第20話:平和協定の調印と罠
王太子府、執務室。
「グラナダ側から、正式な返答が届きました」
エレノアが、書状をアルベルトの前に置いた。
「調印式は、五日後。大聖堂にて、両国の代表が立ち会う形になります」
「早いな」
アルベルトは、書状に目を通しながら呟いた。
「ディエゴ殿が、本国を急かしてくれたのでしょう」
「借りが、また増える」
アルベルトは、短く笑った。だが、すぐに表情を引き締める。
「問題は、そこではない」
「陛下のことですね」
エレノアが、静かに言った。
「調印には、国王陛下の署名と、御璽が要ります。名代では済まされません」
「あやつを、五日で、大人しく式に出させ、しかも大人しく署名までさせる」
アルベルトは、こめかみを指で押さえた。
「言うほど容易いことではない」
「以前も、同じように説得なさいました」
「あの時は、三日の猶予を得るだけでよかった。今度は、頭を下げさせる話だ」
アルベルトは、椅子の背にもたれた。
「グラナダに屈したと取られれば、あやつは臍を曲げる」
「屈した、と思わせなければよいのでは」
エレノアの声に、わずかな企みの色が滲んだ。
「勝利、と思わせるのです。前回と同じように」
アルベルトは、しばし黙り込んだ。やがて、小さく頷く。
「祝宴、か」
「はい」
エレノアは頷いた。
「グラナダ側から、調印を祝う品として、東方渡りの珍しい酒と宝飾品を用意させます。陛下がそれを、自らの武勇の戦利品と思えるように」
「大使館には、無理を言うことになるな」
「ディエゴ殿なら、理解してくださるはずです」
二日後、アルベルトは再び国王執務室を訪れた。
人払いをさせ、扉の前で一度深く息を吸う。かつて何度も繰り返してきた儀式だった。
「陛下」
声をかけると、長椅子に寝そべっていたアデルが、億劫そうに顔を上げた。
「またお前か。今度は何の用だ」
「グラナダとの一件、正式に決着をつける運びとなりました」
アルベルトは、恭しく頭を下げた。
「五日後、大聖堂にて、調印の儀を執り行います」
「決着、ね」
アデルは、興味なさそうに酒杯を傾けた。
「向こうの言い分を、丸呑みするってことだろう」
アデルは、声を目に見えて尖らせた。
「関税を戻すだけならまだしも、俺に頭を下げろとでも言うのか。ふざけるな」
「頭を下げていただく必要はございません」
アルベルトは、あえて即座に答えた。
「陛下御自らが、頭を下げられることは一切ございません。宣誓の文言は、書記官が代読いたします」
「代読……俺は、何も言わなくていいのか」
「はい」
アルベルトは、はっきりと頷いた。
「陛下は、玉座にてそれをお聞きになり、最後に御璽をお押しいただくだけで結構です。堂々としたお姿を、諸侯とグラナダの双方に見せていただければ、それで十分にございます」
「戦を構えれば、こちらにも痛手は避けられません。それを承知の上で、あえて矛を収める。それができるのは、真に力のある者だけです」
アルベルトは、静かに続けた。
「グラナダ側も、それを承知の上で、和平の証として、東方渡りの酒と宝飾品を献上したいと申し出てまいりました」
「ふん」
アデルは鼻を鳴らしたが、口元は緩んでいた。
「まあ、俺が矛を収めてやるんだから、向こうも相応の礼はすべきだろうな」
「その通りにございます。ですが」
アルベルトは、あえて言葉を切った。
「陛下ご自身が式にお出ましにならなければ、この勝利は正式なものにはなりません。書面だけでは、後々『実は脅されて折れただけ』などと、心無い者に言われかねません」
アデルは、表情をぴくりと動かした。
「舐めた真似をした奴は」
「その時は、陛下の御名において、いくらでも罰することができましょう」
アルベルトは、静かに続けた。
「ですが、まずは陛下ご自身のお姿で、勝者としての格を、諸侯とグラナダの双方に見せつけていただきたいのです」
アデルは、しばらく黙って酒杯を弄んでいた。
「……面倒くせぇが」
やがて、投げやりに頷く。
「まあいい。行ってやる」
「かたじけのう存じます」
アルベルトは深く頭を下げながら、内心でようやく息をついた。
調印式当日。
大聖堂の内部は、諸侯とグラナダの使節団で埋め尽くされていた。
ステンドグラスから差し込む光が、石床に色とりどりの模様を描いている。
アデルは、正装に身を包み、玉座を模した席に座っていた。機嫌は、悪くなさそうだった。
