第37話:若き姿の賢王
ランバートの報告は、なおも続いていた。
「王宮西門の外、市場通りに、二百を超える一団が集まっております。松明を掲げ、ジュリアン様の名を叫びながら、門を開けよと騒いでおります」
アルベルトは、短く問いを重ねた。
「首謀者は」
ランバートは、苦い顔で答えた。
「オルグレン子爵と見られます。ジュリアン様への忠誠を公言していた家門の一つです。牢を脱したジュリアン様が、すでに手勢を集めつつあるとの噂を吹聴し、民の一部を扇動している模様です」
アルベルトは、崩れた魔法陣の残骸から、ゆっくりと視線を上げた。
悲しみに浸る猶予はまだ与えられていない。骨の髄まで染み込んだ疲労が、痩せた体を鉛のように重くしていたが、今はそれを噛み殺すよりほかなかった。
「わしが出る」
ランバートが、色を変えて食い下がった。
「殿下、御身体には、まだ薬の影響が」
アルベルトは、静かに答えた。
「分かっている。だが、玉座に主のないまま夜が明ければ、扇動する側にとって、これ以上の好機はあるまい」
アルベルトは、傍らに控えるオーウェンへ目を向けた。
「ヴィクトリアと、あの子の亡骸を頼む。誰にも、無闇に触れさせるな」
オーウェンは、震える声で「御意」とだけ返した。
エレノアが、静かに歩み寄ってきた。
「わたくしも参ります」
アルベルトは、目を鋭くした。
「危険だ」
エレノアは、怯まず言い返した。
「殿下おひとりを行かせる方が、よほど危険です」
迷いのない声だった。アルベルトは、束の間その顔を見返し、やがて小さく頷いた。
西門の物見櫓へ続く階を上る間、アルベルトの足取りは、幾度もふらついた。病弱で鍛えられていないアデルの体は、儀式の負荷にまだ耐えかねている。手すりに指をかけ、辛うじて体を支えながら、それでも歩みを止めることはしなかった。
物見櫓の上に立つと、松明の海が、眼下いっぱいに広がっている。
群衆の怒号が、風に乗って吹き上げてくる。石を投げつける者、槍の柄で門扉を打ち鳴らす者。殺気立った熱気が、夜明け前の冷えた空気を歪めていた。
ランバートが、傍らで低く告げた。
「弓は、まだ構えさせておりません。ご指示を」
「射るな」
アルベルトは、短く命じた。
欄干に手をかけ、群衆を見下ろす。喉の奥に苦い唾が滲んだが、それを飲み下し、腹の底から声を絞り出した。
「静まれ」
その一言に、割れんばかりの怒号が、わずかに揺らいだ。
「王太子アデルである。ジュリアンは牢を脱したが、その罪は、すでに満座の前で暴かれ、動かぬ証と共に記録されている。逆賊に加担する者もまた、同じ裁きを免れぬと知れ」
群衆の間から、オルグレン子爵と思しき男が、馬上から声を張り上げた。
「口先だけの脅しか。罪もないジュリアン様を陥れ、牢に繋いだ貴様に、何の資格があって我らを裁くと言うか」
どよめきが群衆の間を走った。アルベルトは、その言葉に眉一つ動かさず、静かに言葉を継いだ。
「陥れた、か。ジュリアンの罪は、満座の貴族の前で、動かぬ証と共に暴かれている。それを覆す証があるというなら、聞こう。だが今この場で問うべきは、我が身の資格ではない」
アルベルトは、一拍置いてから、声を強めた。
「お前たちが担いでいる主は、すでに闇に紛れて逃げた身だ。この場に踏みとどまり、共に朽ちる覚悟がある者など、その中に幾人いる」
馬上の子爵が、束の間、言葉に詰まった。
その隙を逃さず、アルベルトは続けた。
「今この場で武具を捨て、縄につく者には、相応の温情をもって沙汰する。日が完全に昇るまでが猶予だ」
群衆の熱気が、目に見えて揺らぎ始めた。松明を下ろす者が増え、槍の柄を打ち鳴らす音もまばらになっていく。怒号に代わって、囁き交わす気配が広がっていった。
子爵が、なおも声を張ろうとしたその時、背後に控えていた取り巻きの一人が、そっと馬首を返し、群衆の奥へと消えていった。それを機に、離反する者が、次々と現れ始める。
エレノアが、傍らでその様子を見つめながら、小さく息をついた。
「言葉だけで、これほど動くとは」
「言葉だけではない」
アルベルトは、静かに返した。
「奴らが最も恐れているのは、わしではない。己が担いだ主に、見捨てられたという事実だ」
夜明けの光が、地平の端からわずかに滲み始めていた。群衆の大半が武具を捨て、うなだれるようにその場に座り込んでいく。ランバートの合図で、近衛たちが門を開け、投降する者から順に縄を打っていった。
オルグレン子爵は、最後まで馬を降りようとしなかったが、周囲を固められると、観念したように剣を鞘ごと放り投げた。
アルベルトは、欄干にかけていた手を、ゆっくりと下ろした。全身の力が、堰を切ったように抜けていく。倒れかけた体を、とっさに支えたのはエレノアの腕だった。
「殿下」
「大事ない。少し、気が抜けただけだ」
アルベルトは、掠れた声でそう答えたが、その顔からは血の気が引いていた。
ランバートが、階下から駆け上がってきた。
「殿下、投降した者どもの取り調べを急がせます。オルグレンの口から、ジュリアン様の潜伏先が割れるやもしれません」
「頼む」
アルベルトは、そう答えながら、遠く白み始めた空へ目をやった。玉座に主のない一夜は、ひとまず凌ぎきった。だが、脱獄を手引きした者の正体も、ジュリアンの行方も、いまだ闇の中にある。
悼むべき者への喪失感を抱えたまま、アルベルトは、次の戦いへと視線を戻した。
(第38話へ続く)




