第36話:還らぬ魂
崩れた魔法陣の残骸から、焦げた石と蜜蝋の入り混じった匂いが立ち上っている。丸屋根の明かり取りから差し込む月光は、先ほどまでの青白さを失い、心なしか色を薄めつつあった。それでも、大聖堂を包む沈黙は、いつまでも重い。
黒装束の襲撃者たちは、すでに全員が斬り伏せられるか、縄を打たれて連行されていた。ランバートは剣を鞘へ納めると、額の汗を拭う間もなく、祭壇のほうへ視線を戻した。
「生け捕りにした者から、何か聞き出せそうか」
問われた兵は、首を横に振った。
「口を割る様子はございません。反乱に与した残党かと」
ランバートは低く唸っただけで、それ以上は追及しなかった。今この場で優先すべきは、祭壇に横たわる二人の容態だった。
オーウェンは崩れた円の残骸のそばに片膝をつき、写本と見比べながら、幾度も頁を繰っていた。指先で文字を辿る動きは、時を追うごとに忙しなくなっていく。
国王――中身はアデル――の傍らに片膝をついていた近衛が、押し殺した声を上げた。
「息が、浅くなっております」
エレノアは、少し離れた位置から堂内の様子を見渡していた。崩れた魔法陣、消えた燭台、そして薄れていく月光。血の匂いと蝋の焦げる匂いが入り混じり、鼻の奥に絡みついてくる。どれもが、良くない兆しを示していることだけは分かった。
「オーウェン殿。月が沈みきる前に、打つ手はないのですか」
「今から円を描き直しても、間に合うかどうか……正直、分かりません」
国王の瞼が、かすかに震えて開いた。うっすらと開いたその奥で、定まらぬ視線を虚空へさまよわせている。
「……親父」
国王は、掠れた声を誰へともなく漏らした。
「悪かった、な……」
ヴィクトリアは、握ったままのアルベルトの手と、離れた場所に横たわる国王の姿とを、交互に見つめていた。どちらの傍らも離れられず、ただその場に立ち尽くすしかない。
国王は、もう一度何かを言おうとするように唇を動かしたが、声にはならなかった。伸ばしかけていた腕を力なく落とすと、それきり動かなくなる。
近衛が震える手でその胸に触れ、それから顔を上げた。
「……脈が」
言葉は、そこで途切れた。
オーウェンが、崩れ落ちるようにその場へ膝をついた。
「間に合いませんでした……均衡を失った魂は、この身体に留まることができなかったのでしょう。アデル様の御魂は、もう……」
最後まで、言葉にすることができなかった。
ヴィクトリアは両膝を折り、崩れ落ちるように身を沈める。静まり返った堂内に、声にならない嗚咽だけが低く響いていた。夫の本来の身体と、育て損なったと悔いてきた息子と、二つを同時に失った慟哭だった。
エレノアは、その傍らへ歩み寄りかけたが、途中で足を止める。掛けるべき言葉をどうしても見つけられぬまま、まだ眠り続けるアルベルトへ、自然と視線を向けていた。彼が目覚めた時、この現実をどう受け止めるのか。案じずにはいられなかった。
どれほどの時が経っただろうか。空がわずかに白み始めた頃、アルベルトの指先が、かすかに動いた。
閉じていた瞼が、ゆっくりと持ち上がる。
傍らに膝をついていたヴィクトリアが、震える声で呼びかけた。
「……あなた」
アルベルトは重い瞼を持ち上げながら、掠れた声を絞り出した。
「儀式は……」
オーウェンが、震える声で答えた。
「魔法陣が壊れた影響で、御身体の均衡が崩れました。アデル様は……お戻りになりませんでした」
それだけでは、まだ全てを言い表せていなかった。オーウェンは意を決したように続けた。
「殿下の御魂が留まるべき、本来の御身体も……失われました。もう二度と、お戻りになることは」
アルベルトは、しばし言葉を失っていた。視線を巡らせ、少し離れた場所に横たわる国王の姿を捉えると、ゆっくりと瞼を伏せた。冷たい石の床に横たわる、かつての我が身。そこにはもう、誰の魂も宿っていなかった。
「そうか……」
アルベルトは、絞り出すようにそれだけを口にすると、しばし黙り込んだ。それから、静かに続けた。
「わしを庇おうとして、あの円を踏み荒らしたわけではあるまい。恐怖に負けただけの、哀れな男だ。……それでも、わしの息子であることに変わりはない」
オーウェンが、深く項垂れた。
「私の力が及ばなかったばかりに」
「詫びは要らぬ」
アルベルトは静かに言った。
「お前が命を懸けて調えたことは、わしが一番よく知っている」
そこへ、荒々しい足音が近づいてきた。ランバートが片膝をつき、報告する。
「王太子殿下、火急の報せです。王宮の外に、なお蠢く一団がおります。ジュリアン様が牢を脱したと吹聴し、この機に乗じて動き出す構えだとか」
エレノアは、油断なく成り行きを見つめたまま、口を開いた。
「灰衣の男の行方も、まだ掴めていないのですね。だとすれば、王宮の内にまだ手引きした者が潜んでいる恐れがあります」
ランバートは、苦い顔で頷いた。
「仰る通りです。城内の全門はすでに封鎖しておりますが、油断はできません」
アルベルトは、鉛のように重い身体を引きずるようにして、ゆっくりと身を起こした。喪失の重さを抱えたまま、それでも玉座を離れるわけにはいかなかった。
「聞かせろ」
ランバートの報告に耳を傾けながら、アルベルトは、崩れた魔法陣の残骸へもう一度だけ視線を落とした。
悼む時間さえ、まだ許されてはいなかった。
(第37話へ続く)
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