第28話:決戦前夜の告白
離宮の中庭。
夜風が、植え込みの葉を静かに揺らしていた。ランタンの明かりが、石畳の上に、いくつもの淡い輪を落としている。昼間の喧騒が嘘のように、あたりは静まり返っていた。
エレノアは、ベンチに腰かけ、夜空を見上げていた。まだ丸みを増しきらぬ月が、雲の合間からわずかに覗いている。
アルベルトが、静かに歩み寄ってきた。
「こんな時間まで、一人か」
「殿下」
エレノアは、驚いたように振り返り、それから小さく微笑んだ。
「少し、頭を冷やしたくて」
「隣、よいか」
「もちろんです」
アルベルトは、ベンチの端に腰を下ろした。二人の間に、しばらく静かな時間が流れた。虫の声だけが、遠くから聞こえてくる。
「近衛も、重臣も、民も。気づけば、随分と多くの支えができました」
エレノアが、ぽつりと切り出した。
「ですが、ジュリアン殿下の動きが読めない今、心のどこかで、まだ何かが足りない気がしています」
「不安か」
「はい」
エレノアは、正直に頷いた。
「儀式がうまくいく保証も、ジュリアン殿下が動く前にこちらが備えを終えられる保証も、どこにもありません。分かっているつもりでも、夜になると、こうして考え込んでしまいます。ここまで来て失うものを思うと、怖くなる時があります」
アルベルトは、しばし黙って、夜空を見上げた。
「わしも、同じだ」
やがて、静かに口を開いた。
「名君と呼ばれた頃も、迷いも恐れもなかったわけではない。ただ、それを表に出さぬことを、覚えただけだ」
「恐れることも、おありなのですか」
「当然だ」
アルベルトは、小さく笑った。
「わしとて、ただの人だ。国王の器を持って生まれたわけではない。迷いながら、間違えながら、それでも前に進んできただけのこと。恐れを見せぬことと、恐れを感じぬことは、まるで違う」
「思えば、遠くまで来たものです」
エレノアは、静かに目を細めた。
「私だけに真実を明かしてくださった、あの夜のことを、今でもよく覚えています。十三歳の頃のハンカチ、農政改革案の赤ペンの走り書き。あれがなければ、私は今も、信じられずにいたかもしれません」
「あの時のお前の顔を、わしは今も忘れられぬ」
アルベルトは、懐かしむように目を細めた。
「信じ難い話だったろうに、お前は、最後まで話を聞いてくれた」
「信じたかった、というのが、正直なところです」
エレノアは、小さく笑った。
「あの日から、随分と多くのことがありました。そして今、また一つ、大きな山を越えようとしています」
アルベルトは、静かに頷いた。
エレノアは、しばし黙り込んだ。それから、意を決したように口を開いた。
「申し上げたいことがあります」
「言ってみろ」
「私は、初めから、アデル殿下の婚約者として、この立場にありました。ですが、今、隣にいたいと願っているのは、その肩書きのためではありません」
エレノアは、一度言葉を切り、まっすぐにアルベルトを見つめた。
「共に過ごしてきた日々の中で知った、そのお人柄そのものに、惹かれているのです。中身がどなたであろうと、それは変わりません」
アルベルトは、しばし言葉を失った。ランタンの光が、エレノアの横顔を柔らかく照らしている。
「気の迷いであろう」
やがて、目を逸らすように言った。
「儀式を前にして、気が張っているのだ。落ち着けば、そのような想いは」
「気の迷いでは、ありません」
エレノアは、静かに、しかしきっぱりと遮った。
「そう仰りたいお気持ちも、分かります。ですが、これを気の迷いで片付けられるほど、私は軽い気持ちで申し上げたのではありません」
アルベルトは、逃げ場を失ったように、しばし黙り込んだ。
「その言葉、軽々しく受け取るわけにはいかぬ」
やがて、絞り出すように答えた。
「わしには、ヴィクトリアという妻がいる。この体を借りている、という以前に、わしという人間そのものが、すでに誰かのものだ」
「存じております」
エレノアは、静かに、しかしはっきりと言った。
「困らせるつもりで申し上げたのではありません。ただ、この気持ちを、無かったことにはしたくなかっただけです」
「それに」
アルベルトは、苦しげに続けた。
「儀式が成れば、わしは元の器に戻る。国王として、ヴィクトリアの夫として。お前と、こうして隣にいることも、叶わなくなる」
「分かっています」
エレノアは、目を伏せた。
「だからこそ、今、伝えておきたかったのです。全てが元に戻ってしまう前に」
夜風が、二人の間を静かに通り抜けた。
アルベルトは、しばらく黙り込んでいたが、やがて、低く、はっきりと言った。
「そうか」
「……はい」
「儀式の行方も、ヴィクトリアのことも、まだ何一つ、片付いてはおらぬ。何も片付いていないうちに、その言葉を受け取ってしまえば、それこそ不誠実というものだ」
エレノアは、しばし俯いた。
「聞かなかったことにしよう」
アルベルトは、静かに続けた。
「そうとでも思わねば、今のわしには、前を向く術がない」
「……承知しました」
エレノアは、やがて小さく頷いた。その声には、隠しきれない寂しさがあった。だが、アルベルトを責めるような色は、そこにはなかった。
「すまぬ」
アルベルトは、静かに頭を垂れた。
「謝らないでください」
エレノアは、首を振った。
「誠実に向き合ってくださったことは、分かっていますから」
二人の間に、それまでとは違う、気まずい沈黙が流れた。並んで座ってはいても、先ほどまでの穏やかさは、もう戻ってこなかった。答えを保留にされたまま、この夜をどう終えればよいのか、二人とも、測りかねているようだった。
「明日からは、また忙しくなる」
やがて、アルベルトが、努めて平静な声で言った。
「ジュリアンの動き、儀式の支度、そして陛下のこと。休んでいる暇は、恐らくない」
「分かっています」
エレノアは、静かに頷いた。
「先に、失礼いたします」
エレノアは、静かに立ち上がった。
「殿下も、あまり夜更かしはなさらないでください」
「ああ」
アルベルトは、短く答えた。
エレノアは、一礼して、離宮の中へと戻っていった。その背には、これまでのような軽やかさが見えない。
一人残されたアルベルトは、しばらく、夜空を見上げ続けていた。
夜空の月は、まだ完全な円には遠い。今夜のこの重さを、いつまで抱えていればよいのか、アルベルト自身にも見当がつかなかった。
嵐の前の、静かな夜だった。だが、その静けさは、決して穏やかなものではない。
(第29話へ続く)
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