第23話:エレノアの危機
王太子府、回廊。
朝の光が石畳を白く照らす中、エレノアは書類を抱えて足早に歩いていた。オーウェンの薬草園での進捗を確認し、その足で財務卿へ報告へ向かう途中だった。慌ただしい朝ではあったが、いつもと変わらぬはずの朝でもあった。
その行く手を、数名の兵士が塞いだ。
見覚えのない紋章を、胸に付けている。ジュリアンの私兵として組織された、近衛とは別系統の一団だった。
「エレノア・ハリントン公爵令嬢とお見受けする」
先頭に立つ男が、抑揚のない声で言った。
「同行いただきたい。ジュリアン殿下のご命令だ」
「理由をお聞かせください」
エレノアは、努めて平静に問い返した。
「グラナダの使節と、内密に接触した疑いがある。国家反逆の可能性ありとして、事情を伺うことになった」
兵士は、淡々と告げた。
エレノアの胸に、冷たいものが走った。あの礼拝堂での密会を、どこまで知られているのか。今は、判断がつかなかった。
「証拠は、あるのですか」
「それを確かめるための同行だ」
男が、一歩踏み出した。
「抵抗されるのであれば、力ずくでもかまわぬと命じられている」
エレノアは、退路を目で探った。だが、回廊の両端は、すでに兵士たちに固められている。
その時だった。
「そこまでにしなさい」
凛とした一言が、回廊に響いた。
振り返ると、ヴィクトリアが、女官を数名従えて歩み寄ってくるところだった。扇を閉じたまま、まっすぐに男たちを見据えている。
「王妃陛下」
兵士たちが、慌てて頭を下げた。
「第2王子のジュリアンに、王太子妃候補の身柄を拘束する権限などございません。まして、私兵ごときが独断で執行してよいものでは、決してありません」
ヴィクトリアは、静かながらも、有無を言わせぬ響きで告げた。
「殿下の御命令にございます」
「第2王子の命令であって、国王陛下の勅命ではないでしょう」
ヴィクトリアは、扇の先を男へ向けた。
「王家の者を拘束するには、然るべき手続きが要ります。それを飛ばしての実力行使は、越権にほかなりません」
男は、わずかにたじろいだ。
「ですが、証拠が」
「証拠があるというなら、正式な場で示しなさい。この場での連行は、私が許しません」
ヴィクトリアは、一歩も引かなかった。
「異を唱えるというなら、あなた方がジュリアンと共に、私の前で申し開きをすることになりますよ」
王妃の名を出されては、私兵たちに勝ち目はなかった。
男は、しばし逡巡した後、部下たちへ小さく合図を送った。
「……本日のところは、引き上げる」
兵士たちは、一礼して立ち去っていった。
その背が見えなくなると、エレノアは、詰めていた息を吐き出した。
「王妃陛下、ありがとうございます」
「礼はいい」
ヴィクトリアは、扇を開き、静かに扇いだ。
「それより、ジュリアンがどこまで掴んでいるのか、確かめておかねばなりません」
ヴィクトリアは、表情を険しくしていた。ディエゴとの一件は、ヴィクトリア自身も承知の上のことだ。だからこそ、それを嗅ぎつけられたという事実の重さが、余計に身に染みた。
二人は、人目を避けるように、離宮の奥へと歩き出した。
「私が礼拝堂を訪れたことまで、知られているとは思っていませんでした」
エレノアは、静かに言った。
「変装は、いつも通り徹底しておりました。にもかかわらず、です」
「内部に、誰かいるということですね」
ヴィクトリアは、低く呟いた。
「近衛か、女官か、あるいは……」
二人の間に、重い沈黙が落ちた。互いに、同じ可能性を思い浮かべているのが分かった。
「今後は、私にも動きを逐一伝えなさい。今日のようなことが、また起きぬとも限りません」
「肝に銘じます」
エレノアは、深く頭を下げた。
その頃、王太子府の執務室では、報せを受けたアルベルトが、こめかみを押さえていた。
「私兵を使って、正面から仕掛けてきたか。ヴィクトリアが止めてくれなければ、今頃どうなっていたか」
アルベルトは、低く呟いた。
そこへ、エレノアが駆けつけてきた。その声には、まだ緊張が残っていた。
「グラナダの一件、気づかれていたのですね」
「おそらく、確証までは掴んでいまい。だが、疑いだけで動く気になった、ということだ」
アルベルトは、低く唸った。
「あやつは、なりふり構わなくなってきている」
「これまでは、探るだけでした。ですが、今度は実力行使です」
エレノアは、表情を硬く強張らせていた。
「次は、もっと巧妙な、あるいはもっと強引な手を使ってくるでしょう」
「分かっている」
アルベルトは、窓の外へ視線を移した。
「エレノア、しばらくは一人で出歩くな。供を必ずつけろ」
「ですが、動きが鈍れば」
「命あってこその働きだ」
アルベルトの声には、有無を言わさぬ強さがあった。
「お前を失っては、元も子もない」
エレノアは、しばし言葉を失ったあと、静かに頷いた。
「……承知しました」
窓の外、朝の光は、いつの間にか翳り始めていた。
薄い雲が、太陽を覆っていく。
ジュリアンの牙が、ついに直接、こちらへ向けられた。
その事実だけが、重く部屋の中に残っていた。
(第24話へ続く)
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