第40話:財務会議と燻る影
夜明けと共に召集された財務会議室に、重い沈黙が満ちていた。石造りの壁には、朝靄の冷たさがまだ染み付いている。長机の上には束ねられた帳簿がいくつも積み上げられ、燭台の灯りが、その擦り切れた表紙に鈍く反射していた。古紙とインクの匂いに、燃え尽きかけた蝋の煙たさが混じり合っている。窓の外、まだ明けきらぬ空に、鳥の声がぽつりぽつりと響いていた。
アルベルトは上座に腰を下ろしながら、居並ぶ財務官たちの顔を見渡した。誰もが目の下に濃い隈を刻み、俯きがちに視線を逸らしている。眠る間もなく数字と向き合い続けた者たちの疲弊が、部屋の空気そのものを重くしていた。
その傍らの席に、ヴィクトリアが静かに腰を下ろしていた。喪服に近い暗色の衣をまとい、目元にはまだ隠しきれない疲れの色がある。それでも背筋は伸び、視線は帳簿の山へまっすぐ向けられていた。
財務卿が、震える指先で帳簿の一頁をめくった。
「殿下。改めて申し上げますが、国庫の底は、すでに見えております。此度の反乱鎮圧に費やした軍資金、加えて……亡き陛下が浪費された祝宴費の穴埋めが、いまだついておりません」
アルベルトは、静かに答えた。
「昨夜も聞いた。今日は、その先を聞きたい。何をどう削れば、次の四半期を凌げるか、わしに申せ」
財務卿は、一瞬言葉に詰まり、それから意を決したように口を開いた。
「削るだけでは、足りませぬ。官吏の俸給を三割減らし、不要不急の普請を凍結しても、なお穴は埋まりませぬ。……実は、宮廷の重臣らより、内々に要望が上がっております。反乱を鎮めた祝いに、盛大な宴を、と」
居並ぶ官吏たちの間に、微かなどよめきが走った。ヴィクトリアが、扇を持つ手を止め、財務卿へ冷ややかな視線を向けた。
「この期に及んで、宴の話ですか」
財務卿は、苦しげに続けた。
「民や貴族の目には、それが必要なのです。王太子殿下の威信を示す好機でもございます。……ここで質素に徹すれば、勝利すら疑われかねません。動揺した貴族の中には、いまだ殿下の器量を測りかねている者も残っております」
アルベルトは、帳簿の数字を指先でなぞりながら、しばし黙り込んだ。骨身に染みた疲労は、まだ抜けきっていない。儀式と反乱鎮圧の消耗がまだ尾を引くこの体は、長時間の会議だけでも軋みを上げている。だが、玉座に主のいない今、民心を繋ぎ止める務めから、逃れる術はなかった。
ヴィクトリアが、静かに口を開いた。
「でしたら、宴そのものを、道具にすればよいのです」
アルベルトは、目を上げた。
「道具、とは」
ヴィクトリアは、扇の先で帳簿の一点を示しながら続けた。
「大々的な祝宴ではなく、小規模な茶会形式になさい。招くのは十数名、財政改革に難色を示していた貴族たちだけ。倹約を体現する場としてお披露目すれば、支持を渋る者たちも、あなたの姿勢に一目置かざるを得ないでしょう。人数を絞れば、警護の手配もしやすくなります」
財務卿が、目を見開いた。
「規模を絞れば、費えも大幅に抑えられます。……なるほど、これならば」
アルベルトは、低く呟いた。
「悪くない。派手さで威信を示すのではなく、覚悟で示す。その方が、よほど骨がある」
ヴィクトリアの提案に、財務官たちの間に、わずかな安堵の色が広がった。だがその中の一人、初老の財務官だけが、帳簿を強く握りしめ、指先で紙の縁を白くなるほど押しつけているのに、アルベルトは目を留めた。長年、宮廷の台所事情を裏で支えてきたと専らの評判の男だった。その評判に見合わぬ怯えが、今は色濃く滲んでいる。
「そこの、お前」
名指しされた老官吏が、びくりと肩を震わせた。俯けていた顔を、恐る恐る持ち上げる。
アルベルトは、静かに命じた。
「軍資金の出納簿を、次の会議までに、細大漏らさず提出せよ」
「……は、はい。かしこまりました」
その返答には、隠しきれない硬さが滲んでいた。アルベルトは、それ以上追及せず、財務卿へ視線を戻した。
「宴の支度は、母上の案に従って進めよ。だが忘れるな。宴はあくまで一時の凌ぎだ。この国をわしの手で立て直すには、もっと深いところに、鉈を入れねばならぬ」
財務卿が、深々と頭を下げた。並んだ官吏たちも、それに倣うように一斉に頭を垂れる。
会議を終え、廊下へ出たところで、ヴィクトリアがそっと歩み寄ってきた。窓から差し込む朝日が、二人の影を長く石畳に落としている。
「先ほどの、老官吏の反応……」
アルベルトは、口の端をわずかに歪めた。
「気づいたか。軍資金の帳尻が合わぬ理由は、宴の浪費だけではあるまい。誰かが、どこかで甘い汁を吸っている。その臭いがする」
ヴィクトリアは、わずかに声を落とした。
「調べさせましょうか」
アルベルトは、静かに首を振った。
「いや。今しばらく、泳がせておく。慌てて尻尾を隠されては、元も子もない」
ヴィクトリアは、小さく頷いた。
「承知しました」
気丈な受け答えの奥に、隠しきれない疲れが滲んでいた。喪に服す間もなく政務へ引き戻された点は、アルベルトと変わらない。
朝の冷気が、アルベルトの体を、芯から冷やしていく。眠らぬ夜が続いた分だけ、頭の芯に鈍い疲労が募っていた。それでも、立ち止まっている暇はない。
窓の外、朝の光が回廊に差し込み始めていた。まだ肌寒い風が、開け放たれた窓から流れ込んでくる。崩れかけた国庫の奥に、まだ見えぬ膿が潜んでいる。悼む間もなく積み重なる重荷を抱えながら、アルベルトは、次に振るうべき鉈の在り処へ、静かに思いを巡らせていった。
(第41話へ続く)




