届いたばかりだという書付を、大事そうに胸元へ抱えている。
「殿下。お取り込み中のところ、申し訳ございません。土壌改良の試作地から、良い兆しが届きましたので、ご報告にと」
「今でなくとも構わぬ話だが」
「はい。ですが、少しでも早くお耳に入れたく」
アルベルトは、口元をわずかに緩めた。重苦しい話の合間に差し込まれた、それだけの一言が、思いのほか胸を軽くする。
「後で聞こう。……エレノア、しばし待て」
エレノアは、部屋の空気の重さを察したように、静かに目を伏せて一礼した。
アルベルトは、ヴィクトリアへ向き直った。
「近く、重臣らを召集する。陛下の崩御を公にし、王位継承の儀を進める旨を諮る」
「日取りは」
「早いに越したことはない。だが、拙速に過ぎれば、かえって疑いを招く。……三日のうちに支度を整えよ」
ヴィクトリアは、深く頭を垂れた。
「承知しました」
ヴィクトリアが下がった後、アルベルトはようやくエレノアの報告に耳を傾けた。試作地の兆しは確かなものだと言い、彼女はその足で現地へ向かうと告げる。「戻るまで、しばし王都を離れます」――そう言い残し、エレノアは発っていった。
その日から、水面下での支度が始まった。ヴィクトリアは大聖堂や信頼の置ける重臣らへ根回しに走り、ランバートは発表当日の警備の手配を固めた。アルベルトは政務の合間を縫って、告げるべき言葉を幾度も練り直した。眠る間も惜しむ三日間だった。
三日後、王宮の大広間に、主だった重臣・貴族たちが召集された。アルベルトは、玉座の傍らに立ち、静かに口を開いた。
「陛下は、かねてより病に冒されておられた。此度の混乱の最中、ついにお倒れになり、身罷られた」
広間に、大きなどよめきが走った。誰もが顔を見合わせ、囁き交わす。オルグレン家の縁者と思しき一団も、驚愕の色を隠せずにいる。
「ジュリアンはすでに継承権を剥奪され、幽閉の身。この国に残された正統な血筋は、王太子アデルただ一人」
アルベルトは、居並ぶ者たちを、静かに見渡した。
「これより、王太子として、この国を背負う。異存のある者は、今この場で申し出よ」
束の間の沈黙の後、最前列に立つ古参の公爵が、深く頭を垂れた。
「異存はございません」
それに倣うように、次々と貴族たちが膝を折っていく。声を上げる者は、誰もいなかった。
窓の外、正午に近づいた陽が、大広間いっぱいに白く広がっていた。積み上げられていた出納簿の山は低くなりつつあるが、目の前には、これまでとは比べものにならぬ重さの務めが控えている。
王太子の名を借りたまま、唯一の継承者として立つ。その覚悟は、こうして、ひとまずの形を得た。
(第43話へ続く)




