第35話:逆襲の呪縛
祭壇に横たわるアルベルトは、驚くほど穏やかな寝顔をしていた。
丸屋根の明かり取りから差し込む月光は、先ほどまでと変わらぬ青白さで祭壇を照らしている。消え残った蝋燭の芯が焦げる匂いと、蜜蝋の甘い香りが、冷えた石の匂いに混じって漂っていた。
ヴィクトリアは膝をつき、投げ出されたアルベルトの手をそっと握りしめる。触れた瞬間、指先の冷たさが伝わってきた。規則正しい寝息の音だけが、生きている証のようだった。
少し離れた場所では、国王――中身はアデル――もまた、近衛の腕の中で深い眠りに落ちている。エレノアは、少し離れた場所から、大聖堂全体に油断なく目を配っていた。時折、アルベルトの手を握るヴィクトリアの横顔へ視線が向かいそうになるたび、それを静かに堪える。案じる資格が自分にあるのかどうかさえ、今は分からなかった。誰もが息を潜め、動くことすら憚られるほどの静けさが、堂内を満たしていた。
駆け戻ってきた兵の一人が、ランバートの前に片膝をついた。
「灰衣の男の牢も、もぬけの殻でございました。見張りは、こちらも眠らされたのみで、傷一つございません」
ランバートは、眉間に深い皺を刻んだ。
「手引きした者がいる、ということか。地下牢を知る者は、限られているというのに」
誰かが仕込んだ薬か、あるいは魔導の類か。エレノアの脳裏に、そんな考えがよぎる。いずれにせよ、内側に協力者がいなければ成し得ぬ芸当だった。捕らえたはずのガーディナー侯爵とて、まだ完全に信を置ける身ではない。誰が敵で誰が味方なのか、この一夜だけでは到底見極めきれなかった。
オーウェンが、写本を抱きしめたまま、祭壇の傍らで低く呟いた。
「この儀式は、満月が沈むまで、決して途切れさせてはなりません。魂の均衡が保たれているのは、今この瞬間だけです」
ヴィクトリアは、握った手にわずかに力を込めた。
「途切れれば、どうなるのですか」
「分かりません」
オーウェンは、正直に答えた。
「文献にも、そこまでの記述はございませんでした。ただ、良からぬことが起きるとだけ」
その言葉に、ヴィクトリアは、小さく息を呑んだ。
そのとき、大聖堂の外扉のあたりから、金属の打ち合う音が響いた。悲鳴とも怒号ともつかぬ声が、続けざまに這い上ってくる。
ランバートが、腰の剣に手をかけた。
「来たか」
剣を抜き放つと同時に、控えていた騎士たちへ鋭く命じた。
「祭壇には、指一本触れさせるな。何があろうと、この場だけは死守しろ」
外扉を突破した黒装束の一団が、通路になだれ込んでくる。数は五、六人。松明の炎に、抜き身の刃がぎらりと光った。
近衛の剣がそれを迎え撃ち、石造りの回廊に、激しい打ち合いの音が響き渡る。怒声と剣戟がひとつに溶け合い、大聖堂の高い天井へと反響していった。ヴィクトリアは、アルベルトの手を離すまいと、なおも強く握りしめていた。
近衛の一人もまた、国王の傍らに片膝をつき、崩れ落ちそうになる肩を支えていた。エレノアは、いつでも動けるよう身構えながら、油断なく周囲へ目を配っている。
黒装束の一人が、乱戦をすり抜け、祭壇の間近まで迫った。ランバートが横合いから斬りつけ、その男は声もなく崩れ落ちる。だが、崩れ落ちながら、男は祭壇の縁に並んだ燭台を巻き添えにして薙ぎ倒した。
燭台は音を立てて床に転がり、蝋燭の炎が消える。同時に、祭壇を取り巻いていた青白い光が、ふっと揺らいだ。
国王が、びくりと身を震わせた。
肩を支えていた近衛が驚いて手を離すと、国王は両腕を宙にもがくように振り回した。うっすらと目を開けてはいるが、そこに映る焦点は定まっていない。眠りの底から浮き上がりかけているのか、国王は、汗にまみれた顔を苦悶に歪めていた。
「陛下、まだ眠りの最中でございます、どうか」
近衛たちが、必死に押さえようとした。だが、国王はその手を振り払い、上体を跳ね起こした。
「来るな……来るな……!」
うわ言のような叫びとともに、国王は祭壇からよろめき降りた。よろめきながら踏み出した足で、床に描かれた魔法陣の線を、無造作に踏み荒らす。
「陛下、いけません、その円は」
オーウェンが、悲鳴に近い声を上げて駆け寄った。だが、遅かった。
踏み荒らされた線の上を、青白い光が奔り、悲鳴のような音を立てて弾けた。祭壇全体が、眩い光に包まれる。
ヴィクトリアは、とっさに腕で顔を庇いながら、握ったままのアルベルトの手だけは、決して離さなかった。
「アルベルト様の魂の均衡が、崩れます……!」
オーウェンの叫びが、光の中に飲み込まれていく。
黒装束の残りは、なだれ込んできた近衛の手で、次々と斬り伏せられ、あるいは取り押さえられていった。だが、その勝利を喜ぶ余裕は、もはや誰にもなかった。
激しい光が収まった後、祭壇に残されていたのは、二人分の、あまりに静かすぎる寝息だった。国王は、燭台の残骸の傍らに崩れ落ちたまま、なおも小さく震え続けている。近衛の一人が、震える手でその背をさすりながら、何度も呼びかけていたが、目を覚ます気配はなかった。
オーウェンは、崩れた魔法陣の残骸へ視線を落とし、写本の頁を震える指で繰った。
「均衡が崩れた状態で、これほど深く眠りに落ちるとは、記録のどこにもございません」
「今からでも、立て直すことはできないのですか」
エレノアの問いに、オーウェンは、しばし言葉を探すように黙り込んだ。
「満月が中天を過ぎた今からでは、円を描き直したところで、間に合うかどうか」
その先を、オーウェンは口にしなかった。だが、言い淀んだ沈黙こそが、何よりの答えだった。
ヴィクトリアは、握りしめたアルベルトの手に、そっと額を寄せた。
「どうか、目を覚ましてください」
答える声はなかった。満月の光だけが、変わらず祭壇に降り注いでいる。だが、そこに満ちていたはずの、あの静かな均衡は、もう戻ってこないのかもしれなかった。二人分の寝息だけが、崩れた祭壇の上で、いつまでも規則正しく響き続けていた。
(第36話へ続く)
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