アルベルトとエレノアは、少し離れた場所からその様子を見守っていた。
「今のところ、順調です」
エレノアが、小声で言った。
「ディエゴ殿の姿は」
「使節団の中央に。あちらも、緊張しておられるようです」
書記官が壇上へ進み出た。アルベルトが、あらかじめ整えておいた宣誓文を、朗々と読み上げていく。
「此度の関税をめぐる一件、我が国の対応に行き過ぎがあったことを、国王陛下の御名において、ここに認める」
「関税は元の定めに戻し、両国の誼を、あらためて結び直すものとする」
アデルは、玉座に腰かけたまま、退屈そうに献上品の卓へ目をやっていた。書記官の言葉など、右から左へ抜けていく様子だった。読み上げが終わると、差し出された文書に、大儀そうに御璽を押す。それだけで、彼の役目は終わりだった。
グラナダ側の使節団が、静かに頭を垂れる。長年の緊張が解けたことへの、安堵の色があった。形の上では王が非を認めての謝罪だったが、御璽を押すその一動作そのものが、いかにも寛大な王が争いを収めたかのような、堂々とした儀式に仕立てられていた。
アルベルトは、玉座を横目で窺った。アデルの興味は、すでに献上品の酒の方へ移っている。自分が何に署名したのか、恐らく本人はろくに分かっていない。それでいい、とアルベルトは思った。理解されては、かえって厄介なことになる。危うい綱渡りではあったが、少なくとも今のところは、狙い通りに事が運んでいた。
式典が進み、両国の書記官が条文を読み上げていく。アルベルトは、油断なく会場全体へ目を配り続けている。
その時、会場の隅で、給仕の一人が不自然な動きを見せた。
エレノアが、それに気づいた。
「あの給仕――」
「見覚えがない」
アルベルトも、視線を鋭くした。
給仕は、グラナダ側の献上品――酒の瓶が並ぶ卓へ、静かに近づいていく。
「毒か」
アルベルトは低く呟いた。
「まさか、この場で」
「陛下が口にする前に、止めねば」
二人が動き出そうとした、その瞬間だった。
「そこの者、動くな」
声の主は、近衛隊長ランバートだった。
いつの間にか給仕の背後に回り込み、腕を捻り上げている。
「な、何をする! 俺はただの給仕――」
「給仕が、腰に短刀を仕込むか」
ランバートは、抵抗する男の懐から、小さな刃物を引き抜いた。
「毒の類も、後で調べさせてもらう」
会場が、にわかにざわめいた。
アデルが、玉座もどきの席から身を乗り出す。
「何事だ!」
「陛下、ご安心を」
ランバートが、片膝をついて答えた。
「不審な者が紛れ込んでおりましたが、事なきを得ました。式典は、このまま続けられます」
その言葉に、会場の空気が、少しずつ落ち着きを取り戻していく。
アルベルトは、エレノアと視線を交わした。
「間一髪だったな」
「はい」
エレノアの声には、まだ緊張が残っていた。
「あの給仕が誰の差し金か、調べる必要があります」
「聞くまでもない」
アルベルトは、会場の奥、諸侯たちの列の中にいるジュリアンへ、視線を向けた。
ジュリアンは、涼しい顔で式典を見守っている。何事もなかったかのように。
だが、その視線が一瞬だけアルベルトと交わった時、口元にわずかな苦笑が浮かんだのを、アルベルトは見逃さなかった。
式典は、その後何事もなく進み、両国の代表による調印が滞りなく終わった。
アデルは、上機嫌で献上品の酒に口をつけていた。危険な瓶はすでに回収され、別のものにすり替えられている。
「これで、当面のグラナダとの戦は避けられました」
王太子府に戻ってから、エレノアが静かに言った。
「だが、ジュリアンは、今日の失敗を教訓にするだけだろう」
アルベルトは、窓の外へ目をやった。
「あやつは、これしきで諦めるような玉ではない」
「証拠は、掴めそうにありませんか」
「あの給仕も、口を割らんだろう。おそらくは、末端の駒に過ぎん」
アルベルトは、静かに息を吐いた。
「だが、確かなことが一つある」
「なんでしょう」
「ジュリアンは、もう手加減する気がない」
窓の外、夕暮れの光が、王都の屋根を静かに染めていく。
平和は、かろうじて守られた。
だが、その裏で、次の刃はすでに研がれ始めていた。
(第21話へ続く)
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