第34話:儀式の決行
ジュリアンの断罪から、十日が過ぎた。王都の混乱もようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
ガーディナー侯爵は爵位を剥奪され、沙汰が下るまでの間、離れの一室に押し込められている。市中では、王太子アルベルトを称える声が日増しに強まっていた。だが、その裏で捕らえきれなかったジュリアンの残党が、なお息を潜めているという報せも、絶えず届いていた。
そうしたやり取りに追われる日々を縫うようにして、待ちわびた満月の夜が巡ってきた。
大聖堂の丸屋根に穿たれた明かり取りから、青白い光が差し込んでいる。祭壇の周囲には幾つもの燭台が並べられ、蝋燭の炎が静かに揺れていた。石造りの床には、蜜蝋と古い石材の匂いが染みつき、外の冷えた夜気が、開け放たれた扉から流れ込んでくる。
近衛隊長ランバートが、足音を殺して歩み寄った。
「大聖堂の周囲には、二重の警備を敷いております。地下牢のジュリアン様も、昼夜八名の兵に見張らせておりますゆえ、儀式の間はご安心を」
アルベルトは、小さく頷いた。
「油断は禁物だ。固めすぎるということはない。ジュリアンの残党が動くとすれば、まさにこの好機を措いて他にあるまい」
「肝に銘じております」
ランバートは、深く一礼すると、持ち場へと引き返していった。
程なくして、オーウェンが木箱を抱えて姿を現した。長い準備の日々を思わせる、疲れの残る顔つきをしている。祭壇の前に膝をつき、慎重に木箱を置くと、二つの鍵穴に、それぞれの鍵を差し込んだ。アルベルトの持つ鍵と、オーウェン自身の鍵が、同時に回される。
「調合そのものは、満ちた月の光の下でなければ行えません。以前申し上げた通りです」
蓋を開けると、銀朧草、月影蘭、涙露珠――写本にあった三つの薬草を収めた小瓶が、月光を受けて淡く光っていた。オーウェンは、祭壇の上に小さな乳鉢を据えると、三つの薬草を、慎重な手つきで挽き合わせていく。乳鉢の中身が月光を浴びるたび、淡い光の粒が、そこに宿っていくように見えた。
やがて調合を終えると、オーウェンは、その薬液を二つの小瓶に注ぎ分け、それぞれに栓をした。
「これで、調いました」
国王――中身はアデル――が、覚束ない足取りで祭壇へと歩み寄り、アルベルトの隣に並んだ。少し遅れて、離宮から呼び戻されたヴィクトリアが、アルベルトの傍らに付き添った。夫と息子、二つの魂が入れ替わったまま今日まで来た顛末を、誰よりも近くで見届けてきた人だった。エレノアは、少し離れた場所から、その様子を見守っている。
「本当に、これで終わるのか」
国王は、掠れた声で問うた。
「上手くいけば、な」
アルベルトは、静かに答えた。
「わしは元の身体に戻り、お前もまた、お前の身体に戻る。長かったこの茶番も、これで幕引きだ。目覚めた後にすべきことは山ほどあるが、それは戻ってからの話だ」
国王は、しばし黙り込んだ後、小さく頷いた。以前ならば、その言葉に反発の一つも返してきたはずだった。今は、ただ静かに、その意味を噛み締めているようだった。
エレノアが、一歩前に出かけた。
「殿下」
だが、その先を、アルベルトが遮った。
「案ずるな。儀式が終われば、わしは元の姿に戻る。お前が守るべきは、その先の国だ」
エレノアは、何か言いかけたが、結局は唇を結び、小さく頭を下げるに留めた。それ以上は近づかず、また少し離れた場所へと下がっていく。
ヴィクトリアは、アルベルトの傍らで、その横顔をじっと見つめていた。口を挟むことはなかったが、その眼差しには、長年連れ添った夫への想いと、育て損なった息子への想いが、幾重にも重なって浮かんでいた。
ヴィクトリアが、静かに声をかけた。
「あなた。どのようなお姿でお戻りになろうとも、わたくしの夫であることに変わりはございません。ですから、どうか、恐れずに」
アルベルトは、その言葉に、小さく頷き返した。
オーウェンが、二つの小瓶を、アルベルトと国王へそれぞれ手渡した。
「では、月が中天にかかる、この時をおいて他にありません」
アルベルトは、小瓶の栓を抜いた。かすかに甘い香りが鼻先をかすめる。写本にあった通りの、涙露珠特有の匂いだった。
国王も、震える手で栓を抜き、アルベルトへ視線を向けた。
アルベルトは、その視線に頷き返すと、短く告げた。
「行くぞ」
言うと同時に、小瓶を傾けた。
二人は、示し合わせたように、同時に薬を飲み干した。
たちまち、意識が暗く沈んでいくのを感じた。アルベルトは、抗う間もなく、均衡を失った。膝から崩れ落ちる寸前、伸ばされたヴィクトリアの腕に、辛うじて支えられる。
同じ頃、国王もまた、力なくその場に頽れた。傍らに控えていた近衛の一人が、慌ててその身を抱き留める。
静寂の中、二人の寝息だけが、規則正しく響いていた。オーウェンは、写本を胸に抱いたまま、固唾を呑んで見守っている。
その静けさを破ったのは、大聖堂の扉を叩く、慌ただしい足音だった。
兵の一人が、青ざめた顔で駆け込んできた。
「ランバート様、地下牢の見張りが、全員昏倒しております。ジュリアン様の姿が、どこにも」
ランバートは、束の間、言葉を失った。
「……消えた、というのか。八名も詰めていたはずだ」
兵は、震える声で答えた。
「それが、争った形跡もなく。何者かが、外から手を貸したものかと」
ランバートは奥歯を噛み締め、控えていた別の兵へ鋭く命じた。
「王宮内の全門を封鎖しろ。灰衣の男の牢も、今すぐ確かめてこい」
命を受けた兵たちが、次々と大聖堂を飛び出していく。その足音が遠ざかるのを聞きながら、エレノアは、意識を失ったアルベルトへ視線を落とし、それから青ざめた顔で、大聖堂の闇の奥へと目を凝らした。
満月の光が降り注ぐ祭壇の上で、二人の魂は、今なお深い眠りの底にあった。その無防備な様に、牙を剥く者が、既にこの王宮のどこかに潜んでいる。
(第35話へ続く)
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