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愚息と体が入れ替わった王ですが、どうやら我が国は崩壊寸前らしい  作者: あずきまんま
第4部:王宮決戦と入れ替わりの終焉編

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第39話:喪われた愚息

 重臣たちの退出する足音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。誰もいなくなった執務室には、夕暮れの静けさだけが残った。窓の外、傾きかけた陽が、積み上げられた書類の山へ、じわりと赤みを落としている。埃の匂いの染みついた空気の中、アルベルトは、しばらくその場に立ち尽くしたまま、動かなかった。


 入口に控えていたオーウェンが、遠慮がちに声をかけた。


「殿下。ご遺体は、離宮の礼拝堂にお移ししてございます。……お別れを、まだ済ませておられぬかと」


 アルベルトは、短く頷いた。それだけで、自然と扉のほうへ足を向けていた。


 離宮へ続く回廊は、すでに人気が絶えていた。等間隔に灯された燭台の炎が、石壁に長い影を投げかけている。踏みしめる床の冷たさが、靴底越しにじんわりと伝わってきた。


 礼拝堂は、蝋燭の灯だけが揺れる薄闇に沈んでいた。石造りの祭壇の前、白布に包まれた亡骸が、静かに横たえられている。線香とも違う、乳香の甘く重い匂いが、鼻腔の奥に絡みついてきた。


 アルベルトは、亡骸の傍らに片膝をつき、白布の端をそっとめくる。かつて自分自身が宿っていた顔が、そこにあった。皺の一つ一つ、白髪の混じり方まで、記憶にある通りだ。


 指先を、その頬へそっと伸ばす。触れた肌は、蝋のように冷たかった。生前の熱など、どこにも残っていない。


 喉の奥から、何かがせり上がってくる。アルベルトは、白布を握りしめた拳を震わせながら、しばらく声も出せずにいた。


 わしの身体だった。そして、あの愚息が最期まで宿っていた身体でもある。わしとあやつは、ついに分かり合えぬままだった。もう、あやつは戻らない。


 背後で、衣擦れの音がした。振り向くと、ヴィクトリアが戸口に立っている。目元は赤く腫れ、化粧気の失せた顔は、蝋燭の灯を受けて青白く見えた。


「……よろしいですか」


「来い」


 アルベルトは、傍らの床を軽く手で示した。ヴィクトリアは、崩れるようにその場へ膝を折ると、亡骸の手をそっと両手で包み込んだ。指先が、微かに震えている。


「この手が、あの子を抱きしめたことなど、数えるほどしかありませんでした」


 ヴィクトリアは、亡骸の手の甲に額を押し当てた。


「叱ることばかりが、母としての務めだと思い込んでおりました。あの子の本当の望みを、聞いてやることもせぬまま」


 アルベルトは、何も言わず、その背に手を置いた。掛けるべき言葉を探したが、どれも上滑りするだけのような気がした。


「詫びるなら、わしも同じだ」


 ようやく、そう絞り出した。


「あの子が、なぜあれほど拗ねて育ったのか。わしは、ついぞ深く尋ねなんだ。目の前の粗相ばかりを叱り、その裏にあるものを、見ようとはせなんだ」


 ヴィクトリアが、顔を上げた。潤んだ瞳が、揺れる蝋燭の灯を映している。


「陛下……いいえ、あなたのせいではありません。私も同じです」


「そう割り切れるほど、わしの心はできておらぬよ」


 アルベルトは、静かに首を振った。開いた白布の隙間から覗く亡骸の顔を、しばらく見つめ続ける。かつて鏡の中で見慣れていたはずの顔が、今はひどく遠いものに感じられた。


 礼拝堂の外で、控えめな足音が近づいてきた。戸口に立っていたのは、エレノアだった。手前で足を止め、二人の様子にそっと目を伏せている。声をかけるべきか、迷っているらしかった。


 アルベルトは、その気配に気づき、軽く顎を引いた。エレノアが、遠慮がちに歩み寄る。


「殿下。夜分に申し訳ございません。財務卿から、少しだけお時間をいただきたいとの伝言を」


「今か」


「はい。……国庫のことで、急ぎご報告したき儀があると」


 悼む間もなく、次の重荷が待っている。アルベルトは、亡骸の顔へもう一度目を落とし、その手をそっと白布の下へ戻した。


「すぐ参る」


 立ち上がりかけたアルベルトの膝が、わずかにふらついた。エレノアが、とっさにその腕を支える。


「無理は、なさらないでください」


「分かっておる」


 短く答えながらも、その声には、いつもの張りが戻り始めていた。ヴィクトリアは、まだ亡骸の傍らに膝をついたまま、静かに二人を見送った。


 礼拝堂を出た廊下は、ひどく長く感じられた。窓の外はすでに暮れ落ち、星の瞬きがぽつりぽつりと浮かび始めている。崩壊寸前だった国は、ひとまずの平静を取り戻したはずだった。だが、失われたものの穴を埋める術は、まだどこにも見当たらない。


 執務室に戻ると、財務卿が帳簿を抱えたまま待っていた。灯された燭台の炎が、綴じられた紙の縁を、ちらちらと照らしている。


「殿下。お悲しみの中、申し訳ございません」


 財務卿は、深く頭を下げてから、帳簿を机の上へ広げた。


「殿下……陛下が浪費された祝宴費と、軍への過剰な備蓄要求とで、国庫はすでに底を突きかけております。加えて、此度の反乱鎮圧に費やした費えも、決して小さくはございません」


「どれほど深刻だ」


「このままでは、次の四半期を待たず、官吏への俸給すら滞りかねませぬ」


 アルベルトは、帳簿の数字を指先でなぞりながら、しばし黙り込んだ。悼む時間は、まだ足りていない。それでも、玉座の重みは待ってはくれなかった。


「分かった。明日、財務の者どもを集めよ」


 アルベルトは、静かに、しかし揺るぎない声でそう命じた。窓の外に広がる夜の闇を見やりながら、失った者たちへの喪失感を抱えたまま、次に立ち向かうべき戦いへと、意識を切り替えていった。


(第40話へ続く)


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